第七十一話 玄(はるか)なる氷海、孤独に咲く雪花
青年は精神的な消耗の激しいセラを投棄された木箱に座らせると、自身は罪人のように床に両膝をつき、エリシュカたちに恭順の態度を示した。
エリシュカは気遣わしげにセラを見る。セラはあどけない笑みもエリシュカ達に対する憎悪もなく、淡々と青年を見つめている。
仮にも父と慕う男が他者に屈従する様を見せつけられ、彼女の心労は如何ばかりか。彼女の心境を思うと胸が切なく、エリシュカはそっと溜め息を吐く。
「それで、お前は名を何という?」
ロイに名を問われると、青年はユオン・ストイカと僅かに震える声で名乗った。
「ストイカ? ……確か、子爵家で同名の家門があるわ」
エリシュカが声を上げる。アルフレートが吸血鬼に変質した時とは違ってストイカ家が断絶を免れたのは彼に兄弟、もしくは子供がいて彼の代わりに家督を継いだからだろうか。
「家名を名乗ったからと言って、絶対に元人間であるとは限らない。それらしい家名を名乗り、人間の信用を得ようとする小賢しい個体も存在する」
ただ、とロイは一度言葉を切る。
「集積情報の中にはユオン・ストイカという人物の資料はなかったはずだ。被害者の名簿はもちろん、討伐対象の名簿にも、な」
「……彼は偽名を名乗った、ということ?」
「いや……そうとも限らない。吸血鬼に殺された被害者の遺体がとうとう発見されなかった場合、単なる失踪として官憲局で情報が止まり、協会には知らされない可能性が高い」
それに、とロイは更に言葉を続けた。
「討伐対象の名簿に名前が記載されていないのも、決して珍しいことではない」
大抵は目撃情報すら得られないほどに人を殺し尽くした猛者か、余程慎重に潜伏してきた臆病者のどちらかだ。ユオンの場合は、どちらかといえば後者だろう。
しかし、名無しが増えるというのは不便である。そこで、個体識別のために殺し方や癖などから連想した二つ名を与えられるが、とうとう本名が明らかにされないまま討伐される者も多かった。
あの、と控えめに声を上げたのはユオンだ。
「……本当にユオン・ストイカが自分の名前なのかは私自身でも分からないんだ。実は、私にはここ最近──百年あまりの記憶しか無くて」
百年という長い歳月を最近と語るのは、彼が長命種の怪物として染まりきった証左だ。
「……人間が吸血鬼に変質する際、その心身には多大な負荷が掛かる。その際、それ以前の記憶を失ってしまう者も二割ほどいるらしい」
エリシュカは唇を震わせた。
それでは、吸血鬼に変じたアルフレートがエリシュカを覚えていたのは、絶望の中に唯一残っていた僥倖であったのだ。
エリシュカは意思に反して熱を帯び始めた目をしっかりと見開く。──今は、個人的な干渉に浸って泣く時では無い。
「だから、元々人間で、貴族だったと言われても今更何の感慨もない。……怪物には地位も富も関係がない。……子孫にさえ興味はないよ」
「では、何故吸血鬼のお前が人間の子供の保護者を気取り、手元に置いている?」
「それは──」
ユオンはちらりとセラを見て、夕焼け色の瞳を伏せる。
■□■
ユオンは絹糸を紡ぐ様に過去の記憶を手繰り寄せる。旧懐と呼ぶには余りにも鮮やかで、ほのかな喜悦とざらつくような痛みが刻を忘れた胸にどっと去来するのだ。
半年前、恐るべき寒波と共にユオンはファニュ=ブラムスへと辿り着いた。死すら招く鋭い雪風がびょうびょうと吹き荒び、ユオンの黒髪は雪花の如く舞っていた。
本来、黒白は交わらぬものだが、自らの行き先を選ぶことすらままならぬ、という意味では、両者は恐ろしく似ていたと思う。
ユオンは当て所なく彷徨い続け、やがて港湾へと辿り着いた。
不凍海を冠したファニュ=ブラムスの内海ですら、一面白で埋め尽くされた氷海と化し、船や海鳥を閉じ込める無慈悲な監獄となった。あるいは──あれこそが慈悲深き永遠の揺籃だったのか。
それは、感傷と言うには余りにもかそけき情動であった。内海への興味はたちまち氷結し、再び歩き始めたユオンを震える声が呼び止める。
ユオンが振り返ると、立っていたのは二人の母娘だった。よく似た金色の髪は大きな雪片が散りばめられており、曇り空の下でもきらきらと輝いている。
母親の方は生地の薄いワンピースに中古の外套を羽織っていたが、娘の方は長袖のワンピースしか纏っていない。見た所娘の服は絹ではなく羊毛のようだが、この寒さでは小さな身体はすぐに冷え切ってしまうだろう。
凍えれば人は死ぬ。餓えていれば死神の迎えは尚早い。
──どうせ彼女たちに先はない。ならば……今……糧にしてしまっても構わないのではないか?
ユオンが喉を鳴らしたのを見て、母親はその瞳に生々しい熱を含ませる。
母親は寒いと呟きユオンに縋り付くと、一晩共にいて体温を分け合わないかと誘った。娘は落ち着かない様子で両手を擦り合わせている。この場に居辛いと言うよりは、寒さで身の置所がないのだろう。
ユオンの記憶にはある地点から断絶があるものの、百年もの間無駄に年を重ねれば、女の言わんとすることは理解出来た。
──さて、どうしたものかな。
ユオンには飢餓はあっても肉欲は無い。同類の中には人と吸血鬼の混血児を宿すことに躍起になる者もいるようだが、少なくともユオンは繁殖にも興味がなかった。
『お誘いは有り難いのですが──』
ユオンは面倒事を嫌い、阿る様な笑みを浮かべる。──恐らく、それがいけなかった。
女はユオンの唇から覗く牙に気付くと、悲鳴を上げた。先程まで縋っていたはずのユオンの身体を思い切り突き飛ばし、ふらつきながら逃げ去ったのだ。
『あぁ……』
逃げる獲物を追いかけようとは思わなかった。そもそも不味そうな女だったので、惜しいとも思わない。
倉庫群の奥に消えた細い背中を見送り、ユオンは娘の方を振り返る。
母親の方には食指は動かなかったが、生命力に溢れた子供が手元に残った僥倖に感謝した。
もしかすると、あの母親は自分が確実に逃げ出すために、敢えて娘をこの場に置いて行ったのかもしれない。
『……可哀想に、君は母親から捨てられてしまったみたいだね』
母親による、悪意の遺棄だった。──まだ小さな生き物の心には深い傷が刻まれたに違いない。その傷に、ユオンは今鋭い爪を立て、無情にも縦横に引き裂いたのだ。
ユオンは、内心慄然としていた。己がこれほど残忍で悪趣味な怪物であると、今日まで知らずに生きてきた。ただ──生き延びることさえ出来ればそれでいいと、そう思っていたのに──
『──ふふ』
娘は置いていかれたことを理解してもなお、母親を恋しがることも、助けを呼ぶこともなかった。母親がそうであったように、男に対して媚を売るように微笑んだのだ。
これは男の懐に入り込むための手管だ。日銭と庇護得るため、ましてや不興など買わぬよう。彼女たちにとってはそれだけが生きる術だったのだろう。
『……ひ、一晩。ご一緒しても?』
少女の声は恐怖と寒さで震えている。その言葉の意味すら分かった上で、青白い唇を無理矢理歪めて見せていた。
弱き者が刹那の生をその手に掴むために、強きに順うのは当然のことだ。そして、強き者が弱きを蹂躙し、喰らうことは当然の権利である。
だが、ユオンはこの少女の有り様を心底哀れだと思った。
『……一晩と言わず、君の命が果てるその日まで』
ユオンは片膝を付き、少女の体を抱き寄せる。冷え切った身体は吸血鬼の熱を持たぬ身体と大差はなかった。
『捨てられたのなら、私が君を拾い上げよう。……父親になろう』
ユオンの腕の中で、困惑したように少女が息を呑む。この様子では、今この場を生き延びるという望外の幸運に恵まれたことすら、理解が及んでいないに違いない。
ユオンは微笑む。
『君の名前は?』
『……セラ』
今から思えば、ユオンから擬似的な家族ごっこを提案するくらいには、その心は孤独に苛まれ続けていたのだろう。
きっと、あの荒涼とした冬の海の寒々しさが、ユオンの心をざわつかせたのだ。そうに違いない。
『セラか。月のように美しい名前だ。きっと君は愛されるために生まれてきたのだろうね』
ユオンの言葉を聞いたセラは、おずおずとユオンの背中に腕を回した。怪物を恐れながらも、今ここで差し伸べられた手を取らなければ死ぬと本能が嗅ぎ取ったのだろう。
この日、孤独を知る者と、孤独に落とされた者は家族となった。それが幼稚な傷の舐め合いだとしても──




