第七十九話 恐怖に北(そむ)きし者、闇渡る架け橋※
最初にその光景に気付いたのは白梟のヴィリアであった。
主であるロイの呼び掛けが無いにも関わらず突如として虚空に現れ、闇夜を裂くように白い翼を大きく広げて飛翔する。
「ヴィリア! どうしたの? 戻っていらっしゃい!」
ヴィリアはエリシュカの呼びかけを無視し、何かを警戒するように低い声で鳴いた。普段の小鳥のような鳴き声とは趣が全く違う。
「ヴィリア、何か発見したのか」
エリシュカと共にユオンたちの塒に向かっていたロイは、優秀な使い魔の行動に足を止めた。
肯定するように鋭く鳴く白梟に、ロイは険しい顔付きで目を閉じる。薄い瞼に阻まれた視界に突如として浮かび上がるのは白梟の視覚情報──港湾を俯瞰する、狭い画角の映像だった。
ロイは似たような倉庫の並ぶ一角に倉庫崩落によって出来た不自然な穴を見つけた。そこにいたのはユオンとセラ、そして──余りにも禍々しい赫を纏い馬上槍を構える騎士の姿だった。
ロイは思わず大きく目を見開く。隣にいたエリシュカは、それだけで変事を悟ったらしい。
「……一体、何が見えたの?」
「ユオンとセラが……交戦中だ。相手は吸血鬼狩りではない。……騎士、のように見えた」
エリシュカは思わず旅行鞄を取り落としそうになりながらも、その言葉を咀嚼し、状況を把握したようだった。
「そんな……! それじゃあ、あの二人……逃げなかったの……?!」
吸血鬼を人間に戻す手段を探すエリシュカにとっては、現在の状況に複雑な心境を抱えていることだろう。
ユオンが実験の検体になれば、エリシュカは兄アルフレートを取り戻す可能性が僅かに開けるかも知れない。だが、その地獄を選択した結果、今まさにユオン達は命の危機に瀕している。
「速やかにセラの救出に向かう。走れるか?」
ロイはエリシュカの動揺を見て、静かに問う。
ユオンの名を口にしなかったのは、吸血鬼狩りにとって吸血鬼の安否はさほど重要ではなかったからだ。今ここで守るべきは人間の命である。
ロイは負けん気の強いエリシュカならば、すぐに切り替えて食らいついてくるものだと考えていた。だが、エリシュカは首を横に振る。
「私は後から追い掛けるから、先に行って! 私に合わせなければ、貴方はもっと早く走れるわよね?!」
──気付いていたのか。
無論、圧倒的な身体能力を持つ吸血鬼が、人間と同じ速さで動く筈がない。
先日の巡回でエリシュカが曲がりなりにもロイを追走する事が出来たのは、ロイがエリシュカの足の速さに合わせ、配慮していたからに過ぎないのだ。
「……分かった。ヴィリアを残していく。先導してもらうといい」
「……アレス様がそわそわしているわ。『メインディッシュは残しておけ。私に戦わせろ』ですって」
「確約は出来ないが、了解した」
ロイは手に持っていた旅行鞄を地面に置く。この旅行鞄の中身は元より空だ。吸血鬼狩りとして溶け込めるよう所持しているだけの小道具のようなものだった。
「もし途中で何かあれば、“御使い”と交代しろ。躊躇うな」
ロイはエリシュカに告げるや否や、煉瓦の壁をまるで地面と同じように駆け上がった。瞬きの間に屋根の上に降り立ち、ユオンたちのいる方角を確かめると、大きく跳躍して屋根から屋根へと飛び移る。
ロイの足が屋根を踏み込む度に屋根に葺かれた粘板岩に亀裂が入り、飛び散った鋭い破片が地面へと降り注いだ。
不運にも真下にいたらしい野犬が、ロイに痛みと苦情を申し入れるかのように、けたたましく吠えた。
だが、ロイにはそのような些事にかかずらう余裕などない。きれいに黙殺して現場へと急いだ。
その刹那、不意に右前方一マイル先から大きな破砕音が鳴り響いた。もうもうと舞い上がる土煙がそこで起こった衝撃の強さを物語っている。
どうやら、ユオンたちと騎士はヴィリアが目撃した地点から少しばかり流れたらしい。
「……移動……いや、逃走したのか……!」
ロイは舌打ちするが、これはロイ自身の落ち度でもある。ユオンの性格上、真正面からぶつかり合うことはないと分かっていたはずなのに、すっかり失念してしまっていた。
ロイは整備不良で辛うじて稼働している街灯の笠を、まるで飛び石の様に渡って方向を変えた。
尤も、吸血鬼の脚力に街灯が耐え切れるはずもない。笠に嵌め込まれた硝子は破砕して粉塵と化し、支柱がぐにゃりとへし折れる。
再び屋根に降り立って駆け出したロイが土埃と生臭い臭気が充満した現場へと到着したのは、それから僅か数十秒後のことである。
「……っ!」
ロイの目に飛び込んできたのは、余りにも凄惨な光景であった。
前時代的な甲冑を纏う騎士は、既に敵と見定めた者を仕留めていた。
ユオンの身体は巨大な馬上槍に腹を貫かれ、崩れかけた煉瓦の壁に縫い留められていた。両腕はだらりと投げ出し、頭は騎士の胸板に預けるようにぐったりと垂れたままだ。
騎士の左腕にはよく見慣れた金髪の少女の姿があった。こちらも最早意識がないのか、父親と同じように四肢をだらりと投げ出したまま、ぴくりとも動かない。
「ふふ……我が槍の味は如何ですかな、ストイカ卿。美味そうに深く咥え込んでいらっしゃる」
がぱ、とユオンの口から鮮血が噴き出す。返り血を浴びた甲冑と槍が嬉しそうに脈打つのを、ロイは見逃さなかった。
「おお……流石はテレジア様。ストイカの高貴な血の、甘露なることよ。やはり殺すには惜しい──」
くつり、とヴラドは笑い、馬上槍から手を離して黒髪を不器用に撫でる。
「テレジア様……長らくお慕いしておりました。今日この時より我が最愛の妻としてお迎えしよう」
恍惚と呟く騎士を見るロイの目が業火のごとく燃えた。
ユオン・ストイカは吸血鬼だ。セラの監護もろくに果たせず、食わせるのに困った挙句、死体から金目の物を漁ったどうしようもない男だった。
だが、そんな未熟な男でも娘を想う心だけは真実であった。ユオンはセラと共にそっと姿を消す事も出来た。それにも関わらず、この場所でロイたちの来訪を待っていた。──実験動物に身を窶してでも、娘と共に生きる地獄を選んだのだ。
そんな男の末路がこれなど、ロイは到底認めることは出来なかった。
「──流石に、お前はやりすぎた」
ロイが静かな怒りに突き動かされるように、両の拳を握りしめる。あり得ぬほどの膂力によって開いた傷口からは血が滴り落ちるが、屋根に落ちる寸前握った意思を持ったかのように空中で渦を巻き始める。
それらは分裂し、形を変えながら、やがて十本の短剣となった。生成された短剣は見えざる腕に操られているかのように、剣先がヴラドへと向く。直後、一切の予備動作なく、一斉に射出された。
「……!」
ロイの殺気を感じ取ったのか、ヴラドは不意に上空のロイを仰ぎ見る。視界に映る短剣を認識するや、ユオンの身体から馬上槍を乱暴に引き抜いた。
「……っ、が、は……っ!」
ユオンは激痛に悶えながらその場に崩れ落ちる。
尤も、辛うじて息はあるようだが、その身体に空いた洞がなかなか再生しないところを見ると、どうやら既に相当量の血液をヴラドに奪われてしまったらしい。
「速い……!」
ヴラドは手持ちの槍で全てを叩き落とす事は出来ないと理解したようだった。
即座に槍の造形を溶かして血液に還元させると、更に液体に戻った血液を硬化させて凧型盾を生成した。
ヴラドは生成した凧型盾を半身に構え、極力被弾を防ごうと試みる。
しかし、初撃が盾の端を食んだその瞬間、地面を踏みしめるヴラドの両足が、その威力に踏ん張り切れずにニフィート後退した。鉄靴と石畳が異常な威力で擦れ合い、火花が散る。
「ぬおお……!!?」
二撃目までは辛うじて防いだものの、容赦のない短剣の連撃はやがて血の盾を砕き、ヴラドの肩当てを削ぎ落とした。金属のような光沢を持っていた破片は路地に落ちるなり、血液となって石畳を汚す。
ロイの作り出した凶器は残り六本──それらはまるで嵐のような烈しさを保ったまま立て続けに盾に吸い込まれていった。
最早盾は無用の長物と化し、無情にも短剣は腿当てを貫き、籠手を砕いた。至る場所から鮮血が噴き出し、ヴラドは堪らず片膝を付く。
防御の薄い関節を狙うまでもない、徹底的な暴力であった。
「ぐっ……!」
騎士が力を込めると、分厚く鍛えられた筋肉に押し出されて短剣が地面に落ちる。
刃が銀ではないため再生は難しくはないだろうが、この威力で心臓を貫けば如何に騎士とて絶命するはずだ。──だが。
「──子供に助けられたな。運のいい奴め」
本命の胸当て周辺を撃ち抜けなかったのは痛手だった。しかし、万が一にもセラを凶刃の嵐に巻き込んでしまえばユオンに顔向けが出来ない。
とは言え、このまま手をこまねいているつもりも、ロイには無かった。
やるべきことならば既に決まっている──騎士に至近距離まで近付いて無力化し、セラを奪還すればいい。
ロイは瞬きの間に屋根から石畳の路地へと降り立ち、騎士に襲いかかる。
「くっ……! この、化け物が!」
実力差を悟ったヴラドは、セラを抱えたまま走り出す。しとどに流れ続ける血液を利用して、ご丁寧に鞍まで備えた血の戦馬を作り出す。ヴラドはセラを抱えたまま飛び乗った。
乱暴な騎乗に戦馬は声も無く嘶き、戦わずして敗走し始めた。
「待て……!」
ロイは一瞬だけ瀕死のユオンを見たが、表情を変えることなく彼を見捨てた。今のロイには介錯を行う以外にユオンを苦痛から救う手段は無い。
そのため、騎士の背中を追うロイは、ユオンの腕がぴくりと動いたことにも気付くことはなかった。
「ソ……、ル……」
ユオンはとろとろと口から血を零しながら使い魔の名を呼ぶ。
太陽の名を冠する蝙蝠は、呼びかけに応えて主の顔にぴたりと寄り添う。心配そうに細い指でユオンの痩せこけた頬をなぞった。
「……たの、む……セラ……を……」
ソルは人には決して聞くことの出来ない声で夜空に吼えた。
闇がぞわぞわと騒めき始める。無数の蝙蝠たちの羽搏きが、漸く取り戻した夜の静寂を破った。
彼らはユオンの身体へと群がり、血液を舐め始める。
野生の蝙蝠にとって吸血鬼の血を飲むことは魔との契約を意味する。動物としての生を終え、怪物の尖兵としておよそ生物が持ち得ぬ力を得るのだ。──そして、その力は全て主の欲望を満たすために使われる。
使い魔ソルを筆頭に、彼らは勢いよく夜空へと舞い上がった。その速度は流星と見紛うほどに速く、ユオンとセラを繋ぐ架け橋のように去り行く騎士へと殺到した。




