第七十五話 欺瞞の幸福、裏切りの深淵
「ねぇ、待って!」
エリシュカは大声で懇願するが、ロイはむっつりと押し黙ったまま、打ち捨てられた倉庫の墓場を早足で立ち去ろうとしている。
今のロイは歩調といい、エリシュカを視界に入れずに後方を歩かせる事といい、普段の彼とは違って余りにも気遣いに欠けていた。
「ロイさん……!」
ロイはエリシュカの方を見ようともしない。
己の思考に囚われているというよりは、歴然とエリシュカを避けている様子だ。
あるいは、師として同輩として、どう接してよいのか距離を測りかねているのか。
エリシュカにはロイの気持ちが分からないでもない。
体中に刻まれた傷を見る度に、ロイは人間にも吸血鬼にもなりきれず、居場所のない己を自覚していたはずだ。
ロイはこの生き方を恥じたことはないと言っていたが、治癒すら許されなかった傷を他者に晒すことが痛くないはずがない。辛くないはずがない。
時間が記憶と共に心の傷を拭い去るには、ロイの傷痕は余りにも生々しすぎる。
「……っ、もう……っ!」
しかし、生憎と今のエリシュカにはロイをこのまま孤独の中に置き去りにする気など毛頭ない。走ってロイを追いかけ、その外套を強く引っ張る。
「……ロイさんったら!」
ロイは漸く正気を取り戻したように足を止め、エリシュカを振り返る。
丁度その時、叢雲の背に隠れていた月がそっと顔を覗かせた。ふっくらと肉付きの良い上弦の月が、すっかり表情を失くしたロイの顔を青白く照らし出している。
「……何だ」
「……大丈夫、なの?」
この問いかけは、再びロイの傷に触れる事になるかもしれない。だが、エリシュカは気遣いながらも真っ直ぐにロイの虚ろな表情を見つめる。
ロイはその一言で、己のこれまでの言動がいかにエリシュカを不安の渦に突き落としていたか、漸く理解したらしい。
ロイはまじまじとエリシュカを見返した後、少し困ったように顔を逸らし、長く細い溜め息を吐いた。
「全く……誰にものを言っている。……俺を心配しているつもりなら、二百年は早い」
ロイがエリシュカの心配を杞憂や瑣末と軽んじているのは業腹ではあるが、ロイが纏っていた霧氷に鎖された大樹のような冷たさが、漸く雪融けを迎えたことを肌で感じ取り、エリシュカは少しだけほっと安堵する。
「……それにしても、よかったの? ユオンたちを監視もつけずに自由にして。あの二人……もしかしたら逃げるかもしれないわよ」
エリシュカはすっかり小さくなった倉庫群を振り返る。彼らの根城の特徴である半壊した屋根を探すが、エリシュカの目にはどれも闇の中でひっそりと朽ちゆく残骸にしか見えなかった。
「……それならそれで構わない。俺たちの任務はこの街で人間を襲う吸血鬼を討伐することだ。ユオンが大した人間の脅威にならない以上、いつまでもあいつらに関わっている暇はない」
「……わざとなの?」
エリシュカは小首を傾げてロイの反応を窺う。
「……何?」
「わざとユオンたちを二人きりにして、逃走する時間を作ってあげたのでしょう? 普段の貴方なら絶対にヴィリアに監視を命じるはずよ」
試しに、エリシュカは小さくヴィリアの名を呼ぶ。
すると、程なく虚空から美しい雌の白梟が姿を現し、主であるロイの肩に止まった。彼女はエリシュカの方に視線を向けると、「なぁに」と問い掛けるように首を傾げた。
エリシュカはヴィリアのひどく愛らしい仕草に、複雑そうな笑顔で応える。
この愛すべき白梟が自分を赤子扱いしているとロイから聞いた時、人としても戦士としても未熟な自分を突き付けられた気がして、エリシュカは恥じ入るばかりだった。
「それに、セラには金貨一枚を惜しげもなく渡してしまったんだもの。あのお金があれば、この街を離れるのは簡単でしょうね。……本当はユオンとセラの境遇に同情していたんでしょう」
互い以外には何も持たない二人である。愛着も柵もないファニュ=ブラムスを捨てることなど容易いはずだ。
全てをエリシュカに看破されていたと知ったロイは、訳知り顔のエリシュカをちらりと睨め付け、手慰みのようにヴィリアの嘴を撫で始めた。
「……単なる情報料だ。それ以上でもそれ以下でもない」
その時、周辺にほんのりと磯の香りが満ちる。潮風が吹き始めたのだ。
エリシュカの焦げ茶色の髪を容赦なく撫で、毛先がしなやかに踊る。
「……彼らは、ちゃんと立ち直れるかしら?」
金貨は大金と言えども、浪費すれば先細るのは早く、容易に増やせるものではない。
もしも、ユオンが心を入れ替えて本心からセラの父親の立場を望むのならば、人間に紛れて職を手にしなければならない。
エリシュカはそうあって欲しいと心から願い、夜空を見上げるが、ロイはエリシュカとは逆に地面に視線を落とした。
「だが、奴は飢餓の欲求を捻じ伏せられないだろう。今は獣の血で凌いでいるようだが、限界は遠からず訪れるだろうな」
エリシュカは眉を寄せる。彼女の目には、ロイは吸血の衝動から完全に解放されているように見える。
奇跡の体現者が何故、第二の奇跡を信じないのかその理由が分からなかった。
「貴方は吸血を必要としないと聞いたわ。例え血液を見ても拒絶するって。それなのに、どうしてユオンが本能を克服するって信じてあげないの?」
ロイは不意に口角を歪めて嗤う。人には有り得ない鋭い牙が月光を受けて冴える。
「……誰がそんな事を?」
その冷たい声音に、エリシュカの心臓がどきりと跳ねる。質問に答えなければと思うのに、体中どこもかしこも動悸が煩くて、滑らかに舌が動かない。
「──俺は今この瞬間も、お前の細い首に牙を突き立てたいと思っているが?」
え、と思う間もなく、エリシュカの手首がロイに掴まれる。肩を宿り木にしていたヴィリアは、慌てて夜空に羽ばたき豹変した主の元から逃れた。
瞬きの刹那、気付けばロイの顔がエリシュカの鼻先まで近付いていた。
欲望と悲哀に濡れた赫い瞳がエリシュカを貫く。その必死さがエリシュカの胸を抉った。
「──頼む。この耐え難い苦痛から解放してくれ」
エリシュカの首筋をロイの視線が値踏みするかのように撫でていく。
それはどこに牙を立てれば容易く牙が通るのかを見極めようとする、捕食者の目だった。
「……っ!」
エリシュカは目を見開き、その手を振り解こうとする。が──抵抗の必要など最初からありはしなかった。
ロイの手が痎瘧に罹患したかのようにぶるぶると震え始め、襲われたエリシュカよりもずっと怯えた目をして地面に片膝を付く。
「ロイさん……!」
エリシュカが慌ててロイの背を撫でて宥める。暫くそうしていると、ロイは少しだけ落ち着いたのか前髪をくしゃりと乱した。
「……わ、かった……だろう。お前が今日まで無事だったのは、単に俺が人を襲う度胸の無い欠陥品だったからに過ぎない。……本来、吸血の衝動などそうそう抑えきれるものではないんだ」
吸血鬼というものはおおよそ青白い肌をしている者が多いが、ロイの顔色は血色すら失って、最早紙のように白い。人間ならば卒倒してもおかしくはない顔色である。
──一体、何が彼をここまで追い詰めたの?
だが、エリシュカにはロイの過去を問う資格などないのだ。
「……、……ごめんなさい」
エリシュカはロイの手を取り、そっと握り締める。血の通っていない、されど優しい男の掌は、冬の河のように冷たかった。
「……は。この状況で、お前が謝るのか。離せ。目の前で餌をちらつかせるな」
慎みがない、と吐き捨ててロイはエリシュカの手を拒絶するが、エリシュカは離さなかった。
やめろ、とエリシュカの身体に同居する神性が頭の中で煩い。彼の叱責や制止は絶対的に正しく、背いてはならないものだとエリシュカも分かっている。
しかし、絶対的な正しさでは、きっとこの男は救われない。
「……私、貴方が協会で酷い扱いを受けてるって、本当は知っていたの。ベロニカ協会長が心臓に埋め込んだ毒のことを話していたから」
正確には聞いていたのはアレスだが、隅に追いやられた意識の端でアレスの見聞きした情報はエリシュカにも共有されている。まるで吸血鬼と使い魔の関係のようだ、とエリシュカは微笑む。
「……話が見えない。少なくとも、その話が先の謝罪に繋がるとは思えないが──」
「私あの時……当たり前のことだと思って何とも思わなかったの。……本当にごめんなさい」
エリシュカにとって善い吸血鬼とは兄だけで、大多数の吸血鬼は依然として恐ろしい、正義も倫理もない怪物でしかなかった。
ロイが吸血を拒絶していると聞いた瞬間、エリシュカが最初に感じたのは安堵だった。ロイを哀れだとすら思わなかった。
怪物の力を利用するが、怪物自身は恐ろしい。それ故に命を人質に取って屈従させる──その思考がいかに傲慢であったか、今ならば分かる。
「私……あの時ちゃんと協会長に言えばよかったんだわ。もっと仲間を信じてあげて……って」
ロイは絶句し、エリシュカの言葉を阻む者はもういない。
「……だって、貴方は優しい人だもの」
ロイは目を瞬かせてエリシュカを見つめるが、くだらないと、苦しげに言う。
「……お前が俺について話を聞いたようにヴィタリーから少しだけお前の身の上について聞いた。……お前は吸血鬼になった兄を人間に戻す手段を求めて吸血鬼狩りになったそうだな」
エリシュカは小さく頷く。
これで、痛み分けになるだろうか。一方的に他人の秘密を知っていることほど、心苦しいこともない。
「エリシュカ、お前の望む未来は俺を切り刻んだ先にあると理解したはずだ。それでも心優しい令嬢は、ベロニカに実験の中止を進言するのか?」
エリシュカを黒髪の奥から覗く赫い瞳はエリシュカの欺瞞を許さない。昏い光に射抜かれて、エリシュカは唇を戦慄かせる。
「それ、は……」
エリシュカが即答できないことこそ答えだと、ロイは認識したようだ。くつりと喉奥に支えたような笑い声を漏らしてエリシュカの手を振り解いた。
ロイはそれまでの弱々しさが嘘のように立ち上がり、エリシュカに背を向ける。
「……目的を果たすためならば何も感じず、何も見ずに生きる術を覚えろ。でなければお前の兄は永遠に奪還出来ないと思え」




