第八十五話 後ろめたき帰還
その日、首都の闇を払う街灯を避けるように、風を切って歩く三つの影があった。
先導するのは吸血鬼狩りの戎衣を纏う若い男──ロイである。その後ろをエリシュカが追従し、殿はユオンが務めた。
ただし、ユオンは奇矯な身なりを隠すために全身をすっぽりと覆う外套を纏っており、長旅の末に眠りこけたセラを、それはそれは大事そうにその腕に抱いていた。
「……官憲の姿は無い?」
「……大丈夫だ」
エリシュカとロイの密かな声が夜陰に灯る。少々掠れた、しかし、色気を一切含まぬ囁きに、ユオンは微かに首を傾げる。
「……何故、官憲から隠れる必要が? 官憲と吸血鬼狩りは協力関係にあると思っていたんだが」
ロイは視線を落とし、セラの寝息を確認してから皮肉げに唇を歪めた。
「協会で実際に行われている、吸血鬼を生け捕りにする方法を知っているか?」
「いや……」
「聖餐、聖水、塩、魔除けの植物の抽出物を手当たり次第──そんなありとあらゆる苦痛をかき集めた混ぜ物を与えるんだ」
ユオンは絶句し、エリシュカは息を呑む。何よりユオンを戦慄させたのは、この恐るべき毒物が死を賜るためでなく、生きて捕らえるための手段として用いられている、という点であろう。
「まさか、ロイさんも……」
エリシュカが恐る恐る尋ねると、ロイは自嘲するように肩を竦めた。
「幸か不幸か俺はまだ振る舞われたことはないが──飲めば臓腑が深部まで灼かれ、浴びれば肉と骨が腐り落ちるそうだな」
エリシュカはロイの返答に眦を吊り上げる。
「もう! そんな風に言わないで!」
エリシュカの声は夜の静寂によく通る。ロイは慌ててエリシュカの口元を塞いだ。
「余り大声を出すな。警邏の官憲に見つかる」
声を封じられたエリシュカは、誰のせいだと物言いたげにロイを睨め付ける。頑是無い子供のような表情にロイは思わず苦笑を浮かべた。
「……そういうわけで、大した拘束もせずに吸血鬼を連行する場面を見られるのは困る。……せめてユオンの変装用に予備の戎衣か認識票があればもう少し堂々と出歩けたんだが」
しかし、協会に物資の補給を要求しようにも、その理由について説明することは出来ない。
何せ、吸血鬼を人間に戻す薬剤を開発している事も、その開発に吸血鬼が検体として関わっている事も、協会内で数名しか知らぬ機密中の機密である。
流石に事の次第を第三者の目に触れる恐れのある電報や手紙で説明するわけにもいかず、ロイは協会長宛の電報で裏口から帰還するとだけ報せるのが精一杯だった。
だが、察しのいいベロニカならば、最低限裏口周辺の人払いを行うだろう。
エリシュカは一向に手を退けようとしないロイに痺れを切らし、少々乱暴にその手を払った。
「とにかく。早く協会へ戻りましょう。セラのことも早くベッドで休ませてあげたいわ」
「……あの角を曲がったところに、協会の裏口がある」
歩き始めたロイにエリシュカが続き、ユオンとセラもその後を追った。
ユオンにとっては敵陣──しかも、その中枢に足を踏み入れようというのだ。その足取りはひどく重い。その緊張が皆に伝播したのか、最早誰も、一言も言葉を発しようとしなかった。
忌むべき吸血鬼を討ち取った英雄達の凱旋にしては余りにも密やかな行軍である。ともあれ、彼らは無事に協会という止まり木への帰還を果たしたのだ。
吸血鬼ヴラドとの死闘から七日後、菖蒲月二十四日のことであった。
■□■
吸血鬼狩り協会の裏口は、深夜も人の出入りと灯りの絶えないエントランスとは違い、薄暗くひっそりと静まり返っている。
ロイ曰く、裏口から出入りするのは協会を支える数十名程度の事務員と出入りの業者ばかりだそうだ。その数少ない出入りも、夜間ともなれば激減するとエリシュカは聞き及んでいた。
先頭に立つロイが黒い鉄製の門扉を開け、エリシュカ、そしてユオンを招く。
夜目の利かないエリシュカでも、未舗装の通路の脇に薔薇の生垣が植えられているのが分かった。既に花弁が閉じているため、漂う芳香はごく薄いものであった。
ロイは黒い鉄扉についた把手を引く。
微かに軋んだ扉の隙間から角燈の温かな光が待ちわびたように差し込み、ロイとエリシュカ、ユオン達を包んだ。
エリシュカはその眩しさに思わず目を閉じる。再び目を開けた時、そこには腕を組んで待ち構えるベロニカの姿があった。
エリシュカは眉を寄せる。ロイが人払いを頼んだにも関わらず、ベロニカはその後ろに白衣の男、キィを従えている。
「エリシュカ!」
ベロニカは先頭に立つロイには目もくれず、真っ先にエリシュカに走り寄る。片足が義足と感じさせない足取りで、エリシュカは反応する暇すら与えられずに逞しい腕の中に閉じ込められた。
「……綺麗な顔に傷なんて拵えて……でも五体満足で帰還出来て良かったよ!」
ベロニカの無礼な言葉にエリシュカは目を白黒させるしかない。不遇な少女に代わり、ロイが顔を顰めた。
「……余り新人を怯えさせるな」
それよりも、とロイは言葉を続ける。
「俺は人払いを頼んだはずだが、何故キィがこの場にいる? まさか、キィの他にも近くで待機している者がいるのか?」
ロイに睨まれ、キィは困り顔をベロニカに向ける。
ベロニカは渋々といった体でエリシュカの抱擁を解き、ロイに向き直って肩を竦めた。
「そりゃあ、あんたが意味深な電報を送ってくるからだろう。任務を終えた“使徒”が正面から帰還出来ない理由を考えたら、仲間の士気が下がるような大怪我を負った──くらいしか思い浮かばなかったんだよ。心配しなくても、キィ以外は誰も呼んでいないとも」
その返答に納得はしたのか、ロイはキィを睨むのをやめ、さらに声を一段低く落とした。
「……まぁ、こちらとしてもこの場にキィがいるのは好都合か」
「おや、僕に出番があるのかい? ……でも、それなら……僕は睨まれ損じゃないかな?」
キィのぼやきをロイは完全に黙殺する。
「電報で詳細を明かさなかったのは、機密に関することで土産があったからだ」
機密、という言葉にベロニカとキィの表情がぴり、と強張る。特にベロニカは一瞬エリシュカの方を見たが、その表情が虚無に近い無表情であることを確認すると、やるせない様子で溜め息を吐いた。
「ああ……なるほど。エリシュカはもう機密の内容を知っちまったんだね」
「……意外だね。事の真相を聞いたら、もっと僕達のことを軽蔑するかと思ったよ」
エリシュカは静かに首を振った。
「兄を人間に戻すというのは私の望むところです。吸血鬼を人間に戻す薬剤の研究を、私が止める理由はありません」
エリシュカがはっきりと言い切ると、ベロニカは安堵の表情を浮かべ、キィは無精髭を擦りながら、興味深そうに目を細めてエリシュカを見つめた。
「……君は善性の塊みたいな娘だと思っていたけれど、意外と素直に欲望を優先させるんだね」
エリシュカはキィの皮肉に微笑み、後ろを振り返った。
「それで──新たな検体は、こちらに」
エリシュカの背後で、動揺したようにユオンが震えた。扉の陰に隠れていたユオンは観念した様に姿を現す。
ベロニカはユオンに抱き抱えられたセラの姿に気付いて、胡乱なものを見るような目付きでユオンとロイを交互に見た。
「……ロイ、あの子は? 私の目には……あの子は、人間のように見えるんだがね」
「……奴の娘だ」
「……こんな時に冗談をお言いでないよ!」
ベロニカはむざむざ人間を危険に晒したロイを怒鳴るが、エリシュカが人差し指を口に当てて怒声を咎める。
「……声量を落としてください。セラを起こすのは本意ではありません」
ベロニカは、はっとしたようにセラを見る。セラは眉を寄せて身動ぐが、覚醒までは至らなかったようだ。
「そういうことで、セラを医務室で休ませたいのですが……キィさん、よろしいですか?」
「え、ああ……それは構わないよ。じゃあ僕が連れて行こうか」
キィがユオンからセラを預かろうとしたその時、いえ、とエリシュカは小さくも鋭い声で言う。
「私はキィさんからお話を伺いたいです。是非、吸血鬼を人間に戻す薬について開発の進捗をお聞かせください。ですから──」
一旦言葉を切って、エリシュカはロイを見る。
「ロイさん。セラを医務室に連れて行ってもらえますか?」
「……何故、俺が?」
「お願いしますね」
エリシュカはロイに笑みを向けるが、自分でもおかしなくらいに表情筋が引き攣っていた。
ロイはエリシュカの真意を推し量りかねて戸惑っていたが、やがて真意を聞き出すことを諦めたのか、静かに頷く。
「ユオン。セラを医務室に連れて行くが、構わないな?」
「あ、あぁ……」
ユオンは娘と離れ離れになる不安から酷く声が掠れていたものの、眠るセラの顔を見つめた後、起こさぬようにそっとロイに託した。
ロイはセラを抱き抱えるとエリシュカ達を振り向くことなく、医務室へと向かった。その足取りは遅く、エリシュカの目にも眠ったセラに対する配慮と優しさが見て取れる。
それまで成り行きを見守っていたベロニカが、ぱん、と手を打ち鳴らして、僅かに湿っぽくなった雰囲気を払拭する。
「ここで立ち話もなんだし、移動しよう。密談にはとっておきの場所がある。──まぁ、居心地が良いとは言えないんだけどね」




