番外編① 第一話 主無きの城塞、残された者たち
「いってきます──!」
少女の軽やかな声が、雲一つない蒼穹に還ってゆく。
昨日まで高位貴族の令嬢であったこの少女は喪服を脱ぐ暇もなく、身分を剥奪されて今まさに城から放逐されようとしていた。
当主であるアルフレートの吸血鬼化と継嗣の不在により家門が断絶したせいだ。エリシュカの家門──カタルジュ辺境伯家は女系継承の免許を持たず、王室はエリシュカによる爵位継承と家門存続をついに許すことはなかった。
エリシュカが一介の気の弱い令嬢ならば市井に下りることすら拒否して、修道院に閉じ籠もっただろう。だが、彼女は自らに課された運命から逃げなかった。
エリシュカは吸血鬼となったアルフレートを取り戻すために吸血鬼狩りを志願し、今は連れの吸血鬼狩りと共に首都へと向かう所である。
馬車回しでは、手配された辻馬車がエリシュカが乗り込むのを静かに待っていた。辺境伯家の令嬢には相応しくない、小さく粗末な馬車である。そもそも、女性が客車に乗り込むというのに馭者に積極的に手を差し伸べる様子がないというのも、庶民的で全く洗練されていなかった。
その寂しい門出を見送っていた家令は、切なく双眸を細めた。
オクタヴィアンは上質な午前の礼装に身を包んではいたが、濃紺の上着は袖を通すことなく両肩に羽織っているだけだ。その左手は未だに痛々しい包帯が巻かれており、白い巾で固定されている。
アルフレート吸血鬼化の折に負った負傷だ。職務遂行を阻む苛立ちは勿論のこと、エリシュカが最後まで気に病んでいたのがオクタヴィアンには心苦しく、申し訳なかった。
──それでも……長らく気鬱で塞がれていたが、漸く笑顔を取り戻されたようで……よかった。
エリシュカは憂いを湛える横顔ですら大層美しかったが、最後の思い出が喜色に綻ぶ表情であったことは、素直に嬉しいとオクタヴィアンは思う。しかし、この愛らしい少女にはもう二度と見えることがないのだと思うと、空風に身を切られたように寂しい。
生まれてこの方、重い荷物など持ったことのないエリシュカは旅行鞄を重そうに引きずっていたものの、ヴィタリーの手を借りながら客車に乗り込む。
オクタヴィアンは物慣れぬ風の少女を落ち着かぬ様子で見守っていた。どうしても無理ならばオクタヴィアンは骨折した左腕の痛みを押してでも手助けをするつもりである。
しかし、オクタヴィアンの思惑などエリシュカは素知らぬ様子である。結局、辻馬車が出発するその時になっても、彼女がオクタヴィアンを──他の使用人達を振り返ることは一度としてなかった。
──エリシュカ様は、本当にお強くなられた。
アルフレートを取り戻したいというエリシュカの願望を尊重し、修羅の道へと送り出してしまったことに後悔がないわけではない。
だが、女性として花開く間もなく、その命を賭けたエリシュカの宿願を、どうしてオクタヴィアン如きが止められようか。
──どうか……どうか。お嬢様には大きな怪我など負うこともなくお戻り頂きたいものだ。
オクタヴィアンは微かに滲む視界に気付かぬ振りをし、数度瞬く。明瞭になった視界の中央から、エリシュカたちを乗せた辻馬車が見えなくなると、オクタヴィアンは疲れた様子でヴィスコル城の内部に足を運んだ。
その足取りは重く、五十路という年齢を鑑みても些か頼りない。
オクタヴィアンには切実に休養が必要であった。だが、オクタヴィアンは疲労を押して働かねばならない理由がある。新たに任じられる辺境伯に引き継ぎを行うまでは家令であるオクタヴィアンは主無き城塞を管理しなければならなかったのだ。
──しかし、既に何もかも手が足りない。
オクタヴィアンを迎えたヴィスコル城のエントランスホールはしんしんと振り積もる雪片に埋もれたように閑散としている。主家や賓客をもてなす調度の類は倉庫に仕舞われて久しく、それらを磨く女中達は早々に次の職場へと向かった。
そうして既に九割以上の使用人が去り、城に残っているのは家令と家政婦を始めとする十名程度の使用人だけという有様である。
──今のままでは新たな使用人を雇うこともままならんな。
何故ならば、新たな辺境伯の着任が難航していたからだ。新たな辺境伯はカタルジュの遠縁から選ばれる予定だが、既に教養と富を持った彼らの前に権力という餌が差し出されたせいで、現在は骨肉の争いが繰り広げられている真っ最中である。
彼らはカタルジュの直轄地で起こった反乱未遂を知らないのだろうか。首謀者は縛り首、反乱の連座で住民たちは収穫物の八割を王室に没収される手筈となっている。
オクタヴィアンの試算では村人の七割は今年の冬を越せない。数年は税収の激減に苦しむというのに、彼らの振る舞いは村人たちの困窮も税収減も一時的なもので、さしたる問題ではないと言わんばかりだ。
醜悪なことだとオクタヴィアンは白い眉を指で扱く。
しかし、今回ばかりは、その貪婪に救われた者達も確かに存在した。
オクタヴィアンは赤い絨毯が敷かれた階段を見上げ、二階へと上がる。本来貴人のみが使用を許された階だが、今はオクタヴィアンの非常識を咎め立てる者はいない。
オクタヴィアンは一段ずつ足元を確かめるように踏み板を上るが、今まで感じたことなど無かった微かな息切れがして苦く笑う。
──お嬢様がお戻りになるまで、持ち堪えられるかどうか。
やがて、二階へと辿り着いたオクタヴィアンはまっすぐに伸びた廊下を進み、やがてエリシュカの私室──ではなく、その隣室の扉を軽く叩いた。
ややあって、姿を現したのはエリシュカの付き人のマチルダ・アントネスクであった。彼女はヴィスコル城がかつてない悪夢に襲われた際、自室に閉じ籠もっていたお陰で無傷であった。だが、その顔色は重傷を負ったオクタヴィアンよりも悪い。
「……失礼。女性の部屋を男が訪れるのも如何なものかと思ったのですが。家政婦は辞めていった使用人の穴埋めに奔走しているもので」
「……構いません。四十路ともなると、異性関係の噂に神経を尖らせる必要もありませんので」
そう言って、マチルダは部屋の中にオクタヴィアンを招く。
この部屋は家庭教師として雇われていた頃からマチルダが使っていた部屋だ。青い小花柄が描かれた白い壁や、淡い空色のレースの帷幕は自立と是とし、再婚もせずに独身を貫くマチルダにしては随分と愛らしい趣味だが、派手すぎず洗練されている。
書斎机、衣装収納等の大型家具は全て白樺で統一されていて、オクタヴィアンから見れば、下手をすれば妙齢の令嬢の部屋のように見えた。淑やかな性格に似合わず、部屋の趣味がやや男性的だった主とは対照的だと微かに笑った。
しかし、寝台に眠る人影を認めた瞬間、オクタヴィアンは表情を曇らせる。マチルダの部屋で静かに眠っているのは若き執事──セザールである。
彼の頭部には幾重にも包帯がまかれており、顔色は紙のように白い。まるで死人のような顔で、指先一つ微動だにしない。だが、微かに上下する胸の動きだけが、まだセザールの命が尽きていないことを根気強く訴えていた。




