第七十四話 殉教者と血塗られたモザイク画※
「──直接見せたほうが理解が早いか」
ロイは言うが早いか、胴衣の留め具を外し始める。とさりと固い布地を落とした軽い音がロイの足元から聞こえた。
エリシュカは夜目こそ利かないが、闇を撫ぜる薫風のような衣擦れの音を聞き逃すほど愚鈍ではない。
「ロイ、さん……?」
「お前は見るな。……月が隠れたのは僥倖だったな」
ロイが襯衣の釦を外して胸元を開ける。その瞬間、闇の帷を物ともしないユオンだけが、ごくりと喉を上下させた。
ロイの左胸には点描で描いたような赤黒い篝火花が咲いていた。他にも身体の至る所にメスで切開した、肉を抉り取ったと思われる傷跡が無数に残っている。
吸血鬼の身体に傷が残るのは銀製の武器で傷付けられた時だけだ。血液を摂取すれば傷跡を薄くすることは出来るが、ロイの傷はどう見ても治癒の痕跡がない。
もしロイが治癒すら不可能なほどに血液の摂取を制限されているのならば、それは緩やかに絞め殺されているのと同義だ。
例えユオンが協会に恭順しても、扱いに差があるとは思えなかった。
「俺の心臓には毒が仕込まれていて、定期的に摂取する不溶液で生き永らえている。……裏切りが判明すれば不溶液の提供を断つ手筈だ。後は毒が溶け出すのを待つだけで、確実に俺を処分出来るというわけだ」
ロイはざらつく肌を指先で撫でる。
エリシュカはロイを苛む毒の存在を知っていたため、辛うじて冷静にロイの言葉を聞くことが出来た。だが、セラは毒という言葉にすっかり怯えてしまったようだった。
恐れていたはずのロイの腕に縋り付き、零れ落ちそうな程に碧い瞳を見開いている。
「もし、私達が協会に行ったらおとうさんにも、毒……使うの? 殺すの?」
「……そうだ。飢餓に耐えきれず、人間を襲えば処分される」
嫌だよう、とセラはロイの腕に頭を埋めながら痩せた肩を何度も上下させた。
流石に哀れに思ったのだろう。ロイはその頭にそっと手を添えてそっと撫でてやる。だが、ロイの不器用な慰めではセラの涙を止めることは出来なかった。
「……その、切り刻まれたように見える痕は? それも協会の連中にやられたのか……?」
ユオンが恐る恐る尋ねると、ロイは何かを堪えるように眉を下げ、苦笑を浮かべた。
「ある実験のために皮膚と筋肉、血管──臓器の一部を摘出しただけだ。切開の過程で切創が即座に治癒しないよう、必ず銀を含有した刃を使う必要があるからな」
そのせいで随分と見てくれが悪くなった、と言いながら、ロイは手早く襯衣の釦を止め、落とした胴衣を拾い上げる。
エリシュカは胸の奥底に瞋恚の炎が渦巻くのを感じていた。
ロイはエリシュカが生きる術を教えてくれた師であり、肩を並べて戦う仲間である。その彼を毒で飼い慣らすでは飽き足らず、実験の検体としてまるで物のように扱うなど、到底看過出来ないことである。
「……誰が貴方にそんな酷いことをしたの」
エリシュカは大きく息を吸ってささくれだった心情を宥めようとしたが、抑えきれぬ怒りで声が震えた。
しかし、怒れるエリシュカとは逆に、“鬼饌”の惨さについて不快と怒りを露わにした“御使い”は、今回に限っては無言を貫いている。
──どうして? みんな……彼を切り札だと言って、今日まで散々利用してきたくせに!
頭の中で「口を慎め」と嗜めるアレスの声が聞こえたが、普段の尊大な物言いは幾分か鳴りを潜めている気がする。
「……実験の責任者はキィだ」
ロイは胴衣を纏いながら静かに答えた。
その刹那、エリシュカの記憶に刻まれていたキィの人の良さそうな笑顔に小さな亀裂が走った。
エリシュカの怪我を優しく手当てしたその手で、ロイの身体を切り刻んでいたのか。秩序を重んじ、聖人君子のような顔をして──その落差に目眩がした。
──ベロニカ協会長は、ご存知なの?
不意に頭を過ぎる疑問に、愚問だとエリシュカは心の隅で嗤う。
協会長の裁可なしに、協会の切り札であるロイを痛め付けるような実験が出来るはずがない。そもそも──ベロニカはロイの心臓に毒を仕込んだことをアレスに平然と告白した張本人なのだから。
エリシュカの思考を読んだかのように、ロイは静かに口を開いた。
「勿論、この実験の趣旨は怪物《俺》を痛め付けることじゃない。協会がこの実験の果てに目指しているのは──吸血鬼を人間に戻す薬剤の開発及び量産体制の確立だ」
吸血鬼を人間に戻す方法──それは、エリシュカが平民に身を落とし、恐ろしい武器をその手に握り締めてでも探し求めたものだった。
「……嘘よ」
ヴィタリーには夢物語だと一蹴されて絶望したこともある。それでも兄を取り戻す可能性を探るために、エリシュカはなりたくもない吸血鬼狩りになったのだ。
だが──エリシュカの願いは誰かの犠牲や痛みを積み上げ、そうやって築かれた先にあるものだと、エリシュカは今知ってしまった。
隠された真実を知った今、エリシュカがそれでも貪欲に兄を救う道に手を伸ばすことは、ロイの地獄をエリシュカ自身が肯定したことになる。
「た、例え薬の開発のためだとしても……何故ロイさんがそんな扱いを受けないといけないの……?」
エリシュカはロイのために一粒の涙を流す。
「絶対に、おかしい……! どうしてよ?! 貴方は私たちの仲間なのに!」
「使える内は──の話だ」
ロイはエリシュカの涙から目を逸らし、懐から手巾を取り出して差し出した。
だが、エリシュカが中々受け取らないことに焦れたのか、ロイは乱暴な手つきでエリシュカの目元を拭う。
「使えなくなれば捨てればいい。ベロニカは俺を切り札と言ったようが、一枚落ちた所で、今は使徒《お前》がいる。吸血鬼《俺》はその程度の存在だ」
ロイは手巾を懐に仕舞うと、絶句するエリシュカから視線を逸らして、ユオンに静かに向き直った。
「それでもお前は人間側に膝をつく覚悟があるか?娘のために本能を殺せるか?」
ユオンはロイという同類の深淵を見通すことが出来ず、目前で手ぐすねを引く地獄にただ聳動した。
「お前は頭がおかしい……! そうやって人間に媚びて、自分を切り売りして、生き延びることに何の意味があるんだ?!」
だって、とユオンは怯えたようにロイを指差す。
「お前はその気になれば一晩でこの一帯を廃墟に出来るくらい強いはずだろう?!」
ロイは瞠目し、やや遅れて微かに噴き出す。
「随分と余裕だな。まさか、お前の冗談を聞くとは思わなかった」
「は、話を逸らすな! お前は──」
ユオンの言葉は最後まで紡がれることはなかった。
ロイを取り巻く絶望や欠落に反して、その赫い瞳だけは煌々と冴えた光を放っていたから──
「……お前がどう思おうと構わん。この生き方を己に恥じたことはない」
ユオンは絶句し、そして自問する。
果たして今、ロイと同等の覚悟を持ちながら、地獄を選択する蛮勇がユオンの中に残されているのか、と。
「……お前はどちらの地獄を選ぶ? 人間に切り刻まれながらじわじわと死ぬか、俺に殺されるかの違いだ。後者を選ぶならば、今ここで苦しませずに終わらせてやれる」
「わ、私は……」
ユオンは言い淀み、やがて、セラを見つめたまま沈黙してしまった。
ややあって、ロイは大袈裟に溜め息を吐く。
「……一日だけ猶予をやる。その間に娘と話してこれからの身の振り方を考えろ。一日経ったら、俺たちはまたここに来る」
ロイはエリシュカの肩に手をかけ、床に置いていた旅行鞄を拾い上げる。
「──行くぞ。見回りを続ける」
「ま、待って、ロイさん……!」
荒れた倉庫から吐き出されるように去っていく吸血鬼狩りの姿を見送りながら、ユオンは途方に暮れたように両手で顔を覆った。
──ユオンの出すべき答えは、未だ形を持たずに闇の中で蟠っていた。




