第七十六話 亡霊
セラがその食料品店を訪れるのは、懐事情というのっぴきならない現実のせいであって、健康への配慮やら、味の善し悪しは最初から度外視である。ましてや──客を睨むような店主のいる店など論外である。
「──また懲りずにうちに来たのか、この浮浪児め。どうやらよほど地面を舐めるのが好きらしいなぁ?」
昨日、派手にセラを突き飛ばした店主は、彼女の顔の怪我を見ても悪びれもせず、セラのことを浮浪児と悪辣に呼ぶ。
店主はセラが店の敷居を跨げぬよう腕を組み、仁王立ちになって通行を妨げる。無駄についた腕の筋肉を見せつけ、威圧しているつもりなのだ。
「……お金は、ちゃんと払ってます」
何を偉そうに、と店主は肩を怒らせてセラの頬を叩く。瘡蓋になったばかりの傷を叩かれ、目の眩むような痛みにセラは思わずその場に座り込んで、両手で傷を押さえた。
「物を買ったら金を払う! そんなのは当然のことなんだよ! それを何だ、偉そうに!」
店主はセラの横面を張った手を痛そうに振りながらも、棚に陳列していた店で最も安いパンの薄切りを二切れ、床に投げ捨てる。
通行人の群れから憐れむような、小馬鹿にするような秘めやかな笑い声がちらほらと上がった。
「こっちは“御使い”の様な親切心でお前みたいな孤児にも商品を売ってやってるんだ。それなのに感謝のひと言もねぇとはなぁ」
店主の顔に怒りではなく侮りの色が差す。めくれ上がった唇から覗く僅かに黄ばんだ歯列に、セラは猛烈な吐き気を覚えた。
「親の顔が見てみたいもんだ。まぁ──とっくに野垂れ死んで骨になっちまってるか!」
そう言って、店主は豪快に笑った。
泣きたくはなかったが、セラは目から涙が溢れるのを止めることが出来なかった。溢れた雫が腫れた頬を伝っていくのが熱く、じくじくと滲みた。
「──そうか。髑髏を見たかったのなら、悪いことをしたな」
唐突に、この場にそぐわぬ静かな声がセラの背中をそっと撫でた。セラは慌てて振り返る。
まさか──そんなはずはない。旭日が燦々と照る時間帯は、吸血鬼は特に調子が悪そうなのに。
だが、セラの精一杯の否定を裏切り、ユオンは往来に立つ。
今の時代にそぐわぬ衣装を身に纏った姿は滑稽なものだが、元々の品質は庶民には決して手の届かぬ極上のものだ。
何ともなしに喧騒を眺めていた者の中にはその価値を看破し、慄く者がちらほらと現れる。
店主は鼻白んだようにユオンを睨み、ユオンを値踏みするように頭の先から爪先までを舐めるように見る。
「誰だ、あんた。関係のない奴は口出ししないでくれ」
不躾な視線にも、ユオンは怯まない。冷たく笑うと、座り込んだセラの手を優しく引いて立ち上がらせ、服についた埃を軽く手で払った。
「関係ならあるとも。この子は私の娘だから」
「な──ち、父親? この餓鬼の?!」
孤児じゃなかったのか、と店主は唇を噛む。すると、往来の方から「もうおよしよ」と声が上がった。いつの間にか出来た人垣に阻まれて声の主は分からない。
「毎日毎日、その子どもをいじめてさ。もう見ちゃいられないよ」
「そうだ、客の入りが少ないからって子どもに当たってみっともないったら」
セラは何ともいえない気持ちで擁護の声を聞いていた。
セラは自分が嫌われ、罵倒されるのは貧困と不衛生な見た目のせいだと思っていた。だが、それは半分間違いだったと気付く。
恐らく、誰もがセラを孤児だと信じ込み、どう扱っても構わない存在と認識していたのだ。だが、親を名乗るユオンが出てきたことで、人々は男の家族であるセラを貶め、毀損したことを自覚したのだ。
そうして、虐めに大なり小なり加担した者たちは今になって報復を恐れ、セラではなくユオンに対して擦り寄ってきた。──そういうことだろう。
不意に、セラは女吸血鬼狩りの言葉を思い出す。
──愛情を持って接した上で、衣食住を整えて、惨めな思いをさせないことでしょう?
きっと、その言葉を受けてユオンは変わってくれたのだ。今度こそ、セラを守るために──
「おとうさん……」
セラがユオンに縋り付くと、ユオンはセラの痩せた肩を抱いて店主と人垣をぐるりと見渡す。その瞳は優しさを一切含まない厳しいものであった。
だが、セラのみが父の手がかたかたと震えていることに気付いた。ユオンは元々臆病な性質の吸血鬼である。大衆の前に姿を現すことだけでも苦痛だったに違いない。
「私が病に伏していたせいで、娘には掛けなくてもいい苦労を掛けてしまった。その間、娘を可愛がってくれた者たちには、ストイカからそれ相応の礼をさせてもらおうか」
ざわ、とひどく狼狽した声が人垣から上がった。
店主は目を剥き、ユオンの服を憎々しげに指差しながら、唾を撒き散らして喚く。
「はっ! もっとましな嘘をついたらどうだ?! そんな襤褸を着ておいて、何が子爵家だ!」
それは願望に近い悲痛な叫びであったが、無情にも人垣は揺れる。
「確かにありゃあ骨董品だけどよ……俺らの一張羅よりものは良さそうだぜ?」
「あんなみすぼらしい格好で貴族を名乗るかね。精々が分家──遠い親戚筋が関の山だぜ。そんなもん平民と変わりゃしねぇさ」
でも、と震える声が続く。
「分家でも本家でも──ストイカはストイカじゃねぇのか? もし万が一本家の耳に入って、乗り込んで来たら……」
「莫迦、それはこの男が本当にストイカなら、の話だろう?」
だが、庶民には彼をはっきりと偽物だと断じるだけの決め手がない。ここにいる誰もが貴族に伝手などなく、はっきりとストイカの顔を知る者もいないのだ。
ユオンはくつりと小さく笑い、芝居がかったように両手を広げる。
「なるほど、私の身元に不審があるのならば、問い合わせるのも結構。ユオン・ストイカという名を尋ねるといい。……そうだ、これに見覚えはあるか、ストイカ家の使用人にでも聞いてみるのもいいな」
言うが早いか、ユオンは外套の釦をぶちりと引き千切り、店主に投げ寄越す。
「あ……っ?!」
金の釦に惜しげもなく刻まれていたのは鷲と百合の紋章であった。それは紛うことなくクリステア王国の子爵ストイカ家を示す図柄である。
店主はがちがちと歯を打ち鳴らして震え始めた。ユオンは目を細め、あたかも店主とは気安い友であったかのようにその肩を叩いた。
「君だけじゃなく、店の利用客の皆さんにも是非とも色々と話を窺いたいものだ。次にここに訪れる日を楽しみにしているよ」
その一言で店主は膝から崩れ落ちた。だが、貴族に目を付けられた店主を助け起こす者など一人もいない。
「行こう、セラ」
セラは哀れな男に背を向ける。店主から一言の謝罪も引き出せ無かったことは残念ではあるが、謝罪を受けた所で許す気もないので、いっそこれでよかったのかもしれない。
「……おとうさん、格好良かった」
セラはユオンにだけ聞こえるように、ぽつりと呟く。
ユオンは、店主だけでなく、この店を利用した者もセラの虐待に手を貸した仲間だと断じ、罰を与えると宣言したに等しい。
その宣言を聞いて、あの悪辣な店主から物を贖おうとする者などいるはずもない。噂は風のように街中を駆け巡り、あの食料品店はたちまち立ち行かなくなるはずだ。
果たして、現在のストイカ家は介入するだろうか。百年前に失踪した先祖のことを知っていれば、事の真相を調べに来るかもしれないが、その頃には既にセラとユオンはファニュ=ブラムスから姿を消している。
人間への恭順か、逃亡か──決断の時は既にすぐそこまで差し迫っている。
そして、残るのはユオン・ストイカという亡霊の名前だけだ。
「もっと早くにこうするべきだった。君を守れるのは私だけだと分かっていたはずなのに。……本当にすまなかった」
ユオンは立ち止まり、セラに深く頭を下げる。
セラは静かに頭を振って、ユオンの手をそっと握り締めた。
「……あたし、おとうさんの娘でよかった」
本当の父の顔は知らない。母親は、雪の日にセラを捨ててそれきりだ。
もしかしたら、あの日のことを後悔して迎えに来てくれるかもと期待していた時期もあったが、今となっては虚しい時間だったと乾いた笑いが込み上げてくる。
セラにとっては何度間違えてもセラに手を差し伸べ続けてくれたユオンこそが父であり、彼に愛されることこそ幸福であった。
──だからどうか、泣かないで。
微笑む父の眦に透明な雫が浮かんでいたことは見て見ぬふりをするから。
吸血鬼には優しくない強い日差しが、涙を干上がらせてくれるよう、今は願った。




