第八十三話 君の命が尽きるその日まで※
──……嗚呼……私は、死ぬのか。
ユオンは霞む視界の中、巨大な月を見ていた。とうに瞬きを忘れた瞳は暗く濁りつつあるが、沁みるような慈光がユオンの意識を辛うじて繋ぎ止めていた。
ユオンは震える手で穿たれた腹に触れる。吸血鬼の圧倒的な治癒能力を持ってしても、最早傷口が塞がる兆しが無い。それどころか、最早痛みすら徐々に遠のきつつある。あるのは空を漂う綿毛の様な覚束ない感覚だけだ。
不死と囃される怪物にも、やはり死は存在するのだ。そして、それは確実にユオンの心臓に爪を突き立てようと機を窺っている。
──私がもっと強かったなら……この手でセラを守れただろうか。
ユオンは何に対しても興味がなかったが、特に強さというものは忌避していたと思う。
何故なら、強すぎる力は災禍を呼ぶからだ。それ故に、ユオンは吸血鬼狩りにも同胞にも目をつけられぬよう陰に潜み、生命を維持するための最低限の血液だけを飲みながら生きてきた。
今から思えば、苦行のような生き方を百年余りにも渡ってよくも続けてきたものだと思う。
だが、とユオンは血染めの手を見下ろした。
全てユオンから流れたもので、ヴラドの返り血は一滴たりとも混ざってはいない。一矢報いることすら出来ずに、ユオンはあえなく石畳の褥に横たわっている。
平穏を選んだユオンではセラを守ることは出来なかった。彼女にとって善い父親にはなれなかった。万が一、彼女がヴラドの手に掛かるようなことがあれば──最早ユオンにはこの先を生きる理由も、意味もない。
そこまで考えて、ユオンは自嘲するように唇を引くつかせた。
──あの子と関わってしまったばかりに……私の人生は滅茶苦茶だ。
それでも、セラと共に生きた半年間は楽しかった。野犬の血で誤魔化していた飢餓の苦しみすら、今となっては愛おしい日常だった。きっと、ユオンのような弱い男には何もかも過ぎた幸福だったのだ。
だからきっと──ユオンはセラとの思い出を汚すことなく死んでゆける幸福に満足しなければならないのだろう。
しかし、ユオンは空へと手を伸ばす。月光に縁取られた血染めの手は、大蛇に絡み付かれたかのように重く、今にも力尽きようとしていた。
──セラ……叶うなら、もう一度君に会いたい。
果てしない空の彼方に浮かぶ月に手が届くはずはない。分かってなお、ユオンは光を追い求めずにはいられなかった。
圧倒的な膂力で人々を蹂躙したいわけではない。享楽のために同胞を殺めたいわけでもない。
──ただ、君と生きたい。
ユオンの瞳が、春を迎えた不凍海のようにほろほろと溶けていく。
──誰かと共に生きたいと思える生を得た。この幸福を君に分け与えたい。
月を掴むことはないまま、伸ばした腕すらも石畳の上にぱたりと落ちる。
ユオンは後悔を滲ませつつ月を眺めることしか出来ない。最期の力は、届かない月ではなく娘を抱きしめるためにとっておくべきだったのだろうか。
──生きたいよ……君の命が尽きる、その日まで。
その願いに応えるように、月から黒い粒が吐き出された。ユオンの目から見たそれは胡椒よりも小さな粒子でしかなかった。
それは二つ、三つと増えていき、いつしか七つほどの大きな塊となってユオンに殺到した。
ユオンが見紛うはずもない。ユオンの血液と引き換えに下した使い魔達──彼らを率いて先陣を切るのは愛しい半身、ソルである。
──どういう……ことだ?
ユオンは吸血鬼狩りの居丈高な頼み事を聞き、使い魔達には周辺の探索を命じていた。探索の中断は勿論、帰還の命令とて下してはいなかったはずだ。
「ソ、ル……」
ユオンは最後の力を振り絞って使い魔の名を呼ぶ。ソルは迷わずユオンの頬にへばりつくようにして着地し、痩せた頬を翼膜で撫でる。
ソルはユオンの具合を確かめるように鼻面を押し当てた後、ユオンの唇にこぽと赤い液体を吐き戻した。
それは乾いた地面を打つ雨のように一瞬で染み渡る。まろやかな口当たりのなんと甘美なことか。
──これ、は……
液体が喉を潤した瞬間に理解した。これは狂った騎士──ヴラドの血液だ。
ソル達は戦馬の後ろ足に噛みついた際、ついでとばかりに吸血を行っていたのだろう。
誰にも命じられずとも、主となったユオンを生かす──そのためだけに。
三百年という月日と狂気が育てた吸血鬼の血は極上の神酒にすら勝るものの、その量はソルの普段の食事量の五分の一にも満たない。無論、ユオンの傷を癒すほどではなかった。
しかし、ヴラドの血液を持ち帰った使い魔はソル一羽だけではなかった。この度ユオンの傘下に入った新参者達も一羽ずつ、ソルに倣って血液を吐き戻し始める。
少しずつ、少しずつ──細い絹糸のような繊細な命が、ユオンに吹き込まれていく。
その瞬間、ユオンの情緒は色鮮やかに渦を巻き、ぐしゃぐしゃに狂い咲いた。
直向きに生きろと、呪わしい神に、そう言われた気がした──
■□■
「死ね──!」
沖で鳴り響く汽笛の音を掻き消すように、男の絶叫が港湾に響き渡る。
ヴラドは怨詛を吐くと同時に、やや短く持った槍を正面に立つアレスに向かって鋭く突き出した。実体を持たぬ男の、鬼のような形相が垣間見える一撃である。
身を隠すための倉庫群は既に遠く、アレスは逃げ隠れする戦術を捨てざるを得なかった。波止場には身を隠す物陰が少なく、夜の危険を冒して搬入された木箱は、その殆どが既にヴラドによって木っ端にされていた。
搬入作業をしていた船員達は突如として始まった殺戮にとうに逃げ出しており、周囲に人影はない。
アレスは脇腹を掠める穂先を辛うじて避け、二本の短剣で柄による打撃を食い止める。しかし、続けてヴラドの打撃を受け流すよりも早く、腕力に物を言わせた横薙ぎの一撃が、エリシュカの横腹を打った。
「ぐぁ──!」
アレスはその場に蹲るが、頭上から振り注ぐ殺気に顔すら上げることなく横転し、ヴラドから距離を取る。その十六フィート後方には既に波止場の岸壁が迫りつつある。
直後、槍の穂先が振り下ろされ、焦げ茶色の髪が一房宙を舞った。
「クソが……調子に乗りやがって……!」
アレスはふらつきつつも立ち上がり、口の中に滲んだ血を石畳に吐き捨てた。
“御使い”の加護の力で多少は丈夫になっているとは言え、やはり、エリシュカの身体は戦いに用いるには貧弱が過ぎる。
重いドレスと舞踏で培ったという体力も、長時間の戦闘に耐えうるものではない。今も、打たれた横腹以外にも、骨が折れていないのが不思議なほどの激痛があちこちにあった。
どこからか、警戒を露わにした雌梟の鳴き声がする。ロイの使い魔の白梟だろうか。ロイと二手に分かれた際のどさくさでその姿を見失っていたが、この近辺に潜んでいたらしい。
次の一撃に備えよという警告に従い、アレスは今度こそヴラドの突きに合わせて二本の短剣で受け流す。
アレスは力の流れを利用して踊るように右後方に下がるが、一瞬足がもつれそうになる。エリシュカの身体は既に蓄積した疲労が限界に達しつつあるのだ。
アレスの技倆と梟の支援をもってしても辛うじて致命傷だけは避けるのが精一杯で、これ以上戦闘を長引かせると、戦況はアレスの不利に傾くばかりだろう。
ヴラドとの距離は目算にして約十フィート。吸血鬼を相手に慢心が許される様な距離ではない。
だが──アレスは歪な笑みを浮かべた。人間には聞こえないはずの蝙蝠の声がアレスの耳介を震わせたからだ。
蝙蝠は通常、高い周波数の音波を放出し、その反響を聞き分けて獲物の位置を探り出すことが出来る。土やら建物やらの障害物を透過させられるわけではないが、捜索能力は主の上を行くだろう。
そんな蝙蝠たちの報告曰く──付近に本体の影はなし、である。
「よくやった! さァ……反撃開始だぜ、亡霊野郎!」
アレスは両手に持っている短剣に意識を集中させ、夜叉を落魄させる奇跡を願う。
その瞬間、先の兜への一撃とは比べ物にならないほどの光が黒の剣身から迸った。立ち昇る白い紅炎は周辺の闇を切り裂き、アレスの姿を鮮やかに照らし出す。まさに“御使い”に相応しい姿であった。
なまじ理性的な吸血鬼ならば、この光景を目撃した瞬間に逃亡を図ったに違いない。だが、ヴラドは他国の王への憎悪で正常な判断が下せない状態であった。
否──例え、正気が残っていたとしても、三百年間醸成し続けた騎士としての矜持が逃亡という選択肢を許さなかっただろう。
ヴラドは小細工を捨て、穂先をアレスの左胸へと向ける。殊、武においては達人の域を超越した者同士、いつ仕掛けるかを吟味する時間はほんの刹那であった。
ヴラドが一歩右足を踏み込んだ次の瞬間、その足元から轟雷の音と共に衝撃波が発生した。ほぼ同時に、アレスが左半身を半身に構えたまま前に出る。ヴラドに比べてその踏み込みは余りにも軽い。
「無様に死ね! 異国の王よ!」
「るッせェ!! 死ぬのはテメェだ!!」
突き出されたヴラドの渾身の一撃を、アレスは左手の短剣一本で迎撃する。逆手に構えた短剣の剣身が槍の穂先に、寸分狂わず接触した。
その瞬間、槍の穂先が綺麗に二股に裂ける。裂けた部分は即座に血液に戻り、石畳をびしゃびしゃに濡らして大きな血溜まりを作った。
槍から迸る血液はアレスの戎衣をも汚したが、アレスは穢れなどに頓着はせず、そのまま刃を前方へと押し込む。
奇跡を宿した刃は血色の柄と右の籠手を裂き、やがて胸当てを深く斬り付ける。
だが、流石の刃も分厚い防備に対しては微かな抵抗があり、振り抜くには後一押しが足りない。
アレスは右手の短剣での刺突を狙う。元より、銀の純度で勝るこちらの方が、殺傷能力は上だ。
「うおおおおおおお!!!!!」
騎士は残った左手でエリシュカの右手首を掴む。真っ直ぐに突き出されるはずだった短剣の軌道は無理やり左へと逸らされ、行き場を失くした。
アレスはヴラドに刃を当て、ヴラドはアレスの手首を掴んだまま、状況は膠着した──かのように見えた。




