第八十八話 “御使い”アレスの嘲笑
エリシュカは床に咲いた血溜まりをぼんやりと見つめ、荒い呼吸を繰り返す。顔は熱く火照っているのに、身体には寒気が走っていた。
やはり──上位存在は人間の独断を見逃さなかったのだ。特に戦闘に執着しているアレスからその機会を奪うことは、本来万死に値する愚行だったのだろう。
だが、今のエリシュカには“使徒”という肩書きしか使える切り札がない。
事前にアレスを説得することも考えたが、説得を試みた時点で半死半生の憂き目に遭う可能性は否定出来なかった。何よりもロイに交渉について気付かれる恐れが常に付き纏っていた。
あの優しい男は、エリシュカが行おうとした交渉の内実を知れば、きっと自責の念に駆られるはずだ。だから──エリシュカは玉砕覚悟でこの場に臨んだのだ。
──あぁ……この場にロイさんがいなくて本当に良かった。
エリシュカの血液はロイにとっては甘美な毒そのものだ。怪物の本能を煽り、かえってロイの絶望を深めるに違いない。
流石にユオンを遠ざける事は出来なかったが、彼はヴラドの血液を取り込んだばかりで吸血の衝動は抑えきれるとエリシュカは確信していた。
今この瞬間もエリシュカが無事であることが、その見立てが正しかったことの証左だ。しかし──最後の賭けに負け、全てが無に帰してしまった。
エリシュカが絶望に沈む中、頭の中でアレスの哄笑が響き渡った。きゃらきゃらと愉しげな声が頭蓋に響き、目眩を覚える。
エリシュカは堪らず床に手を付く。その瞬間、エリシュカの気力を更に削ぐように再び鼻腔から血が零れ落ちた。
──小娘、貴様の浅はかな思惑は分かってるぞ。
哄笑から一転、アレスの声は憤懣の苛烈さに一気に染まった。
エリシュカは苦悶に顔を歪めながらも、乾いた笑みを浮かべた。──分かっているのならば、協力してくれればいいものを。
エリシュカの愚痴を無視して、アレスは厳かに宣言する。
──その痛みは貴様の思い上がった発言に対する罰だ。私の“器”如きが力を貸さないだと? 私の奇跡《力》を我が物のように扱うなど許し難ェ。次に同じことをすれば、今度は貴様の思考能力を破壊するからな。
しかし、アレスの怒りには徐々に愉悦が混じり始める。
──無様だなァ、小娘。だがまぁ……これはこれで、お前好みの演出にはなるだろうぜ。
エリシュカは、目を見開く。いいの? と声なき声でアレスに問い掛けると、熱に浮かされたようにアレスは喘いだ。
──ああァァ……。そりゃァ勿論、良くはねェ……。良くはねェが……私はお前が時折見せる烈しさを気に入り始めているんだよなァ。
エリシュカはその言葉に奮起し、勢い良く立ち上がった。鼻血を手巾ではなく手の甲で乱暴に拭う。そこには最早、かつての深窓の令嬢の姿は無かった。
──良いか? これは貸しだ。さァ、足掻け、足掻けェ。お前の望んだ筋書きの結末を見せてみろ。
エリシュカはその言葉に小さく頷き、キィを正面から睨み据えた。
「いきなり動くと危ないよ。暫くは安静にして──」
キィが差し伸べた手を、エリシュカは優雅な所作で払う。
「薬も安静も必要ない。……私は、“御使い”の干渉を完全に抑え込むことが出来るもう二度と、この身体の主導権をアレス様に勝手に奪わせたりはしない」
「まさか、そんな……!」
ベロニカが青い顔で悲鳴を上げるのを見て、エリシュカは朱に染めた顔に凄惨な笑みを浮かべる。
「嘘じゃないわ。私の要求が呑めないなら、今後一切貴方達に協力しない」
ベロニカとキィはアレスによるさらなる制裁を恐れて息を呑んだが、エリシュカには何の咎めもなかった。
つまり──アレスは、エリシュカの始めた茶番劇に力を貸すことを選んだのだ。
しかし、アレスがエリシュカに味方をする理由は慈悲などという甘いものではないだろう。女神の妙薬の開発を遅延させ、闘争の機会の損失を防いだと言われたほうがまだ納得がいく。
そして、アレスとエリシュカの間で行われたやり取りを知らないベロニカとキィの目には、エリシュカは峻厳な“御使い”の神罰にすら打ち勝った不屈の“使徒”に見えるに違いない。正しく──エリシュカ好みの演出になったわけだ。
エリシュカは更に笑みを深くする。
「“御使い”が遣わされたのは、三百年前と同じ──吸血鬼の王との戦いが控えているから……でしょう? よくないわよね? みすみす神の慈悲を手放すなんて」
キィは忌々しそうに歯を食いしばり、静かな怒りを露わにする。白衣の裾を掴む手からは血の気が失われ、真っ白になっていた。
「……なるほどね。僕達は“御使い”じゃなく、君の機嫌を窺わなくちゃならなくなったのか」
「そういうことよ。どうする? ヴィーラさんを検体に加えてもらえるのかしら?」
エリシュカは未だに拘束に甘んじているユオンをちらりと見る。
「お返事は? ……私はユオンと違って気が長い方ではないのよね」
冗談じゃない、とキィはヴィーラを庇うように右腕を水平に掲げた。
「彼女は薬効を確かめるための試験体として安置しているんだ。検体としてじゃない」
「あら、検体が三体に増えれば実験の幅だって広がるでしょう? どうして躊躇うの?」
エリシュカに皆まで言わせず、キィはエリシュカに詰め寄る。一回り以上年下の少女に対し、悲痛な声で叫んだ。
「ヴィーラは女性なんだぞ! 吸血鬼になって自由を奪われた挙句、人間に戻った後、傷だらけの身体で生きていけと言うのか?!」
その瞬間、ベロニカの顔が苦しげに歪むのをエリシュカは見逃さなかった。
「エリシュカ、君はヴィーラと同じ女性なのに、どうしてそんな無慈悲なことを──」
エリシュカはキィの胸倉を掴む。
「そうよ、傷だらけでも生きていくの! 生きている限り、生きなきゃならないの! 女だろうが男だろうが関係ないわ!!」
キィは何事か言い返そうとしたが、エリシュカの頬に刻まれた深い裂傷を見て、言葉を飲み込んだように見えた。
例えキィがエリシュカから目を逸らしたとしても、すぐ傍らには厳しい戦闘の末に片足を失ったベロニカの姿もある。
「他人を傷付けるのは平気なくせに、自分たちだけは安全な場所で高みの見物? 何の代償も無しに彼らの身体を刻んだ薬で救われるつもり? ……ふざけるな!!」
「……ッ!」
エリシュカは吐き捨てるように言って、キィを突き飛ばす。キィは一歩右足を下げただけで、よろめくことすらしなかった。
「……ヴィーラさんを切り刻むのが嫌なら、これ以上の非人道的な実験は絶対にやめてちょうだい。新たな方法を……もうこれ以上、誰かが傷付かなくてもいい方法を探して」
「……また一からやり直せと? 無謀だ。……もしかしたら、君が生きている間に完成しないかも知れないよ。いいのかい?」
よくないわよ! とエリシュカ泣きそうな顔で吼える。
「それでも、私は彼らに辛い思いをしてほしくないし、兄には人間に戻ってほしい。両方叶えたいの!」
「エリシュカ……」
エリシュカはベロニカを見る。ベロニカは既にユオンの拘束を解き、エリシュカの変貌を呆然と眺めるばかりである。
「ロイさんは、目的を果たすためならば何も感じず、何も見ずに生きる術を覚えろと言ったわ。だから、その教えに倣うことにしたの。あなた達の大事なものだって踏み付けにする」
キィとベロニカは互いに視線を走らせる。一瞬早くベロニカが瞑目して首を振り、キィはその姿を確認すると、天井を見上げて詰めていた息を吐いた。
「分かった……もう二度と彼らを傷付ける実験はしないと約束するよ。誰も傷付かない方法とやらを模索してみる」
エリシュカはその言葉を聞くや、へなへなと床に崩れ落ちた。かたかたと小さく震える膝は床を這う冷気に中てられたからではないだろう。
立ち上がれないエリシュカを見かねたのか、キィが手を差し出す。エリシュカがその手を掴むと、思いの外強い力で助け起こされた。
「……やれやれ。僕は君の心が押し潰れてしまわないように本当に心配してたんだよ? それがまさか──鍛造された短剣みたいになって帰ってくるとはね」
キィは呆れ顔のままベロニカを振り返る。
「協会長。吸血鬼を血の臭いの充満する空間に留めておくのは、彼にとっても良くありません。一旦、医務室に隔離してください」
「……あ、あぁ……」
ベロニカはユオンを伴い、足早に遺体安置所を後にする。ユオンはエリシュカの血液の香りに中てられたのか、その足取りは終始覚束なかった。
二人が立ち去った後、キィは氷冷庫の扉を静かに鎖し始めた。
エリシュカは黙々とヴィーラの寝床を整えるキィを見つめる。
次にこの扉が開かれるのはいつになるのか──エリシュカには想像もつかない。
「……可哀想になぁ」
「……え?」
「ロイのことだよ」
キィは氷冷庫をゆっくりと撫でる。
「ロイは我が身が切り刻まれることなんか、全然恐ろしくなかったと思うよ。それよりもずっと、怪物としての生を嫌悪し、怖れていたはずだから」
何を、と問おうとしてエリシュカの脳裏にファニュ=ブラムスで垣間見たロイの切羽詰った表情が蘇る。
襲い来る吸血の衝動に赫い瞳を獰猛にぎらつかせながらも、弱さを優しさに変えた白皙の青年は、あの夜、何と言っていただろうか。
『──頼む。この耐え難い苦痛から解放してくれ』
エリシュカは息を呑んだ。あの言葉が吸血の衝動を満たして欲しいという意味では無かったとすれば。余りにも優しすぎた彼の望みとは──
「ロイ本人は死にたがっているのに、君は無理矢理彼を生かそうとしている。……本当に、残酷だよ」
その瞬間、エリシュカの世界から全ての音が遠ざかっていく。不意に、“御使い”の嘲笑が高らかに響き渡った気がした。
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