第八十六話 殯宮(もがりのみや)の眠り姫
ベロニカは廊下に備え付けられた櫃に置かれていた燭台を取る。柔らかな灯火が陽炎のように頼りなく揺れていた。
「ついてきな。足元に注意するんだよ」
ベロニカは受付に続くであろう廊下ではなく、直ぐ側に設えられた階段を下に降りていく。地下へと向かう利用者は少ないのか周辺は光源に乏しく、闇の洞を穿ったように底が見えない。
施設に慣れ親しんだベロニカとキィ、吸血鬼であるユオンは難なく降りられるだろうが、エリシュカは特に夜目が利くというわけではない。結局、手すりに捕まりながら慎重に降りて行くより他に無かった。
どれほど地下に潜っただろうか。エリシュカが難儀しながら数十段の階段を降りた先には、牢獄の入り口さながら分厚い鉄扉が鎮座していた。扉の上にかかった扁額には「遺体安置所」と記載されている。
「ここは……」
「殉職した仲間の仮置場だ。遺体の状態や損害によってはすぐに埋葬出来ないこともあるからね」
ベロニカが把手に手を掛け重い鉄扉を押す。重い鉄扉が軋み、女の悲鳴のような不気味な音が鳴り響いた。一瞬遅れて、消毒液とどこか甘い腐敗臭の混ざり合った臭いが鼻先を掠め、エリシュカは思わず身を固くした。
「お入り。大丈夫。今、此処に遺体は無いからね」
ベロニカは暗い室内に大きな身体を滑り込ませる。壁掛けの燭台に火を灯し、程なくして部屋は本来の明るさを取り戻した。
エリシュカはキィ、ユオンに続いて遺体安置所へと足を踏み入れる。
石造りの暗い壁に囲まれた伽藍洞の空間であった。壁の三方にはエリシュカですら見たことのない、恐ろしく大きな氷冷庫が敷き詰められている。それは切り出した氷を氷室に入れ、その冷気で腐敗を遅らせる最新式の保冷庫のように見えた。
扉は隅の一つを除いて全開になっており、湿気を中に溜め込まない措置であろうとエリシュカは推測する。だが、その努力虚しく、劣化に強いとされる楢材の扉は、地下の湿気と冷気によって薄汚れ、黒ずんでいた。
「さて──まず、新しい検体にはここでの扱いについて話しておこうか。己の未来について何も分からないまま捨て置かれるのは流石に哀れだからね」
ユオンの緋色の目にさっと暗い光が差した。検体として扱われ、名を呼ばれない屈辱もそうだが、ユオンはロイに刻まれた加虐の傷痕を既に目の当たりにしており、既にこれから腑分けされると知っている。ベロニカの僅かな優しさは、ユオンにとっては肉刑執行の宣告に等しい。
「……と、その前に。エリシュカ、この検体を確保した経緯を教えてもらえるかい?」
「……ユオンは、人間の子どもとの間に愛情を育んでいます。けれど、吸血鬼という身上が養育を困難にしている。それで、自身を検体とする事と引き換えに娘──セラの保護と養育を求めています」
「……保護か。確かに、協会では孤児を引き取る施設も運営しているから、不可能ではないよ」
「じゃあ……!」
だがねぇ、とベロニカは難色を示した。
「そこで引き取っているのは吸血鬼に家族を殺された子供達ばかりだ。誰も彼も吸血鬼を恨んでる。そんな中に吸血鬼と暮らした子を放り込んで仲良くやっていけるもんかね?」
「セラには分別があります。ユオンと大多数の吸血鬼を混同したり、父親を窮地に立たせると分かって、騒ぎを起こしたりはしないはずです。どうか、お願いします」
エリシュカは更に続けた。
「ファニュ=ブラムスでの任務において、ユオンは宿敵であるはずの私たちに大いに貢献しました。……私が無事に帰還出来たのは彼の尽力あってこそ、なんです」
「なんてこった……エリシュカの恩人だって?」
ベロニカは不愉快そうに眉を寄せる。人類の救世主たる“御使い”と“使徒”の華々しい戦績に、泥を塗られたと言わんばかりである。
「はい。利害が一致しただけと言われればそれまでですが、協会がセラに便宜を図り続ける限り、ユオンは協力関係を結んでくれるはずです」
エリシュカは熱心に言い募りながらも、胸に鋭い痛みを覚えた。協力関係と言えば聞こえはよいが、セラを人質にユオンを従わせよと唆してているのと同義である。
ユオンにしろベロニカにしろ、その辺の機微には疎くはない。事実、二人は重い沈黙を貫いている。
「ふむ……しかし、だからと言ってロイと同じように彼を自由に歩き回らせるのは困るなぁ」
キィの惚けた声が割って入った。言葉とは裏腹に、その声はどこか笑い含みだ。
「……何故だ? 確かに私は彼の様に強い個体ではないが──」
「君、吸血に関する心的外傷はあるかい? 身体が血液を受け付けないとか、吸血を必要としない特殊な体質なのかな?」
言葉を遮られたユオンは、キィの質問に警戒しながらも首を振った。
「なるほど、やはり本能を抑え込めない危険性が高いね。じゃあ、自由に表を出歩かせるわけにはいかないよ。薬剤でずっと眠ってもらわないと」
「何ですって……?」
キィの提案に、エリシュカは戦慄する。
その声はどこまでも軽やかで、一片の悪意すら混じる隙がない。しかし、娘を持つ父に対して、余りにも慈悲がなかった。
「セラを保護する代わりに、君の身体は検体としてこちらの好きに使わせてもらうよ。大丈夫。眠っている間は、斬ろうが砕こうが痛みは一つも感じないから」
待ってくれ、とユオンが悲痛な声を上げた。
「この身体はどう使ってもいい。だが、私は娘の成長を傍で見たいんだ。頼む……娘に会う時間を作ってくれ」
キィは眼鏡の奥で、知識欲にぎらつく目を誤魔化す様に細めた。
「……うぅん。唯一のお願いが娘に会いたい、かぁ。……化け物のくせに泣かせるねぇ」
泣かせると言いつつも、キィの表情は穏やかで善人と見紛うような笑みすら湛えている。否──本人は吸血鬼との交渉に前向きな善人として振る舞っているつもりなのだろう。
──吐き気がするわ。
エリシュカの内心に気づいた様子もなく、キィは眼鏡の山を得意げに指で押し上げた。
「面会の頻度は一ヶ月に一度だけだ。この条件を呑むなら、許可するよ。面会自体はセラという子の精神衛生に良い影響与えそうだしね」
つまり──ユオンの事情や希望は最初から考慮に値しないとキィは言いたいのだろう。
ベロニカがやるせないと言った表情で溜め息を吐く。
「軽々しく面会を許可して……セラに危険はないんだろうね?」
「大丈夫ですよ。面会時は暴れられないくらいには薬を効かせておくので」
エリシュカは静かに憤りながらもユオンの外套をそっと引く。
「……貴方はそれでいいの?」
ユオンは何もかも諦めたように眉を下げて笑った。
「セラのためなら条件を呑むよ。大丈夫、私は気が長い方だからね。一ヶ月なんてすぐにやってくるさ」
「……そう」
その笑顔があまりにも痛々しく、エリシュカは目を逸らした。だが、その目に宿る瞋恚は決して衰えてはいなかった。
「あの、キィさん。吸血鬼を人間に戻す薬について……開発状況について教えて頂けますか?」
エリシュカの問いに、キィは少し考え込むように俯いた。
「吸血鬼を人間に戻す薬、か。ちょっと長ったらしいな。呼称を──そうだな、女神の妙薬とでもしようか」
妙案に表情を輝かせるキィだが、すぐに申し訳無さそうに猫背になり頭を掻く。
「正直に言って、女神の妙薬の開発進捗は芳しくない。けれど、検体が二体に増えたことで研究はより進むと思うよ。君が新たな検体を確保してくれたお陰だ」
ありがとう、と言葉を続けたキィに、エリシュカは顔色一つ変えずに口を開いた。
「……もう一つ、聞いてもいいですか? どうして女神の妙薬を開発しようと思ったんです?」
「あはは。面白いことを聞くなぁ。そんなの、吸血鬼になってしまった人間を救うために決まってるだろう」
でしょうね、とエリシュカは呟く。
「でも、私が聞きたいのは大義じゃないわ。貴方が大義を抱くに至ったきっかけを知りたいんです」
キィは碧眼を見開くが、何も言わず氷冷庫へと近寄る。彼は唯一扉が閉ざされた氷冷庫の前に立つと、真鍮の把手を掴んだ。
「……いいのかい、キィ」
ベロニカの声にキィは振り返る。その顔はあくまでも笑みが刷かれたままだ。
「構いませんよ。……僕とエリシュカは深い部分で仲良くなれる気がしますし」
意味深な言葉と共に、キィは氷冷庫を開帳した。楢材の内側は板金が貼り付けられており、遺体を冷やす冷気の代わりに、大理石の寝台に横たわる美しい女が姿を現す。
エリシュカより少し年嵩の娘だった。珍しい苔色の髪はキィのそれと色も質感もよく似ている。
女は白い簡素なドレスに身を包んでおり、最前からぴくりとも動かない。眠っているのか、それとも──
エリシュカは胸元や腹を注視したが、呼吸をしていないのか上下する様子はない。だが、ベロニカは先程遺体安置所には遺体は無いと言っていなかったか。
「……彼女は?」
「吸血鬼だ。ロイ以外では、協会が唯一確保している個体だよ」
「…………貴方に似ている気がします」
キィは眠る女の頬を壊れ物を扱うように、指を滑らせて撫でる。その顔に、初めて哀切の色が混ざった。
「当然だ。……彼女はね、僕の妹なんだよ」




