番外編① 第五話 捨て鉢を拾う者
「まぁ。一度は承諾した話を──しかも結婚という重要な話を今更断りたいだなんて。セザール様はどうやら私に恥をかかせたいようですね」
事前に結婚の打診をしていたことも、セザールが承諾したこともオクタヴィアンは初耳である。思わず腰を浮かして、病床のセザールを見る。
「そうなのか、セザール? 婚姻を承諾したのか?!」
「……っ、い、え……その、つもりは……」
セザールは目を見開き、否定しようと首を捻る。
食い違う二人の証言にオクタヴィアンは再びマチルダを振り返った。
マチルダは一瞬気まずそうに眉を寄せたが、居直ったようにつんとすまし顔になる。
「……まぁ、最初にお話しさせて頂いた時、セザール様の意識は多少朦朧としていたかもしれませんが」
オクタヴィアンの額の皺が一瞬険しさを増す。その言い訳がするりと出るなら、マチルダの交渉は強権的かつ確信犯的だ。
だが、断固として主張を通そうという我欲の裏側にはセザールに対する慈愛が確固として存在するが故に、オクタヴィアンとしては厳しく叱責することは憚られた。
「恥、かかせるなど……」
舌がもつれて言葉が出てこないのだろう。セザールは喉を押さえてもどかしそうに咳払いをする。
「わ、わたし、は……、……くっ……」
遂には喉を掻きむしり始めたセザールの手に、マチルダはそっと自分の手を添えた。
「ごめんなさい、先ほどは意地悪なことを言いましたわ。貴方の言葉は全てお伺い致しますから……どうか落ち着いてください」
セザールはまだ落ち着かぬように視線を彷徨わせている。彼の心をざわつかせているのは、思いがけず再び振って湧いた結婚話のせいか。それとも、優しく添えられたままのマチルダの手の温もりのせいか。
「私は……マチ、ルダ、さま、に、いえ、誰にも……迷惑を、かけたく、ない」
いや、とセザールは静かに訂正する。
「この、あ、あ、有様では、い、生きていても……仕方が、ない」
言葉を選ぶ余裕すらないのか、敬語も配慮も削ぎ落とした言葉はオクタヴィアンの胸を抉った。折角命を拾ったというのに、セザールは未だに死を見つめている。自ら、捨てようとしている。
「何ですって……?」
マチルダの声は震えていた。ぎょっとしたオクタヴィアンがマチルダを見れば、普段は厳しく整った顔を真っ赤に染め、紫紺色の瞳を怒りで鮮烈な色に染め上げている。
「何ということを仰るの! 生きていても仕方ないなんて、よくも言えたものね!」
マチルダは拳を握り上から下へと何度も打ち下ろす。柔らかの羽毛布団に当たって、ばふんと気の抜けるような音がした。
その拳がセザールの腕の近くに振り下ろされ、オクタヴィアンは慌ててマチルダの腕を掴んだ。
老いているとはいえ、淑やかな女性の動きを止めるくらいは容易い──そう高を括っていたオクタヴィアンだが、それこそ容易くマチルダに手を跳ね除けられ愕然とする。
マチルダは病床から動けないセザールに覆い被さるように両手を寝台につき、憎々しげに睨みつける。
「貴方が私を部屋にいろと仰って下さらなかったら、今そこで動けなくなっていたのは貴方ではなく、私だったかもしれないのですよ?!」
マチルダは右手の拳を握り、枕元に握り拳を振り下ろす。ベッドの発条がぎしりと軋む耳障りな音がした。
「動けなくなった私に、貴方は同じことを言えますか!? その有様ではもう貴女には生きる価値などありませんねと!?」
セザールはマチルダの拳が振り下ろされる度に、両目を眇める。
オクタヴィアンは再び激しい怒りに呑まれたマチルダを止めるか否か、情けなくも逡巡するしかない。
「それとも、私との結婚がお嫌だからそんなことを仰るの? …………いえ、まぁ、お嫌でしょうね。初婚なのに、お慕いしている方ですらない、十近く年上の女が相手なんて」
セザールは必死で首を振る。急に動いたためか、それとも焦りのためかセザールの肌は汗でしっとりと濡れているようだ。
マチルダはそれを見て、漸く正気を取り戻したらしい。ぱっと上体を起こすと、寝台脇机に置かれたタオルでそっと額に浮かぶ玉のような汗を拭った。
「……セザール様、貴方に必要なのは真実の愛ですか? 家ですか? ……違うでしょう? 常に身の回りの世話をし、療養に根気強く付き合える人間が必要なはずですわ」
「ま、マチルダ様……それで……そのためだけのためにセザールとの結婚をご決断なさったのですか?」
「当然です」
結婚という契約を交わしていない男女の同居に世間の目は冷たい。
そればかりではなく、クリステア王国では富の分配は男に大きく傾いている。夫が妻を養って当然──その常識に支配された国で、無職となった男を伴侶に選ぶ女はいない。それでもよいと言う奇特な娘がいたとしても、苦労すると分かっている男の元に娘を嫁がせようとする親がいるものか。
そう──マチルダ以外は。
マチルダはふと柔らかく微笑む。
「きっと、あのお嬢様に長年お付き合いするよりはずっと楽でしょうね」
オクタヴィアンとセザールは一瞬呆け、噴き出しそうになるのを辛うじて口を噤んで堪える。
今でこそ淑やかな令嬢として健やかに育ったものの、幼少期のエリシュカは馬に乗り、剣に見立てた木の棒を振り回し、兄の軍の旗手になると言って憚らなかった。
エリシュカの両親と兄はエリシュカを軍属にさせるつもりはなかったため、大人しくさせるのに手を焼いていたのをオクタヴィアンはよく覚えている。
オクタヴィアンの記憶では雇われたばかりのマチルダは、根気強くも優しく諭して注意していたはずだ。だが、ある日、体力作りと称して木に登りドレスを破ったエリシュカを前に、ついに堪忍袋の緒が切れた。
マチルダは大人気なくも馬術や体力面でエリシュカに勝る部分を見せつけ、徹底的に彼女の鼻っ柱を叩き折ったのだ。
──ああ、この方に託せば、セザールはきっと大丈夫だ。
オクタヴィアンは肩の力を抜き、椅子に座り直した。
「……お嬢様から、セザールのための住宅の手配と退職金を用意せよとのことでしたので、既に手配しております。セザールは年の割には若々しく、まだ結婚の可能性もあると思い、独身用ではなく少し広めの物件を押さえたのですが、お役に立ちますでしょうか」
「素晴らしい」
「お、オクタヴィアン様……」
セザールの咎めるような視線に、オクタヴィアンは「もう何も言うな」と嗄れた声に秋霜の厳しさを纏わせる。
「お前はまだ若い。容易く人生に絶望するな。お前には支えてくれる人間がいるのだから」
オクタヴィアンはマチルダに頭を下げる。
「セザールは私の後継に、と望んだことすらある男です。どうか……彼をよろしくお願い致します」
後半へ続く……
後半執筆は第四部完結後予定




