第八十九話 祝宴
ファニュ=ブラムスの任務達成から一年余りが経とうとしていた。
一巡りした季節はきらびやかな首都に青葉風を連れて帰ってきたようだった。
生憎と、首都では青く繁る木々よりも高楼が聳える数のほうが多い。だが、その麓には花と見紛う貴婦人たちが可憐に咲き誇っている。
薄紅色や花緑青色など、女性に人気の柔らかなドレスが百花の様に舞う中、一際エリシュカの目を惹いたのは薄青の絹のドレスに檸檬色の紗のショールという取り合わせである。
昨年までの流行りであった尻を強調する型もやや下火になり、細い腰を強調する型が台頭し始めた。より軽やかで流線的な造形は女性的で美しい。まるで神話に登場する妖精のようだった。
「素敵……」
エリシュカの焦茶色の目が、着飾った上流階級の女性を追う。が、すぐに気まずそうに瞳を逸らした。
彼女がいつぞや社交界でアルフレートの妹であるエリシュカを目の敵にしてきた令嬢だと気付いてしまったからだ。
馬車回しから馬車がやって来るのを待っているのだろうか、彼女はぼんやりと一点を見つめたままエリシュカに注意を払うことすらない。
勿論、貴族である彼女が平民のエリシュカに声を掛けてくるはずがない。彼女にとって吸血鬼狩りとなり戎衣を着たエリシュカは、そもそも気にかけるべき相手ですらなくなっている。
それでも、エリシュカは彼女の顔を見られなかった。今ですら、喉がきゅうと締まって呼吸が苦しい。人で溢れた大通りにも関わらず、足が止まりそうになる。
──あァ? もしかして、お前まだ社交界なんぞに未練があるのか? 平民になってもう一年が経つっていうのによォ。
エリシュカの頭の中で意地悪く茶化す声が響いた。神の“御使い”を名乗る胡乱な上位存在は、一年という時を経ても尚エリシュカに対して辛辣である。
──そういうわけじゃない。……ただ、少し兄様のことを思い出しただけ。
太陽の二つ名を恣にし、社交界の頂点に君臨していた兄──アルフレート・カタルジュの行方は杳として知れない。生きているのか、死んでいるのか──それすらも分からぬまま、エリシュカは一年という時を無駄にしてしまったのだ。
無能という二文字がエリシュカの脳裏をちらつく。しかし、鬱々とした気分を払拭したのは、意外にも“御使い”──アレスである。
──は。無能な女が私の加護があるとはいえ、吸血鬼相手に一年間生き延びられるワケがねェだろ。
予想外の慰めに、エリシュカは一瞬足を止める。しかし──上位存在というものは下々を理解し得ないというのが世の常だ。
──そんなことよりも、今日はお前の祝宴だろうが。馬鹿みてェにウジウジして歩みを止めンな。さっさと店に入れ。
今度こそ彫像の様に固まってしまったエリシュカに、アレスは続けた。
──宴なんだろ? 砂糖たっぷりの珈琲は出るのか? ん?
「もう…………本当に、あなたって人は……!」
往来で思わず叫んだエリシュカを、周囲の人間が何事かと振り返った。身分や年齢の差を問わず注がれる好奇の視線に、慌ててその場から駆け出したのは言うまでもない。
■□■
好奇の視線から逃れたエリシュカは、ある一軒の大衆食堂に飛び込む。それほど大きくはないものの、白い煉瓦の壁とこの辺りでは珍しい群青色の屋根がよく目を惹いた。振り注ぐ陽光を弾いて、深い遠洋の海のような色味になるのをエリシュカは目を細めて見る。
一年前、吸血鬼狩りの道を拓いてくれた師とも呼ぶべき男、ヴィタリーに教わった食堂だが、そんなエリシュカも今では顔馴染みの一人だ。
エリシュカが扉を開けると、ちりんと涼やかな鐘の音が鳴る。松材の対面席にいる店員がにこやかに笑顔を向けると同時に、奥の半個室からひょっこりと赤毛の娘が顔を覗かせた。
「あ、やっと来た!」
同僚のイリーナである。一拍遅れて双子の妹であるソフィアも入り口のエリシュカをあたたかな笑顔で出迎える。
「漸く今日の主役が来ましたね」
「もう、待ちくたびれちゃったよ!」
ごめんなさい、と言いながらエリシュカは彼女達の囲む卓へと急ぎ向かう。が、そこに漂う静かな熱気に、エリシュカは目を瞬かせた。
そこにはヴィタリーだけでなく、アイザック、フローリアンの姿もあって、かなりの大所帯である。ヴィタリーを筆頭に背丈の大きい男が三人横並びになるといかにも窮屈そうで、エリシュカは少し噴き出しそうになった。
「ヴィタリーさん、フローリアン……アイザックも!」
この一年間でエリシュカと先達である彼らの間にあった温度差は完全に均されて、いい意味で遠慮はなくなっていた。尤も──親子ほど年齢の離れたヴィタリーに関してだけは、その限りではなかったが。
そして、最も体格のよいヴィタリーが、遠慮がちに肩を竦めながら手を振るものだから、ついにエリシュカは笑ってしまった。
「よぉ、エリシュカ。初めて任務をこなした日からもう一年が経つんだってな。おめでとさん! 本当に……よく生き延びてくれたもんだ」
──あァ? 私が力を貸しているんだぞ! 当然だろォが!
エリシュカは頭に響く声を黙殺しながらイリーナに促されて空いている一番奥の席に座った。正面の窓から外の景色が眺められる、かなり席を用意してくれたようだ。
「お久しぶり。……みんな忙しいはずなのに、態々集まってくれたの?」
エリシュカの言葉に、真向かいに座っていたヴィタリーが笑った。
「エリシュカは普段ロイの奴と組んでるからなぁ。こんな機会じゃなきゃ、俺はともかく他の連中とはじっくり話す機会もないだろう?」
うむ、とヴィタリーの隣に座るアイザックが頷く。
「何はなくともまずは近付けなければ、いつまで経っても“使徒”と死合が出来ないからな」
アイザックの隣に座るフローリアンが、かく、と脱力したように頭を垂れる。
「……それ、まだ諦めてなかったんだ、アイザック」
アイザックは愚問と言わんばかりに凛々しい眉を寄せ、松材の卓を叩いた。
「当然だろう! 銀になってからというもの、強者と手合わせする機会など早々無いのだぞ! 全く……階級が上がるというのも考えものだな」
エリシュカの隣にいたイリーナが、にやりと笑った。
「へへ。アイザック……あたしでよければ相手になるけど?」
ヴィタリーとフローリアン、そしてアイザックの階級は最上位の銀であり、イリーナとソフィアはそれに次ぐ黒の地位にいる。階級こそ下だが、殊イリーナはアイザックをも上回る怪力であるという噂も実しやかに囁かれている。
アイザックは渋い顔で、重苦しく溜め息を吐く。
「……お前は駄目だ。せめて銀になってから出直して来い」
「なんでぇ?!」
「……お前ら、血の気が多すぎねぇか?」
ヴィタリーの呆れ声に、フローリアンが笑う。
「そうかなぁ? この二人はこれくらいやんちゃな位が、可愛げがあっていいと思うけど」
ヴィタリーがアイザックの腕を肘で小突いた。
「おい、アイザック。年下がお前のこと可愛げがあるってよ。よかったな」
「うむ。二十八の男に言うセリフではないな」
「……あたし、今アイザックと同列で纏められた?」
卓を挟んで喧々囂々と行われる舌戦に処置なしとばかりにイリーナの向こう側に座るソフィアが肩を竦めた。
「……エリシュカさん、うるさくてすみません。特に姉さんは本当に子供っぽくて……」
「……それ、遠回しにアイザックやヴィタリーさんたちも子供っぽいって言ってる?」
ソフィアは口元をそっと手で押さえ、楚々として笑う。
「まぁ。ふふ、エリシュカさんたら、穿ちすぎですよ」
喧騒に呼び寄せられたかのように、一人の女性配膳人が卓に近寄ってきた。
女は長い黒髪を頭頂部でまとめており、美しいがどちらかといえば凛々しいと評される顔付きである。女は洗い立ての白い襯衣と深緑色のロングスカートに白い前掛けを纏っている。
エリシュカは、女が警告に来たのかと緊張したが、そうではなかった。女性配膳人は両手に持った盆にどうやって均衡を保っているのか不思議なほどの皿を載せており、器用に卓に盆を置いた。
端に座っていたソフィアやフローリアンが手を出すまでもなく、てきぱきと小皿や大皿を卓に並べていく。
「フィリカさん、こんにちは。すっかり女性配膳人が様になって……貴女が吸血鬼狩りをやめてもう一年ですか」
ソフィアにフィリカと呼ばれた黒髪の女は、にっと人懐っこい笑みを浮かべた。




