第七十二話 家族ごっこの終焉
「──美談だな。劇作家の才能はあるようだ」
ロイの冷徹な言葉は夜の帷に混じる切ない余韻をも容赦なく切り裂く。彼の赫い瞳は剣呑な光を帯び始めており、ユオンの話を信じていないのは明らかである。
ユオンは少しやつれた面を上げ、必死の形相でエリシュカとロイを交互に見る。
「……い、今ここで私が嘘をつく理由がない。私はこの娘と──セラとただ平和に暮らしたいだけだ……!」
ユオンの悲痛な叫びに呼応するかのように、街灯の光がゆらゆらと揺れる。あるいは、エリシュカの心が揺れているのか。
主の叫び声に、ロイに組み付いていた蝙蝠が驚いたように飛び上がり、慌てて闇に向かって飛翔する。ロイに敵対行為示す事は主の願望に反すると危惧したのかもしれない。
平和という言葉に、いち早くエリシュカが反応した。形の整った眉を微かに吊り上げる。
「……平和に暮らしたい?」
「あ、あぁ……勿論。この娘と共に過ごすようになって半年経つが、その間、人間を襲って血を啜るようなことは──していない」
では、とロイは一歩ユオンに詰め寄る。
「餓えは? 半年もの間、どうやって凌いできた? 大抵の吸血鬼は吸血の衝動には抗えないはずだ。欠陥品でもない限りはな」
「……ロイ、さん……」
エリシュカは痛ましいものを見るようにロイを見つめる。
協会長はロイが吸血を拒絶する稀有な吸血鬼だと言っていた。だが、ロイはその事実を誇ることもなく、己を怪物としては欠陥品だと貶める。
彼が如何に己と己の本性を忌避しているのか──エリシュカはその片鱗に今触れてしまったのだ。
「……野犬や野良猫の血で凌いだ。少しずつ、ソル──蝙蝠たちに血を分けてもらって……」
流石に同族を欺くことは出来ないと悟ったのか、ユオンは苦しげな表情で真実を吐露する。
そこにあるのは、使い魔の情けに縋って生き延びている恥辱だろうか。それとも、娘への愛を持ってしても捻じ伏せられない怪物としての本性を恥じているのか──エリシュカには分からなかった。
「最近港湾に住み着く野犬がその数を減らしていると聞いた。なるほど──原因はお前たちか」
本来、吸血蝙蝠の獲物は多少の失血をものともしない牛馬である。しかし、都市部に牛馬はおらず、犬や猫を襲うしか無かったのだろう。
日頃から栄養状態の悪い野犬たちは貧血となって倒れ、あるいは体力が落ちたところを病に侵されて人知れず死んでいったのだ。
セラが仔猫の治療を試みていたのは、父親を生かすために傷付いた仔猫に対する罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。
「じゃあ……もしかして、あの黒と白の仔猫……使い魔や貴方が血を飲むために襲ったの?」
「襲った個体については詳しく覚えていないけれど、噛み跡があったのならそうだろうね」
「そんな、酷い……!」
「……お嬢さんは、昨日食べた肉と一月前に食べた肉の違いが分かるのかい?」
笑い含みにユオンに問われて、エリシュカは思わず言葉に詰まった。確かに──エリシュカとて、己が消費した命に対して無頓着である。
ぼんやりと木箱に座っていたセラが、膝の上できつく手を握る。
「……おとうさんをいじめないで」
エリシュカの目にはセラの姿は黒く塗り潰されており、くすんと鼻を啜る音だけが耳に痛い。
「ご飯を食べられないのはひもじいし、惨めだよ。……死んじゃうよ。おとうさんが死んだら、あたしは一人ぼっちになっちゃう」
「セラ……大丈夫だ、私はいなくならない。何も心配することはない──」
床に両膝をついていたユオンであったが、堪らず立ち上がりセラを抱き締める。不潔な頭や背中を撫でる手は実の父親と見紛う程に優しい。
それなのに──どうしても拭えない違和感がエリシュカの胸をざわつかせる。
「どうして……貴方はセラの姿を見て何とも思わないの? セラの様子を見ても、平気でいられるの?」
セラは街の人間から浮浪児と罵られ、暴力を振るわれており、本人もそのことを仕方がないと受け入れている。
不潔だからと誰も手を差し伸べなかったあの光景を見た今、セラに愛情を示すことの出来るユオンは、一見本当に娘を愛する父親のように見えた。
「何を言い出すかと思えば……私は彼女がどんな姿をしていたとしても、愛しているよ」
「──違うわ。親が子供しなきゃいけないのは、愛情を示すことだけ? 違うでしょう? 愛情を持って接した上で、衣食住を整えて、惨めな思いをさせないことでしょう?」
少なくとも、エリシュカの父はエリシュカに不自由な思いをさせなかった。そんな父をエリシュカは今も尊敬している。
それは裕福な親だけが持てる特権だったのかもしれない。だが、領地の貧しい農民たちですら、貧困の中で我が子に服を誂えたり、浮浪児と呼ばれぬ程度には身なりを整えていたのだ。
親を自負するのならば、その程度のことが出来ないとは言わせない。少なくとも、この吸血鬼はこの少女の親でい続けるための努力をするべきだった。
「……きっと、貴方のセラに対する愛情は本物だと思う。だからこそ、分からない。どうして、セラの今の状態から目を逸らすの?」
しかし、セラはユオンの服をきつく掴み、何度も何度も頭を振った。まるで、聞いてはいけないとユオンに訴えかけているかのように──
「……お嬢さんにはこの不安は分からない」
ユオンは頬が引き攣ったような、乾いた笑い声を上げる。
「……セラがまともな身なりをしていれば、必ず人間との関わりが増える。たくさんの人に囲まれる内に、セラは必ず私との関係に違和感を覚えるはずだ。吸血鬼と人間は本来相容れない存在なのだから」
だが、とユオンの喉から激情が迸る。
「私はどうなる? 彼女だけが救われて、私だけまた孤独に突き落とされるのか……?!」
「あぁ……」
忍び寄る孤独の影に怯え、震えるユオンの姿が、兄の──アルフレートの姿と重なった。
エリシュカに銀の短剣を授け、生き延びてくれと縋った兄も、あの日こんな風に家族の喪失に怯えていた。
だが、アルフレートとユオンは決定的に違う。アルフレートは兄として、保護者として──地獄に引きずり込むのではなく、エリシュカを敢えて手離し、生を──銀色に輝く道を歩ませようとしていた。
「……結局、貴方は自分のことしか考えていないのね。セラを手元に置くのも、愛を語るのも全部自分の孤独を埋めるためじゃない」
「……親が聞いて呆れるな。結局、自分の欲望のために幼い子供を縛り付けていただけか」
ユオンは肩を落として俯いた。自分の醜悪な本心を他人の口から語られるのは、さぞ矜持に堪えるに違いない。
もうやめて、とセラが泣きながら叫ぶ。ユオンの醜悪な本心を聞いてもなお、セラにとってユオンは父なのだろう。
これ程迄に父娘は互いを必要としていたというのに、何故ユオンは一人恐怖に怯えていたのだろう。何故、セラの心を信じてあげられなかったのか──エリシュカにはそれが残念でならない。
薄ら寒い家族ごっこを見下ろしたまま、ロイは続ける。
「“お前たち”の罪はそれだけではないだろう」
ユオンが弾かれたように顔を上げた。
エリシュカにはその表情までは窺えないものの、明らかに狼狽えているのが手に取るように分かった。
「ま、待ってくれ。セラは何も悪いことはしていない!」
「俺の目を見て同じことが言えるのか」
「……!」
セラ、とロイがその名を呼ぶ。闇が微かに蠢いたのは、セラがユオンの胸元に顔を埋めたせいだ。
「……セラ。正直に答えてくれるか? セラはどうやって食料品店で買い物が出来るだけの金を手に入れたんだ?」
ロイはセラに対しては責める口調ではなく、優しく諭すように声を掛ける。
「……あ、あたし……」
口ごもるセラに対し、ロイはさらに畳み掛ける。
「昨夜、この近くで女性が襲われた。後ろから背中を突き飛ばされて失神し、その隙に手持ちを奪われたそうだ。……突き飛ばしたのは男だったらしいが……」
もうやめてくれ、とユオンはその場に崩れ落ち、両手について額を床に擦り付ける。
「……彼女は何も知らないんだ! ……やめて……くれ……」
それは、事実上自白に近しい懇願であった。だが──
「……おとうさん、あたし、知ってたよ」
セラは木箱から立ち上がり、情けなく蹲る男の傍に痩せた膝を付く。
「よくないお金って知ってたの。でも、言えばおとうさんがいなくなる気がして言えなかった。……あたしはきっと、おとうさんを止めるべきだったのに」
ユオンは犯罪に手を染めたが、良からぬものを感じながらも、みすみすユオンを罪の道に進ませたのはセラだ。ならば、ユオンの罪はセラも背負わなければならない。──二人はかけがえのない家族だからだ。
セラはごめんね、と何度も繰り返しながら、ユオンの首に腕を回した。
ユオンは暫くの間言葉を失っていたが、やがてその瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
透明な雫は負の感情ごと洗い流すように、音もなくひび割れた床に吸い込まれていった。




