番外編① 第二話 恩人の横顔
「どうぞ、お掛けになって」
マチルダはダンスに誘うような優雅な手つきで、オクタヴィアンに椅子に掛けることを勧める。
オクタヴィアンはやんわりと辞去しようとしたが、ふと考え直して厚意に甘えることにした。頑迷に老いを認めず、他者の厚意を無碍にする老人ほど可愛げのないものもない。
「高貴な方を差し置いて着座する無礼をお許し下さい」
オクタヴィアンは頭を垂れた後、勧められた椅子にゆっくりと腰を下ろした。
家令は使用人筆頭と言えど、オクタヴィアンは所詮平民の出であり、対するマチルダは子爵未亡人である。彼女に対する言動には常に気を配らねばならなかった。
「いいえ、無礼などとんでもないことでございます。……折角失わずに済んだお命ですもの。お身体を厭わなくては」
マチルダの紫紺色の瞳からは普段の厳しさが削げ落ち、老境の使用人に対する同情と敬意が渾然と融け合っている。
オクタヴィアンは年相応に窪んだ眼窩に、深い皺と諦めを刻んで微笑んだ。
現在、オクタヴィアンの仕事量は普段の半分程に抑えられている。しかし、新たな辺境伯が任じられれば、滞っていた仕事が一気に押し寄せてくるだろう。その時に、老家令が体力の消耗に耐えられるかどうか──そこがオクタヴィアンの家令人生の分水嶺となる。
「此度はマチルダ様に御礼を申し上げたく、この様に罷り越した次第でございます。家令の仕事の補助を引き受けて下さるばかりか、日夜問わずセザールの看病まで……このご恩、不肖オクタヴィアン生涯忘れは致しません」
オクタヴィアンは左腕に障りのない程度に頭を下げる。
マチルダは同じくアルフレートに雇われる上級使用人であるとはいえ、本来ならば、今日この日まで城に残る必要すら無かった。
実際、アルフレートが吸血鬼に堕ちたその日、カタルジュ家に見切りをつけて職を辞した者も少なくはなかった。
マチルダは首を振る。
「私は……寧ろ潔く職を辞さねばならなかった人間ですわ」
オクタヴィアンは顔を上げた。マチルダの顔には苦い後悔が張り付けられている。そこにエリシュカを厳しく叱りつけ、愛を持って指導を行ってきた才媛の面影はない。
「あの夜──旦那様が吸血鬼に変じてしまった時……本来ならば、私がお嬢様の危機にいの一番に駆け付けなければなりませんでしたもの」
その言葉で、オクタヴィアンは思い出したくもなかった悪夢に一瞬気を取られる。不必要に力を入れたつもりもないのに、折られた左腕がじくりと痛んだ。
冷たく青褪めた、月の美しい夜だった。
アルフレートが夜叉となり、カタルジュ家が断絶したあの日、負傷したオクタヴィアンの最後の記憶は泣きそうなエリシュカの顔と、必死に主家の娘を守ろうと立ち回るセザール、そして慣れぬ武器を手に取る侍女のネリーの献身であった。
そこに、マチルダの姿はなかった。あの夜のような危急があればすぐ駆け付けられるように、とエリシュカの部屋の隣に個室を与えられたにも関わらず、マチルダが付き人としての務めを果たすことは、ついになかったのだ。
「それなのに、私は自室に閉じこもり、震えるばかりだった。……危急の事態に……いえ、危急の事態だったからこそ──自らの保身に走るなど、付き人失格です」
マチルダの声は恐怖ではなく、後悔と自罰の響きを持って震えている。
オクタヴィアンは瞑目した。
彼女の言葉はどこまでも正しい。付き人失格という言葉も、残念ながら、正しい。
「だから……お嬢様のご出立にも立ち会われなかったのですか?」
マチルダは自嘲するように口の端を歪めた。
「今更、どのような顔をしてお嬢様にお会いしろと? 淑女たれと厳しく指導してきた女が、我が身可愛さに教え子を見捨てたのですよ?」
マチルダはオクタヴィアンから目を逸らし、窓を見る。エリシュカは残滓すら残さずにヴィスコル城を去った。今更その痕跡を探すべくもない。
ただ、エリシュカとの関係の清算をさも当然のように語る口とは裏腹に、マチルダの発する言葉の端々には愛執と哀愁が色濃い。
「……お嬢様もそんな女に会いたくはないでしょう。本来ならば、私はこの城に残るべき人間ではありません」
そんな、とオクタヴィアンが呟く声に、マチルダは静かに声を被せる。
「私には最早……家庭教師や付き人として働く資格すらないのですから」
マチルダの悲壮な覚悟を受けて、オクタヴィアンはごくりと喉を鳴らし、膝に乗せた右手を一瞬強く握った。
「まさか……完全に職を手放されるおつもりですか?」
はい、とマチルダの声は低いが、きっぱりと断言する。
「何故……マチルダ様ほどの才媛ならば、引く手数多でありましょう」
「そもそも、お嬢様には紹介状を書いて頂いておりませんから」
使用人が解雇、または雇用期間を満了した折には雇い主から給金と共に紹介状を受け取るのが慣例である。
紹介状とは先の主人が使用人の能力や人柄を保証するものであり、使用人は必ずこれを求職先に提出しなければならない。万が一紹介状を用意出来なかった場合は、生涯に渡って使用人として働くことは出来なくなる可能性が高い。
何故なら、紹介状を書いてもらえないというのは先の雇用主との関係が修復不可能であるほどに拗れたか、著しく能力が低いかのどちらかだったからだ。
「何故そのようなことを。お嬢様は、マチルダ様が次の辺境伯家にお仕えするものとお考えだったはずです」
マチルダは口元を軽く押さえてころころと笑う。
「まぁ、それは買い被りすぎですわ。オクタヴィアン様と違って、私は替えの利く存在ですもの」
ですが、とマチルダは呟き、オクタヴィアンから眠るセザールへと視線を移す。静かに眠る男の顔を慈愛深く見つめる。
「ここを去るにしても、彼には……彼に救われた恩だけは必ず返さなくてはならないと思ったのです」
「救われた……恩? セザールに……ですか?」
困惑するオクタヴィアンに、マチルダは静かに頷く。
脳裏に浮かぶのは、あの夜の切羽詰ったセザールの表情であった。




