第七十三話 鎖された門が開く時
ユオンは両膝をついたまま、自身に縋るセラの存在さえも忘れたかのように放心していた。
無理からぬことだ、とエリシュカは思う。
己が語る愛がいかに空虚で欺瞞に満ちていたのか、直視するのは苦痛であろう。
何より、己を父と慕う少女に“沈黙”という罪を背負わせてしまったことは、ユオンにとっては耐え難い屈辱であったに違いない。
エリシュカ、とロイが不意に口を開いた。静かな声には既にユオンに対する嫌悪や軽蔑の色は無い。
「ユオンとセラの処遇についてだが──」
厳かに告げられた言葉に、血の繋がらぬはずの父娘の肩が、同時に震えた。それは彼らにとって死刑宣告に等しいものであろう。
「──処遇? ……私達をどうするつもりだ?」
ユオンは片腕でセラの身体を押して遠ざけ、立ち上がる。彼はロイの冷徹な赫い視線に慄きながらも、セラをロイの視界から隠すように立ちはだかった。
「その装束……吸血鬼狩りのものだろう。見たことがある。何故だ……? 何故、吸血鬼のお前が人間に与している?」
「その質問に答える義理はない。質問をするのは此方だ。お前には黙秘する権利すらない」
その瞬間、エリシュカの背後から立ち昇ったのは秋霜を思わせる冷気と純然たる殺気だった。
冬の早朝、裸足で表に放り出されたような悪寒がエリシュカの背を走り、動悸が内側から胸を叩く。ロイがどの様な表情を浮かべてユオンを脅迫しているのか、振り返って確認するのも恐ろしかった。
「……わ、私の知っていることは全て話す。だから、この子だけは助けてくれ……!」
殺気に当てられてユオンの身が竦む。だが、意外なことに、ユオンの嘆願は自身の命乞いではなくセラの助命であった。
醜い本性を暴かれた後なのだから、ユオンにはもう慈父を取り繕う理由などないはずだ。にも関わらず、ユオンがセラの行く末について言及するのは、心から彼女の身を案じているからに他ならない。
だが、ロイはユオンの態度そのものが癇に障ったかのように、こめかみに青筋を浮かべた。
「まだ自分に交渉の卓につく資格があるとでも思い上がっているのか。……どうやらそのよく動く舌を切り落とさなければ、傲慢さを矯正することは出来ないらしいな」
ひく、とユオンの喉が万力の力で締められたように鳴る。
これはロイの最後通牒である。本来、舌を切り落とされても吸血鬼ならば即座に再生する。だが、ロイがユオンの話に耳を傾ける価値がないと判断すれば、その時点でロイがユオンを生かす理由が無くなる。ユオンの怪物としての生はここで終わるのだ。
「……単刀直入に聞く。ファニュ=ブラムスでは住人が襲われ、遺体が串刺しの状態で発見されるという事件が頻発している。お前の仕業か?」
違う、とユオンは長い髪を振り乱しながら頭を振った。
「それは、私がやったんじゃない……! セラに誓って本当だ。 た、ただ──」
「ただ?」
「く、串刺しにされた遺体から小銭を拝借したことは……何度かある」
エリシュカとロイが色めき立つ。ユオンの背後に庇われたセラだけが、沈痛な空気を纏いながら父親の罪の告白を静かに聞いていた。
「貴様という奴は……」
ロイはぎりぎりと拳を握る。今にも殴り掛かりそうなロイの形相に、ユオンが唇を震わせる。
「セ、セラの食費が欲しかったんだ!」
「……死体から盗むしか能のないコソ泥風情が。それが何故、昨夜に限って女性を襲った?」
「ここ数日は死体が出なくて、手持ちが尽き掛けてたんだ! だから……思い余って──いや……申し訳ないことをしたと……思っては、いる」
ロイは盛大に舌打ちをするが、怒りを噛み砕くように歯噛みし、平静を取り戻そうと努めた。
「……遺体を串刺しにする吸血鬼の姿は見たか?」
「あ、あぁ。直接見たのはソルだけれど……外見なら私にも分かる」
ユオンはそう言って、倉庫の壊れた天井を見上げる。
エリシュカも釣られるように天井を仰いだものの、闇に蠢く蝙蝠の集団の中からソルという個体を区別することは、残念ながら出来なかった。
「確か、使い魔と主人はお互いの視覚の共有が出来るのよね。もしかして、ソルを斥候に立ててお金を盗めそうな遺体を探していたの?」
そうだ、と肯定するユオンの声は、エリシュカが憐憫を催すほどに萎れていた。
「吸血鬼の特徴は?」
「全身を赤い甲冑で鎧った男だった。顔は兜に覆われていたから分からない。赤い馬上槍を持っていて、まるで狩りでもするように人間を追い詰めて、刺し殺していた……」
エリシュカは吐き気を覚えて口元を押さえる。アルフレートやロイという例外が周囲にいたせいで忘れていたが、本来彼らは残忍さと恐怖で人間を脅かしてきた夜叉なのだ。
「どうも槍には人間の血を吸収する力があるようだった。身体から槍が抜けたあと、死体からは血がほとんど流れ出なかったから」
「経口摂取しない型の吸血鬼か。それで、奴はその後どうした?」
「死体をその辺に落ちていた建材で串刺しにしていたよ。……魚に串を刺すみたいにね」
「……最低だわ」
エリシュカは低い声で吐き捨てるように言う。
エリシュカは串焼きの魚というものをこの街に来て初めて見たが、この話を聞いた後では口にする勇気はすっかり無くなっていた。
「お前の予想は当たっているかもしれないぞ、エリシュカ」
「え?」
「協会で死体を串刺しにするのは、昔の処刑法のようだと言っていただろう?」
「え、ええ……」
「恐らくなんだが……件の吸血鬼は世界がまだ覇権を巡り戦争を行なっていた頃──三百年前の騎士の成れの果てだと思う」
今回の討伐対象──騎士の吸血鬼と呼ぶべきだろうか──が参加したと思しき戦は、吸血鬼の王ザハリアーシュの遺詔が宣言された直後のものだろう。
戦場に打ち捨てられた死体が吸血鬼となった初めての事件だったので、討ち漏らしがあったとしても不思議ではない。
「それって……吸血鬼になった今も領土を守るために戦っているってこと?」
「恐らく。それなら外国に縁がある者ばかりを狙うというのも頷ける。……理解はしたくないが」
「でも、外国人の血が流れているなんて、どうやって判別しているのかしら」
さぁな、とロイは呟く。彼にしては珍しく思考を放棄したように、投げやりな返事だった。
「それよりも、今はこの莫迦の処遇を決める方が先かもしれないな」
エリシュカとロイの視線がユオンの佇む闇へと注がれる。
セラが癇癪を起こしたように叫び、いやいやと譫言のように繰り返しながらユオンに縋り付く。
「……わ、私はお前たちに情報を提供したのに……!」
「情報と引き換えに命だけは保障すると確約した覚えはない。吸血鬼は一匹残らず討伐するべきだ」
「……一体何なんだ、お前は?!」
それまでロイに怯えることしか出来なかったユオンが激昂する。瞬く間にロイと距離を詰めると、その胸倉を乱暴に掴んで揺さぶった。
「どうしてお前だけが吸血鬼狩りに見逃され、必要とされて──私は無様に殺されなければならない! 何故、お前だけが!」
「やめて、ユオン! ロイと敵対するなら、私達は今すぐ貴方を排除するわ!」
「黙れ!」
ユオンが少し裏返った声でエリシュカを一喝する。ロイの戎衣を掴むユオンの手は恐怖──あるいは怒りでぶるぶると震えている。
「確かに、吸血鬼は善良な生き物ではないさ! だが、私は私なりにセラの父親たろうと……今日までわずかな獣の血を啜り気の狂うような飢餓に耐えてきた! 一日でも長くセラと共にありたかったからだ! それを、お前は……無駄な努力だったと切り捨てるのか!!」
エリシュカが背後に腕を回し、一目では分からぬよう外套の下に携帯していた短剣を掴み、刃をユオンの首元に突き付ける。
エリシュカが短剣の柄に触れるも、すぐに身体の主導権を奪おうとする“御使い”だが、今回ばかりはその気配が遠い。
この場にひりつくような戦いの匂いがないせいだろうか。しかし、エリシュカにとっては好都合である。
「……やめなさい! セラの目の前で、彼女から父親を取り上げるつもりなの!」
「……っ!」
ロイは、ユオンが一瞬怯んだ隙を見逃さなかった。一片の憐れみも見せずに、ユオンの手首を握り力付くで戎衣から引き剥がす。
その様子を見届けたエリシュカは短剣を鞘に戻した。二人の力量差はエリシュカの目にも明らかであった。
「何か勘違いをしているようだが、別に俺は人間に見逃されている訳では無い。単なる先送りだ。討伐される最後の一匹は恐らく俺になるはずだからな」
ロイは乱れた戎衣を整えながら、淡々と己の死を予言する。
本当に何でもないことのように言うので、エリシュカは最初それを冗談だと思った程だった。
「ちょっ……ちょっと、ふざけないで。今はそんな冗談を言ってる場合じゃないでしょう?」
エリシュカは敢えて不機嫌そうに眉を寄せて嗜めるが、それについてロイは何も返答しなかった。
そこにロイの本気を感じ取って、エリシュカはひくひくと口の端を引き攣らせる。
「それほどまでに命が惜しいなら、一つだけお前に道を教えてやる。──共に地獄へ堕ちる覚悟があるのならばな」
その瞬間、辛うじて周囲を照らして月が暗雲の向こうに姿を消した。
エリシュカは寄る辺ない闇の中で一人戸惑う。まるで奈落へと繋がる門に飲み込まれたかのような閉塞感に、騒めく胸を押し潰されたような苦しさに喘ぐことしか出来なかった。




