番外編① 第三話 卑怯者の涙と献身※
マチルダは自室で荷物を纏めていた。勿論、吸血鬼に狙われ、首都へと逃げるエリシュカの随行を果たすためだ。
ドレスと下着が数着に、お気に入りの詩集を一冊──女の盛りを過ぎたマチルダにとって逃避行のお供はこれだけで十分だ。足りないものは現地で買い揃えればよい。
マチルダは恐怖と共に女の鎧を旅行鞄に詰め込んで、寝台に腰掛ける。ひっつめ髪を解き、うつむいたまま顔を両手で覆った。
吸血鬼に狙われているらしい令嬢に付き従って首都へ逃げ込むなど、どう考えても無謀だ。無事に辿り着けるだろうか。否──生き延びることが出来るかすら分からない。
今からでも夫の墓前に今日の無茶苦茶な出来事を報告し、守ってくれと泣きつきたいくらいだ。そんなことを考えてマチルダは苦笑する。
十も年の離れた夫はマチルダを愛してはいなかった。小賢しい、愛嬌のない悪妻だと罵られた日々も、今となっては褪せた一葉の写真のように古ぼけている。
亡き夫が、不満しかなかった妻の願いを聞き届けることはないだろう。いっそのこと、天の国に連れて貴方に逢いたいと言えば──可愛げのあるところを見せればマチルダの願いを叶えてくれるのだろうか。
『ばかみたい……』
その時だった。マチルダの耳と平穏を破壊するような鋭い銃声がヴィスコル城に響いたのは。
『ひっ……!』
夫が所有していた株が全て紙屑になった数年前のあの日──マチルダは似たような音を屋敷で聞いた。
夫の部屋に駆け付けたマチルダを待ち受けていたのは、斑に赤く染まった部屋と力なく投げ出された夫の遺体だった。特に、拳大の穴が穿たれた頭部は妻をして正視に耐えうるものではなかった。
『──いや!』
マチルダは息を呑み、がたがたと震えた。細い指で何とか壁を伝い、よろよろと扉に向かって歩き出す。
『お、お嬢様……お嬢様……!』
今のマチルダはただ夫の死に嘆き悲しんでいればよかった頃の有閑夫人ではない。職業婦人として、付き人の役目を果たさなければならなかった。
──まず、お嬢様のご無事を確認して、それから、それから……安全な場所まで随行しないと。
だが──もしも雇い主のアルフレートが死亡していればマチルダの献身は一切が無駄になる。
マチルダの足がぴたりと止まった。
──それなら……いっそのこと、逃げたほうがましなのでは?
マチルダは自身の中で生まれた残酷な誘惑に慄いたように肩を震わせた。
──逃げる? 二回り以上年の離れた令嬢を見捨てて?
マチルダは自身の怯懦を振り払うように両手で頬を叩く。ばちんと鋭い音共に顔の下半分がひりついた。
──ダメ……! 絶対にダメよ!
人間には生存本能があり、マチルダが生存本能の甘い誘惑に心を傾けること、それ自体は罪ではない。
だが、現実とは非情なもので、この世界には身分という絶対的な命の優先順位が存在する。今をときめく辺境伯家の令嬢と子爵未亡人のマチルダでは命の重みは違うのだ。
もしここでエリシュカを見捨て、万が一にも亡くなった場合マチルダは解雇されるだろう。そして、マチルダの悪評はたちまち広まり、次の働き口は固く閉ざされる。
マチルダは働かなければ生きていけない。
そもそも、未亡人の人生の食い扶持は亡き夫の遺した財産に依存する。亡き夫が遺したのは紙屑同然の株と借金だけだ。手元にあった現金は殆どが返済に消え、いくつかの不動産だけが辛うじて手元に残った。
しかし──それだけでは貴族らしい生活を維持するには全く足りなかったのだ。マチルダが貴族としての矜持を満たしながら生活するためには、付き人の職に縋り付くしかない。
『──行くの……行くのよ!』
覚悟を決めたマチルダが廊下に出る。その時、階段を駆け登ってきたらしいセザールと目が合った。どうやら銃声を聞き付けてエリシュカを元へと駆け付けて来たようだった。
セザールはマチルダの怯えた様子を見て、哀れんだのか──それともエリシュカ救出の役には立たないと切り捨てたのか。今となっては彼の心情など分からないが、彼は開口一番『なりません』と言った。
『マチルダ様、どうかそのまま中へ。お部屋から出られませんよう!』
『し、しかし、今……じゅ、銃声が……!』
セザールが、皆まで言わせず、マチルダの部屋の扉を開け、その背中を押して中へと誘導する。
『なりません。息を潜め、隠れてください。鍵も掛けて──誰かが開けようとしても絶対に開けないでください』
『で、でも……お嬢様が……』
『お嬢様は私が必ず逃がします! 失礼!』
言うが早いか、セザールはマチルダの部屋の扉を閉じた。
マチルダは弾かれるようにドアノブに縋り付き、震える手でつまみを捻って扉に鍵を掛ける。
『あ……』
マチルダは自分のしでかした事に気付くと、その場で泣き崩れた。
『あぁ、そんな……ダメよ……! 私はなんて卑怯なの!』
廊下がにわかに騒がしくなり、マチルダは耳を両手で塞ぎ、床に頭を擦り付けた。何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。これが現実だとは到底認められなかった。
そうして暫く経ったあと、マチルダの部屋の扉からかちり、と冷たい金属音が聞こえた。
『…………誰?』
マチルダは身を固くする。誰が来ても開けてはならないとセザールが言っていたのに、外側からの侵入を許そうとしている。こういう場合、どうすればいいのだろうかとあちこちに視線を彷徨わせた。
尤も、マチルダの心配は杞憂に終わった。入ってきたのは恐るべき吸血鬼ではなく、褐色の髪に白いものが混じり始めたふくよかな女性だった。
『まぁ、マチルダ様……!』
女は心底驚いたように声を上げる。彼女はカタルジュ家のあらゆる部屋の鍵を預かる家政婦である。
オクタヴィアンの奥方らしく、おっとりとしているように見えて芯の強さが灰青色の目に宿っている。
どうやら、マチルダの姿がないことを心配し、合鍵を使ってマチルダの部屋の扉を開けたらしい。
部屋に閉じ籠もり動けない状態のマチルダを家政婦は決して責めなかった。
『ご無事ですか? さ、お立ちになって……』
家政婦の少し節くれだった手に支えられマチルダは部屋から助け出された。
だが、廊下に出た瞬間にオクタヴィアンと侍医の姿を見た瞬間には、流石の彼女も俯くしかなかった。
『マチルダ様……ご無事で……』
『よかった……』
老人たちの心底安堵した声色に、マチルダは胸を痛めた。
何故この城の使用人たちはマチルダを責めないのだろう。いっそ、職務怠慢を指摘されれば平謝りすることも出来る。それさえ許されず、マチルダは微かに残された良心が咎めるばかりだ。
『……っ、あの……セザール様は……ご無事なのですか……?』
本来ならば、まず最初に主であるエリシュカの安否を気遣わなければならないのに、マチルダは最早自分の心を誤魔化すことは出来なかった。
しかし、セザールの名を口にした瞬間、オクタヴィアンと侍医が息を呑む。
その表情に嫌なものを感じて、マチルダは二人を掻き分けるように通り過ぎると、エリシュカの部屋に押し入る。
主の部屋の中で倒れているのはエリシュカだけでは無かった。見知った侍女だけでなく、見慣れぬ大男の姿もある。まじまじと観察し、昼間に女子修道院で見かけた瀕死の吸血鬼狩りだと漸く気付いた。
『彼は……そう、彼が……お嬢様を助けてくれたのね』
高熱で浮かされていた彼がよくもここまで単騎で乗り込んだものだと感心した直後、最も見たくなかったセザールの無残な姿を発見した。
『せ、セザール……様……』
セザールは侍医による手当てを受けてはいたが、頭部と足に巻かれたガーゼや包帯には既に血が滲んでおり、無造作に床に寝かされた状態であった。
明らかにセザールは重体である。侍医はそれを知りながら何故放置しているのか。
マチルダは侍医を振り返り、肩をいからせながら太った男に詰め寄った。
『どうしてセザール様を寝台に運ばないのです?!』
『か、彼は自力で立てないのです。座位姿勢すら保てず……頭部に何らかの障害を負った可能性がありまして……』
だからこそ、むやみに動かせないと侍医は言い訳がましく唇をもごもごと震わせる。
『それにしたって、寝台に寝かせるくらいは……』
『ここはお嬢様のお部屋……勝手に寝台を使うわけには参りません』
『でしたら! 私の部屋を使ってください!』
『ま、マチルダ様!』
オクタヴィアンが咎めるような声を上げる。
本来、未亡人が独身の男性と同室で過ごしたと噂が立てば、再婚はおろか社交界の全ての女性にも嫌厭されかねない醜聞だったからだ。
『し、しかしですな……』
いえ、と家政婦は首を振る。
『皆様、ここはマチルダ様のご厚意に甘えましょう。私とてセザールをこのままにしておくのは忍びないわ』
こうして、セザールはマチルダの自室に慎重に運び込まれた。
部屋主であるマチルダが看病を一手に引き受けるのは当然の流れであり、それは今日に至るまで一日も欠かさずに続けられて来たのである。




