第八十七話 神罰
紹介しよう、とキィはまるで歌うように言う。秘密を抱えて──抱え切れずにこっそりと誰かに打ち明けた時の高揚感を帯びており、朗々と遺体安置所に響いた。
「彼女の名前はヴィーラ。僕のすぐ下の妹だよ」
エリシュカは、改めてキィと彼の妹を交互に見る。エリシュカから見てキィは三十代半ばのように見えるが、ヴィーラの方は二十代前半に見える。すぐ下と言うには余りにも年が離れすぎている気がした。
エリシュカの疑問を察したのか、キィは照れくさそうに鼻の下を擦る。
「……草臥れきった男の妹にしては若くて美人だろう? 妹は八年前に吸血鬼になって、それきり年を取るのを忘れてしまったのさ」
エリシュカはその言葉を聞いて、不意に背筋が冷えるのを感じた。
吸血鬼は老いを知らぬ怪物だ。老いたとしても吸血すれば立ちどころに若返り、永遠を生きる存在である。
きっと──このまま手をこまねいていれば、エリシュカはいずれアルフレートの外見年齢を追い越すだろう。自身より若輩に見える男を兄と呼び慕う狂人として生き、そして、彼より先に死に果てるのだ。
──そんなの、冗談じゃないわ。
エリシュカは恐ろしい思考を振り払いながら、キィの話に耳を傾ける。しかし、先達の言葉は、何よりもエリシュカの心に重くのしかかった。
「彼女は生前、協会で僕の助手を勤めていたんだ。野戦病院さながらの医務室で、よくやってくれたと思うよ。……本当に」
僅かに言葉を詰まらせたキィに代わり、ベロニカが言葉を継ぐ。
「あの夜も、キィとヴィーラは怪我人の手当てに奔走していたよ。だが、運悪く治療の順番を待っている間に容体が急変した奴が出ちまってね。治療を受ける間もなく亡くなっちまったのさ」
「まさか……」
ベロニカは頷く。
「医務室に運び込まれて助かると思っていただけに、未練は深かっただろうね。結局、ソイツは吸血鬼になって……よりによってヴィーラを手に掛けちまったのさ」
キィがやりきれない様子で溜め息を吐く。
ユオンは床に視線を落としたまま、一向に顔を上げようとしない。己の種族がいかに人間に仇なし、不幸を振り撒いてきたのかを省みているのだろうか。
変異種であるユオンは被害者としての側面も持つものの、生前の記憶が欠落したユオンにとっては意味を持たない慰めに違いない。
「そして、吸血鬼に殺されたヴィーラもまた、吸血鬼になってしまった。……まぁ、そのお陰で、彼女の命を奪った傷は完全に治癒してしまったけれどね。皮肉なものだ」
だが、とキィは大理石の寝台に寄り添い、目覚めぬ妹の顔を悲しい色で染まった瞳で見つめた。
「……エリシュカはもう知っていると思うけれど、協会では、吸血鬼から情報を得るために拷問を加えることはあっても、治療や救命は絶対にしない」
だから、とキィは重苦しく言葉を吐き出し続ける。
「ベロニカには女神の妙薬の開発を提案したんだ。そして、ヴィーラを試験体として残してくれと頼み込んだ。……半永久的に昏睡状態を維持する……という条件でね」
キィは床に膝を付き、ヴィーラの手を握った。
「僕だって、ヴィーラに会いたい。僕はお兄さんだったのに、妹を守れなかったことを謝りたい。彼女が当たり前に過ごすはずだった人生を取り返してあげたい。大義なんかよりもずっと妹の方が大事だ。……ただ、妹を助けたいんだよ」
あぁ、とエリシュカは苦しげに喘ぐ。
キィは間違いなくエリシュカの同類だった。家族に突然置き去りにされ、後悔に縛られ、それでも尚、老いさらばえていくことしか出来ない哀れな人間だ。最善も人倫も見失い、ひたすらに前を向いて走ることしか出来なかった、エリシュカにも有り得た未来の姿だ。
だが、今のエリシュカはもう泣くことしか出来なかった哀れな少女ではなかった。仲間を切り刻むというこの世の地獄を見た今、本物の地獄ですらエリシュカを止める手段になりはしない。
「……貴方が女神の妙薬に拘り、仲間を切り刻んでまで完成を急ぐ理由は分かりました。辛い話を聞かせてくれてありがとう」
ベロニカとキィが纏う雰囲気が僅かに和らぐ。そこにあるのは、小娘ごとき情で絆せばいくらでも言いくるめられるという侮りである。
「その上で敢えて言わせてもらうわ。私は“使徒”として女神の妙薬開発に係る人体実験の即時凍結を求めます」
予期しない訴えにキィは目を見張った。
“使徒”として──この言葉に最も慌てたのはベロニカである。
「エリシュカ、何を言うかと思えば! さっき、自分には研究を止める理由は無いって言っていたじゃないか!」
「勿論、女神の妙薬の開発は引き続きお願いします。でも、そのためにロイさんとユオンを切り刻む必要はないでしょう」
「お、お嬢さん……」
ユオンの声は僅かに震えていた。それは我が身の行方を案じているようでも、エリシュカが何らかの処罰を受ける事を危惧しているようでもある。
エリシュカはユオンの杞憂に晴れやかに笑う。
この臆病な男の防波堤になれるのは、今この場でエリシュカしかいないのだ。
「エリシュカ、あんたの優しさはよぉく分かるよ。だが、考えてご覧? 女神の妙薬が完成すれば、たくさんの人達が救われるんだよ? この先吸血鬼に襲われる人間は激減するんだ」
「とても素晴らしい事だと思います。でも、それで救われるのは、人間を襲ったことのない善い吸血鬼だけだ──とは言いませんよね?」
頑是無い子供を見るような目付きをしていたベロニカとキィから表情が消えた。ユオンも「どういうことだ」とエリシュカを見た。
「言葉通りよ。吸血鬼の罪は司法では裁けない。なら、吸血鬼になってしまった人は、殺人を犯してもお咎めなしなのかしら? もっと言えば──ロイさんやユオンを、人間に戻して平穏な生活に戻すことを誰が許すの?」
「僕が許すよ」
跪いていたキィが立ち上がり、厳かに宣言する。
「女神の妙薬の開発者は僕だ。少なくとも、実験に協力したロイとユオン──君のお兄さんに関しては薬を融通すると神に誓おう。彼らには切り刻まれた末に処分されるという最悪の未来はやって来ない。それに、人間に戻った暁には僕が全力で傷の治療に努める。これでもう文句は無いだろう?」
エリシュカは必死に笑いを堪える。
エリシュカが欲しかったのは陳腐なお為ごかしではなく、アルフレートやロイ、ユオンに女神の妙薬を使うというキィの確約だった。
キィが約定を破らなければ──彼らが倫理の篩に掛けられ、女神の妙薬の祝福から弾き出されることはないだろう。
しかし──いいえ、とエリシュカは首を振る。
「それでもまだ不十分です。どうしても彼らを検体にしたいなら、貴方だって相応の痛みを差し出すべきだわ」
「……相応の痛みだって?」
エリシュカは黙したまま、ヴィーラの眠る寝台へと近付く。大切にこの場所に保管されていた女吸血鬼の身体は、穢れを知らない新雪のように美しかった。
「そうよ。どうしても研究のためにロイさんとユオンを切り刻むというなら、そこに貴方の妹も加えなさい」
ベロニカとユオンはエリシュカの提案に戦慄した。否、これは最早提案ですらなく、命令である。
「検体が二体に増えて進捗率が上がるのなら、三体に増えれば進捗率は更に上がるわよね? 早速着手してもらえる?」
だが、キィは頑是無い子供の我が儘に微笑むばかりだ。
「ああ、うん。そうかも知れないね。でも……僕には君のその我が儘に従う義理はないよ」
「そうかしら? 貴方達がそういう態度を崩さないなら、この先、“御使い”の力を協会には貸さない……と言っても?」
エリシュカに甘いはずのベロニカの義足が、怒った様に床を踏み鳴らした。
「エリシュカ、その言葉は聞き捨てならないよ。アレス様は吸血鬼と戦う為に遣わされたんだ。“使徒”たるあんたがそれを阻むだなんて──」
──許さねェぞ。
アレスの声が響き、エリシュカの目前には白い火花が散る。その直後、凄まじい頭痛がエリシュカを襲った。
頭蓋の天辺を鋸で切り出されるような痛みにエリシュカは目を見開く。その鼻腔からは大量の鮮血が零れ落ち、暗い色の床を赤斑らに染めた。
ぐらりと足元が覚束なくなり、エリシュカは思わずその場に膝を付く。
「な……っ! エリシュカ?!」
エリシュカの流血を見たベロニカは、慌ててユオンの背後に回り、腕と肩を押さえて拘束する。対して、ユオンはベロニカに一切の抵抗を見せなかった。吸血鬼の本能を捩じ伏せ、鋭い歯で唇を噛み理性を保とうと足掻いている。
本来、ベロニカの恵體を持ってしても、吸血鬼を人間の力で制圧することは不可能である。ユオンが拘束に甘んじているのは協会に敵意が無いことを示すために他ならない。
あっという間に静寂の遺体安置所を混沌が支配する。その只中にあって、唯一キィだけが冷静にエリシュカを見下ろしていた。
「おやおや、“御使い”に怒られちゃったのかな? この鼻血の量からすると、脳に多少の負荷を掛けられたのかな。……随分と手酷い仕置きだ。脳圧を下げる薬を処方してあげようね」
キィの言葉は医師として純粋にエリシュカを心配するものであり、薬の処方と引き換えに非道な実験を認めるよう迫ることもない。
当然だ、とエリシュカは悔しげに歯噛みした。
今この時、エリシュカは協会に反旗を翻した“使徒”ではなく、“御使い”の意向に反し、罰を下された少女に成り下がってしまったのだから──




