第七十七話 呪われし門出、望まぬ拝謁
その夜、港湾では化け物の哀哭を思わせる重低音が、海と空とを震わせながら木霊していた。
その声は、遠く離れた廃倉庫の中にいるユオンとセラの耳にも届く。どこか恨みがましい暗さを湛えた音響に、木箱に腰掛けていたセラはびくりと肩を震わせた。
「セラ、どうしたんだい?」
隣にいたユオンがおかしそうにセラを見る。
あれは出港を報せる汽笛の音だと、長く港湾を庭として駆け回ってきたセラならば既に知っているはずだ。
だが、セラは膝の上できつく両手を握り締めると、落ち着かない様子で足先同士をもぞもぞと擦り合わせた。
「……吸血鬼狩りの協会……どうしても行かなきゃだめ?」
不安そうなセラにユオンは敢えて少しおどけたように笑った。
「ああ、どうしても。私にはこんなに可愛い娘がいると、皆にお披露目しなくちゃならないだろう? そうだ、協会に行く前に、おめかしをしよう。身繕いすれば、きっとみんな君をお姫様のように──」
「そこに行ったら! おとうさんはひどいことをされるんだよ? ロイみたいに──全身切り刻まれて!」
セラはユオンの欺瞞を許さず、すくと立ち上がりユオンの外套の裾を掴んで引く。そして、逃亡を唆すように出入り口に視線を向けた。
ユオンは静かに、そして聞き分けのない子どもを諭すように頭を振る。
「駄目だよ、セラ。吸血鬼狩り達が来るまで大人しく待っていなさい」
だが、ユオンのこの落ち着いた態度が却ってセラを頑なにさせてしまった。
セラは憤慨したかのようにその場で足を踏み鳴らす。セラが怒りの感情を発露させるのを初めて目の当たりにしたユオンは言葉を失ってしまった。
「どうして?! おとうさんにひどいことする人達のことなんて嫌い! おとうさんに辛い思いさせる人達と仲良くなんてしないから!」
ねぇ、とユオンに呼びかけるセラの声は哀切に震えている。
「協会の力なんか、当てにするのはやめよう? あたし、がんばるから。おとうさんが他の人から盗まなくていいように働くから! ママのお仕事、見てたからわかるよ。うまくやる。ね?」
薄い衣を纏った女の姿がユオンの頭を過る。
思えば哀れな女だった。男に──強者に媚びて生きるしかなく、セラを遺棄しなければあの場を逃げることすら叶わなかった弱い女だ。しかも、あそこまでなりふり構わず逃げた女が、この冬を越せたかどうかすら定かではない。
セラがあれと同じになると言った瞬間、ユオンは凍えていたはずの血液が全身で沸騰するような怒りを覚えた。
「絶対に駄目だ!!」
セラは初めて真っ向からユオンに怒声を浴びせ掛けられ、痩せた身体をびくりと硬直させた。
これまでユオンとセラは孤独を恐れて互いに深く触れ合うことを避け、表面的な会話をなぞってきた、これはその弊害だろう。
今更になって本当の家族になることを望んでしまった身勝手に、ユオンはセラには分からないよう苦笑した。
「……怒鳴って悪かった」
でも、とユオンは言葉を続ける。
「今の君に必要なのは仕事じゃなくて、十分な栄養と凍えることのない家、綺麗な服だ。それから人として真っ当に生きる為の教育──私はこの身を持ってそれらを贖うと決めたんだ。……君の父親でありたいから」
ユオンはセラの前に跪き、彼女の小さな手を握る。余りにも小さな掌だった。これまで、一体どれ程の幸せを取り零し、失ってきたのだろう。それを思うとユオンの表情が哀れに歪む。
「おとうさんなのに、私のお願い聞いてくれないの? 一緒に逃げてくれないの……?」
「すまない、それは出来ないんだよ。君を守ってくれる場所を確保できる幸運は後にも先にも恐らくないだろうから」
もちろん、逃げ出すことは可能だろう、とユオンは思う。
そもそも、ロイのような苛烈な吸血鬼狩りが、逃亡の可能性がある吸血鬼を丸一日放置するなど正気の沙汰ではない。辛辣な物言いではあったものの、協会《地獄》に道連れにするのは忍びないと思ってくれてはいたのだろう。
「あたしがよくても──おとうさんにとっては、地獄なんだよ……?!」
癇癪を起こすセラに、しかし、ユオンは晴れやかに笑う。
「……地獄で何が悪いんだ。君と共に生きていけるというのに」
ユオンの前には元々二つの地獄があった。一つは死という実に安直な地獄である。飢えて死ぬか、吸血鬼狩りに討伐されるか。臆病者には実に似合いの最期に違いない。
だが、これはもう一つの地獄に比べれば大したことのない部類だった。後者は──内側から身を引き裂かれるような飢餓に耐えかね、娘と定めたセラを手に掛けるという末路だったからだ。
この恐怖はいつ何時もユオンの傍に付き纏い、この半年間、セラの隣にいて心の底から気が休まることはなかった。
だが、ロイは閉塞していたユオンに新たな地獄を教えてくれた。
その地獄ではユオンは身体を刻まれ、丹念に偽りの命を濾し取られ続ける──支払わなければならない犠牲を思えば、ユオンは今ですら吐き気を覚えるほどに恐ろしい。
それでも──耐え難い苦痛と引き換えにセラの衣食住と安全を得ることは出来た。
「それに、もし吸血鬼を人間に戻す薬が開発されれば……私は君と共に歳を重ねて逝くという幸福を手にすることが出来るかもしれない」
ユオンは手中の小さな手を見つめる。
吸血鬼を人間に戻すなど途方もない夢物語だ。ユオンの外見年齢をセラが追い越す方が容易いかもしれず、瞬きの間にこの手の中に握られているのは骨と皮ばかりの老女の手なのかもしれない。
だが、それでも──
「そのために……私は……いきたい」
ユオンは崩落した天井から覗く空を見上げる。
うっすらと赤錆を帯びたような大きな月が、欺瞞の愛を騙り、愚かな選択を選ぼうとしている吸血鬼を冷たく見下ろしている。
「……おとうさん」
ユオンの決意が確固たるものだと知ると、セラは喚く気力さえ喪失したようだった。そして、幼い少女にはそもそもユオンと行く道を違えるという選択肢は存在しない。
ユオンは不安そうに自分を見つめるセラに気付いて、その頭を撫でる。伸びに伸びてしまった子供特有の柔らかな髪の毛が指に絡むのが愛おしい。
「セラ、そんな不安そうな顔をしていないで──そろそろ吸血鬼狩りの二人が来る頃合いだろう」
──がしゃん。
闇夜の静寂を引き裂いたのは金属同士が擦れるような音だった。
──がしゃん。がしゃん。
一定の律動で刻まれる音が足音だと気付くのに、そう時は掛からなかった。鼻歌でも聞こえてきそうな軽い足取だった。
「吸血鬼狩りか……?」
否、とユオンは即座に否定する。彼らは複数人で動いていたがこの足音は一人分だ。そしてこの足音は──数日前の夜、使い魔の目と耳を使って目撃した、人殺しの騎士のそれと同じだった。
ぞわ、とユオンの背筋が粟立つ。急ぎセラの手を引いて腕の中に閉じ込めると、しゃがんだ体勢を利用し、一気に足に力を込めて天井へと飛び上がった。
ユオンはセラの視界を覆うように胸に顔を押し付けながら、崩落していない屋根の上に着地する。間隙を与えず隣の倉庫に飛び移ろうと、右足を踏み切った瞬間、塒にしていた廃倉庫が土煙を上げながら轟音と共に崩落した。
足場が崩れて体勢を崩したユオンは、咄嗟にセラの身体を外套の内側に包むように覆い被さる。
「セラ、息を止めろ!」
ユオンはセラを抱えたままもうもうと湧き上がる土煙の中に沈む。視界を潰されながらも石造りの路地に辛うじて着地し、転ぶ様な勢いで崩れた建物の区画から脱出した。
分厚い煙の幕から抜けた瞬間、周囲の廃倉庫を塒にしていたらしい男たちが数人、泡を食ったように逃げ出しているのが見えた。
彼らに付いて逃げるべきか、吸血鬼狩りたちを探しに行くか──ユオンは一瞬逡巡してしまった。
「おお……おおお……」
少し籠もったような低い声が、ユオンの逃亡の機会を無慈悲にも踏み潰した。
ユオンがかたかたと震えながらその声を振り返ると、僅かに薄くなった土煙が揺らぎ、血のように赤い甲冑を着込んだ男が姿を現した。その右手には人には扱えぬほど巨大な馬上槍が握られており、この尋常ならざる武器が倉庫の壁を粉砕した事は明らかであった。
頭部を覆う兜のせいでこの騎士の人相や年の頃は分からない。尤も──知った所で何だというのか。怪物の外見ほど当てにならないものはないとユオンは身を持って知っている。
「これはこれは──ストイカ卿」
粘ついた声色に喜色が混じる。ただそれだけのことで、耳が拾った情報に生理的な嫌悪感が芽生える。
耐えきれずに、ユオンの腕の中でセラが震えた。
「漸く……貴方様の元へ馳せ参じることが叶った。──拝謁賜り、恐悦至極に存じ上げる」
怪物は愉悦に歪む顔貌を隠したまま、頭を垂れる。まるでユオンを主と定めたかのように、その場に片膝を付いたのである。




