第七十八話 追憶の妄執、玄の面影
圧倒的な怪物が臆病者に対して頭を垂れている──その有り得ない光景に、恐慌状態に陥りかけたユオンの精神は僅かだが平静を取り戻す。
勝手なもので、それまで恐怖に麻痺していた脳は、即座に虐殺が始まるわけではないと知るや、生きる為の演算を始める。
幸いにも、ここは倉庫群だ。身を隠す物陰は多く、騎士の気を引きそうな餌はそこかしこにいる。騎士の注意を彼らに逸らせば、あるいは逃げ切れるかもしれない。
だが、とユオンは腕の中で震えている少女の背中をそっと撫でる。
「大丈夫だよ、セラ。怖いことは何も起こらないから」
助けてくれと情けなく叫びだしそうになる怯懦を叱咤し、ユオンは観念したかのように跪く騎士を真っ直ぐに見据えた。
ユオンの身体能力をどう高く見積もっても、セラを連れて逃げ切れるという結果は弾き出せなかった。だからと言って、セラを見捨てるという選択肢はユオンの中には最初から存在しない。
「お、お前は──何者だ? 私が何者か知っているようだが──」
一先ず騎士の真意を探るために、ユオンは立ち上がりセラを背後に庇う。薄明の目を騎士の持つ馬上槍から外す事はしなかった。
「おお、何と……! よもやこの忠臣の名をお忘れか……!」
甲冑姿の男は芝居がかったように天を仰ぎ、悲憤に喘ぐ。その声音は真実心痛を堪えるように掠れていたものの、ユオンは油断なくこの男の挙動に耳目を集中させ、警戒を解かない。
何故ならば、男は仮にも主と仰ぐ人間を前にしながら馬上槍を片時も離そうとしない。口では恭順を騙りながらも、含む所があると言っているようなものだった。
「……それは、すまない。私は吸血鬼として覚醒した後の記憶しかない。名前以外は何も覚えてはいないんだ」
「それはそれは……何とお労しい」
なれば、と騎士は立ち上がり立礼する。男が動く度に籠手や膝当てが擦れ合い、けたたましい音を立てる。
耳がその音を拾う度に、ささくれ立った心に針を刺された様な不快さがどうしようもなくユオンを苛む。
「今一度主君に名を呼ばれる誉れに与りたく存ずる」
ユオンは静かに頷く。本音を言えば、騎士の名などに興味は無かったが、この男を無闇に刺激したくはなかった。
「我が名はヴラド・ドゥミトレスク。ストイカ子爵家に命尽きるまで身命を賭すと誓いし、筆頭騎士なれば──領地を守護せよとのお言いつけ通り、本日この日まで異国の兵どもを屠り続けて参りました」
「領地を、守護……? 敵兵を屠り続けてきた……だと?」
ユオンは男の口上にきつく眉根を寄せる。
ユオンは吸血鬼としては若輩者でしかないが、ここ百年の間にこの国で内紛や戦争が起こっていたという噂は寡聞にして聞かない。
ユオンの困惑を余所に、ヴラドを名乗った男は「はい」と歯切れがよい。
「つきましては、我が献身に対しそれに見合う褒賞を頂きたい」
その言葉に、ユオンはあからさまに表情を緩めた。ユオンには男に差し出せるものなど何も持っておらず、すぐに興味を失うものと高を括っていた。
「褒賞──悪いが、今のストイカ子爵に直談判してくれ。私はただの死に損ないの亡霊で、最早彼らとは何の関わりもない怪物だ」
しかし、ユオンの思惑を裏切って、ヴラドはゆったりと頭を振る。その所作には余裕があり、ユオンの言葉に気を悪くした様子もない。
「何を仰る。金や土地などには興味は無い。私の望みはただ一つ……ストイカの至宝と名高きテレジア様との婚姻をお許し頂きたい」
「……何を言っている? だから、私はストイカとはもう関係が──」
だが、ヴラドはユオンの言葉を遮って、口を開いた。仮にも主に対し、余りにも礼を欠く振る舞いである。
「そう言えば──貴殿はテレジア様によく似ていらっしゃるようだ。やはり高貴な血にこそ美しさは宿るか……」
ヴラドはテレジアなる女性を夢想するかのように恍惚と呟く。その表情は兜の奥に隠されていてユオンには見えないものの、口よりも余程不躾な目線が舐め回すようにユオンを品定めしている。
ユオンは目の前の男が強力な怪物であることを忘れ、徐々に苛立ちを感じ始めていた。怒りを抑え込もうとして、却って首の筋がびきりと不自然に浮き出る。
「確かに──私の名はストイカだが、私は君が求めている人間ではない。残念だが、君が探している人間はもうとうに亡くなっているよ、恐らくね」
「………………は?」
間抜けな声を発して呆ける騎士を見てしまえば、ユオンはもう止まれなかった。
大体、とユオンは吐き捨てるように言葉を継ぐ。
「敵兵だって? そんなものがどこにいる。この国では少なくともここ百年あまり争いは起きていない!」
周囲を見ろ、とユオンは叫ぶ。打ち捨てられた倉庫群は時間と共に朽ち始めてはいたものの、完全に崩壊しているのは騎士によって破壊された一棟のみである。
「この港湾のどこに戦火がある! 敵の蹂躙があるんだ!? ありもしない戦争なんてものに引き摺られ、無駄に人間を殺し回っているお前こそが、今の平和を乱す元凶だろう!」
その瞬間、ヴラドは持っていた馬上槍の先端を力任せに石畳に叩き付ける。ぱきゃ、と鋭い破砕音がして大小の石礫が堪らず弾き出される。馬上槍は深々と石畳に刺さったままだ。
「黙れ──黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!」
それでも、と叫びながらヴラドはユオンを指差す。凄まじい怒りで震え、焦点が合わない。
「それでも、お前はストイカではないか! ならば、忠義の騎士に褒賞を! 戦果を上げた男に栄誉を! 与える義務がある! ……テレジア様が無理ならば、この際他のものでもいい」
「だから、私は何も持っていないと……」
「持っているではないか、その背の後ろに!」
ユオンは鋭く息を呑む。久しく呼吸を必要としていなかった身体は、闘争の気配を察知して力が漲り始める。体内にこびりついていた錆が落ちるような感覚を指先に感じながら、力強く拳を握り締めた。
ユオンの背後でセラがかたかたと震え始めた。ユオンの外套を掴み、背中に顔を埋めているのは恐ろしい怪物を視界に入れたく無いからだろうか。
「貴殿が背後に隠している宝物。それを所望する」
「断る。……この子は私の娘だ」
「血は繋がっておられぬだろう。養子を可愛がる度量がお有りならば、またどこぞから贖えばよろしい」
「巫山戯るな! 娘は絶対に渡さない!」
甲冑の奥でヴラドが卑しく笑う気配がした。
「ストイカ卿、私は貴殿でもよろしいのだぞ?」
「何……?」
「先も言ったが、貴殿はテレジア様によく似た顔貌をお持ちだ。……この手で愛でられぬはずがない」
ユオンの恐々とした面に烈しい嫌悪感が浮かぶ。大概のことを耐え忍ぶ術は身に着いていると自負していたが、この手の不快感には全く耐性がないと今更ながらに知る羽目となってしまった。
「…………悪い冗談だ」
「では、やはりその娘を貰い受けたい。主君にならい、私の養女としよう。テレジア様の血を引かぬ子どもであるのは残念だが、主君の寵愛深き少女だ。大切にするとお約束する」
ヴラドは右手を差し出し、褒賞を寄越せと催促する。
ユオンは一瞬抵抗を考えた。しかし、ユオンとヴラドでは吸血鬼としての力量があまりにも違いすぎる。本気で奪いに来られたらユオンはたちまち殺されるだろう。
だが、少なくともここでユオンがヴラドの提案に乗れば、セラは生き長らえる事が出来るはずだ。しかし、次の瞬間にはユオンとセラの間には永訣の川が引かれ、二人を分かつだろう。
「私の娘を、本当に大切に出来るのか」
「おとうさん……? なに……何を言ってるの……?」
ユオンからは背後のセラの様子は窺えないものの、信じられないものを見るような目線が背中に刺さるのを感じる。
ヴラドは不気味な声に喜色を滲ませながら頷いた。
「勿論ですとも! 早速、彼女を新たな同胞として迎え入れ、あらゆる病気や死の苦しみからお守りしましょう」
「同胞として……?」
ユオンは我が耳を疑った。この男は新たな同胞──つまり吸血鬼としてセラを同陣営に迎えると言った。それはセラを一度殺すという宣言に等しい。
「……それは……人間のままでは、セラのことを愛せない、と言いたいのか」
ヴラドは心底不思議そうに首を傾げる。板金の擦れる音はまるで断絶を宣告するように冷たく響いた。
「これは異なことを。牛馬を実の娘のように育てる狂人がこの世におりましょうか?」
「……おとう、さん……!」
ユオンの外套が強く後ろに引かれた。捨てないで、と縋る娘の顔を、漸くユオンは振り返った。
──何故。
何故殺さなければならない。何故この幼気な少女に苦痛を与えてまで、吸血鬼という怪物に変えてしまわねばならない。
──どうして、一瞬でも手放してしまえると思った?
ユオンは苦しげに唇を噛む。
娘を幸せにする──それは自らの手で叶えることにこそ意味があるというのに。
ユオンはヴラドを睨み付ける。その瞳にはもう迷いなどありはしない。
「……貴様にセラを渡すことは出来ない。彼女を彼女のまま愛せないのなら」
静寂は一瞬であった。
ヴラドは地面に突き刺したままの巨大な馬上槍を手に取ると、その穂先をユオンに向ける。
片手で軽く振るっただけだというのに、巨大な武器は厳冬に吹き荒ぶ風雪のように低く唸りを上げた。
「──ならば、奪い取るまでのこと」




