第八十一話 あなたが死ぬその時まで※
ロイが正気を取り戻した時、その両手には大量の赫がねっとりとこびりついていた。
指先から粘着質に滴る血液は、足元に敷かれた赤い敷物に音もなく吸い込まれ斑に染まる。
視界の上部、人類の楽園を描いたとされる天井画までもが、幼子が赤い絵の具を叩きつけたかのように、滅茶苦茶に塗り潰されていた。
『う、嘘だ……』
ロイは生臭い血の匂いで溢れ返った世界でただ一人、救いを求めて視線を彷徨わせる。ちらりと見えた露台に繋がる掃き出し窓の前に、血塗れの父母が縺れるようにして倒れていた。
否──父母だけではない。幼い弟妹や上級使用人達の夥しい屍が、煌びやかな広間に血の山河を作り出している。
目の眩むような地獄が、吊灯の燈し火に照らされてちかちかと瞬いていた。
『■■■……■■■■■……』
ロイは自分の口から発せられたものではない吐息を聞いて、ぎくりと身を強張らせた。
女は、この地獄の唯一の生き残りのようだった。肉桂色の髪も明るい丁子色のドレスも、まともに血を被ったのか赤黒く塗れている。
その華奢な腕の中では右腕を失った付き人が丁度その生を終えた所であったらしく、残っていた左手が力なく床に投げ出された。
凄惨な現場の中心に、血塗れの手を引っ提げて立ち尽くす男──客観的に見ればロイこそがこの惨劇を引き起こした張本人に見えるだろう。
違う、と叫びたかった。だが、喉まで出かかった否定の言葉は、この世に生まれることなく死んで行く。
直前の記憶がないという言い訳が利かないほどに、ロイの心は興奮と愉悦にどうしようもなく昂ぶっていたのだ。
『■■■■■■、■■■■……?』
女の赤い唇が震えるが、声は聞こえなかった。最早この女の声すら思い出せないほどに、ロイの記憶は擦り切れてしまった。
だが、ロイを恐れながらも責めるような花緑青色の瞳だけは、きっと一生忘れることはないだろう。
ロイはどこか諦めたように女に声を掛ける。
『──どれほど俺を苛むんですか、貴女は』
女は一瞬驚いたように目を見開くが、直ぐにゆっくりと唇を動かし始めた。瑞々しい唇は遮二無二吸い付きたくなるような艶めかしさでもって、そっと致死性の毒を吐く。
あ な た が 死 ぬ そ の 時 ま で、と──
■□■
ロイは胃の腑が裏返しになるような苦痛に両膝を折り、激しく咳き込んだ後ぱしゃりと透明な胃液を吐瀉する。ヴラドから奪還したセラをその手で砕かぬように配慮するのが精一杯だった。
「違う……違う! この子供の怪我《《は》》俺のせいじゃない……! しっかりしろ……!」
心の傷による恐慌から自力で復帰しようと試みるロイであったが、その様をヴラドは気配を殺しながら慎重に窺っていた。
ロイの事情は分からないまでも、ロイを出し抜く好機と察したのだろう。ヴラドはロイに気付かれぬよう、巨体ゆえに起き上がれぬ血の戦馬に触れてぐずぐずとその形を溶かし、槍斧に作り変えた。
ヴラドはゆっくりとロイの右後方へと回り、槍斧を振り上げると、ロイの首を狙って渾身の力で三日月型の斧部を振り下ろした。
「何呆けてやがんだ、優男!」
唐突に夜の港湾に響いたのは荒々しい女の声だった。その刹那、吸血鬼狩りの戎衣を纏った女が、渾身の力でロイの身体を突き飛ばす。
ヴラドの振り下ろした槍斧の凶刃が空を切り、石畳を食む。だが、砕けて弾け飛んだ石の破片が女の頬や耳を浅く裂いた。
二人の体は硬い石畳の上を転がる。小石が体を掻く痛みにロイは漸く悪い幻想から覚めたように目を見開く。
漸く回転が止まった頃には、ロイとヴラドの間には十フィートの距離が空いていた。
「ちっ……! なァにが『確約は出来ないが、了解した』だ! 格好つけやがってよォ」
女は立ち上がると、頬を裂く傷口の血を親指で拭った。
「敵を平らげるどころか、テメェが皿に乗せられてりゃァ世話無ェぜ!」
ロイは烈しい光に焼かれたかのように、目を眇める。
エリシュカ──いやこの身体能力は、あの少女では有り得ない。恐らく“御使い”アレスに身体の主導権を譲渡したのだ。
確かに何かあれば“御使い”に交代しろと言い含めてはいたが──その何かに使い捨ての駒の危機を含めてしまうのは甘さであり、未熟の証拠だ。
だが、心優しい少女らしくもあり、偽りのない仁恵がどうしようもなく荒むロイの心に沁みる。
ロイは立ち上がるが、エリシュカの顔に刻まれた傷をみると、居心地が悪そうに目を逸らした。また正気を失って二度もアレスの足を引っ張るわけにはいかない。
「……すまない、助かった。それよりも──出血しているようだが、他に怪我はないか。走れそうか」
「お……おォ……?!」
ロイはアレスの嫌味には乗らず、その依代となっているエリシュカの身体の怪我の具合を確認する。
アレスの性格上、怒り狂うであろうことは折り込み済みだったものの、ロイの予想に反してアレスは呆ける。
遍く人々に縋られ、傅かれることに慣れきった“御使い”は、怪物に慮られるとは思わなかったのだろう。
「重畳だ。セラが怪我をしている。意識を取り戻さないのも心配だ。病院へ連れて行ってくれ」
「……はァ?! 何故私が?!」
アレスは裏返った声でロイに噛み付く。
一筋縄ではいかないアレスに、ロイは戦闘狂が、と心の中で毒付いた。
「吸血鬼狩りの一員となった以上、任務の優先順位は覚えてもらう。人命の救助が最優先で、討伐は二の次だ」
アレスは、人間本位の建前を無情にも笑い飛ばした。
「人の決め事に私が従う理由は無ェ。それに──向こうはどうやら私を逃がしてくれるつもりはないらしいぜ?」
なに、とロイは呟くが、背後で噴出する殺気がアレスの言葉を力強く肯定していた。
石畳を食む槍斧を強引に引き抜き、下段に構える。その穂先はロイではなくアレスへと向けられていた。
「怨敵……王……」
ヴラドの声は呪詛のように地べたを這いずる。
ロイはセラをアレスに託すのを諦めたのか、彼女を抱えたままアレスから一歩、また一歩と距離を取った。
ヴラドの変質に怖じけたわけではない。しかし、ヴラドがアレスを仇敵と定めたのならば、セラを預けるのは却って危険だと判断した。
「お前を見て王とは……どういう事だ?」
ロイは横目でアレスを睨む。
「あん? ……そういや、お前はあの場にいなかったなァ」
アレスは背中に両腕を回し、二本の短剣を引き抜く。右の手に順手で構えたものはエリシュカに支給された最高級の品、左の手に逆手で構えたものは銀の純度は低いものの兄から託された何物にも代え難い品である。
「エリシュカは王家の血を引く尊い娘なのさ。……文字通り血の臭いから嗅ぎ取りやがったんだろうよ。……お前も出来るだろう?」
「…………」
ロイは目を逸らす。アレスは嫌悪感を露わに舌を出した。
「まァ、そうは言ってもごく薄い繋がりだ。本人の王位継承権なんぞあって無いようなモンだろうが」
瞬間的に、ロイの頭に血が昇った。
「お前……! 《《気付いていながら黙っていたな》》?!」
王家の血筋──一見すれば最もクリステア王国に根ざした、やんごとなき家系である。しかし、王の婚姻とは基本的に他国の姫君との間で結ばれるものであり、その子孫は必ず《《他国の王家の血を汲むことになる》》。
三百年という時に置き去りにされ、今も尚一人で戦争を続けるヴラドにとって、エリシュカはクリステア人ではなく憎い敵国の王の裔だ。同時に、自国の王の裔であるという事実は、仕えるべき主に手を掛けた男の前では、何の抑止力にもならないことが判明した。
アレスはにやりと笑うばかりで明言を避けたが、その態度から、恐らく何もかも承知の上で敢えてエリシュカたちに危険を知らせなかったのだと分かった。
──いつから気付いていた?
ベロニカから任務内容の説明を受けた時か、ユオンからヴラドの特徴を聞いた時か──いずれにせよ、“御使い”を名乗る存在は、ただ、闘争という欲望を満たすためだけに王家の血筋という餌をぶら下げ、標的が罠に掛かるのを待っていたのだ。
ロイはアレスに対する怒りを飲み込み、セラを抱え直した。
「セラをお前と一緒にするわけにはいかない。俺が戻るまでの間、何としても耐えろ」
「けっ、耐えろだと? 誰にものを言ってやがる。さっさと行け!」
ロイはアレスに背を向け、ファニュ=ブラムスの市街地へと向かった。
か弱いセラを抱えているため全力で疾駆することは出来ないものの、ロイの後を追ってくる気配はない。
矢張り──ヴラドの興味と憎悪はアレスに全て向けられているのだ。




