第七十話 怪物を父に持つ娘
ロイは先程、倉庫内に複数の気配があると言っていなかったか。ならば、使い魔の主は侵入者を噛み殺そうと虎視眈々と狙いを定めているはずだ。
しかし、エリシュカがいくら目を凝らそうとも、倉庫の中に広がる闇は、塗り潰された黒そのものでしかない。
エリシュカに気配を探るなどと言う芸当が出来るはずもなく、その間にも、ロイとセラの間には険悪な空気が徐々に差し込み始めている。
「ソルは悪いことなんてしてない! ソルに──みんなにひどいことしないで!」
「酷い? 先に攻撃を仕掛けて来たのはそちらだろう」
セラは表情を変えないロイにすっかり怯えきっており、気後れしたように一歩下がる。
「で、でも、それは……! おうちに知らない人が来たから……!」
「おかしなことを言う。廃墟が家か? 不法に建造物を占領したのだろう? 侵入者は果たしてどちらだろうな」
それよりも、とロイの声に威圧するような凄みが混ざる。
「いい加減、こちらの質問に答えてもらおうか。その使い魔の主と君の関係は──」
ロイは一歩セラに近づくが、エリシュカは堪らずロイの服の袖を引く。
「怖い顔でセラを睨んで怯えさせるのはやめて。相手はまだ子どもなのよ」
「……。……そんなつもりはない」
エリシュカは心外だと眉を顰めるロイを無理矢理自分の後ろに押しやる。そして、セラを怖がらせないよう、僅かに身を屈めて少しでも目線の高さを合わせようと努めた。
「ごめんなさい、知らない人たちが押し掛けて来たから驚いたのよね。セラのお友達──ソルにも謝るわ」
だが、セラから返ってきたのは心ここにあらずと言った「うん」という声だけだ。
よく見れば、セラは優しく話し掛けるエリシュカではなく、ロイの挙動を具に監視している。この警戒心が宿を持たぬ少女を今まで生かしたのだと知り、エリシュカは胸につきりと刺す痛みをただ飲み込んだ。
「セラ……私たち、セラに聞きたいことがあるだけなの。もし、知っていることがあれば教えて。もちろん、情報にはお金だって渡すわ」
セラは驚いたように目を丸くした。碧い瞳は今にも雫となって零れ落ちそうに揺らいでいる。エリシュカが本当に信用に足る人間なのか、少ない手がかりの中から必死に拾い上げようとしているようにも見えた。
「お話しするだけで?……どうして?」
セラの言葉に、ぎくりと顔を強張らせたのはロイである。
夜の港湾を知っている少女は、当然ながら夜の港湾で横行する男女の取引を知っているのだ。
エリシュカは、ただただ悲しげに微笑む。
「セラの持っている情報が私たちの仕事の助けになるかもしれないの。それと……セラの時間を私たちに使ってもらうことに対する謝礼──だから、施しなんかじゃなくて、正当な報酬なのよ」
「……」
ロイはゆっくりと懐を探ると、金貨を一枚取り出し、セラを怯えさせぬよう床に置いて更に一歩下がった。
それは、昨夜、商売女に情報料として支払ったものと一つの欠けもなく同額である。ロイは相手が子どもだから侮り、その言葉の価値を軽んじることはしなかったのだ。
「……受け取れ」
セラは警戒しながらも、置かれた金貨に駆け寄る。
金貨一枚あれば暫く食費の捻出に難儀することはない。それどころか、病気だというセラの父親を医師へと繋げることが出来るかもしれない。
それが父親の就労のきっかけとなり、セラが生活苦から抜け出すことが出来るならば、エリシュカにとってもこれほど喜ばしいことはない。
──だが。
セラが金貨に気を取られていた隙をつき、ロイは旅行鞄を手放して素早く抱き上げ、細い首に腕を回した。
既に周囲は日が落ち、ロイは吸血鬼としての力を全て取り戻している。ロイが少しでも首に回した腕に力を込めれば、セラは──容易く絶命する。
「ロイさん……! 一体何を……?!」
エリシュカは振り返り、悲鳴の様な声を上げた。
セラは余りにも鮮やかな拘束に悲鳴すら上げられず、がたがたと震えている。
「エリシュカ、お前は黙っていろ」
「……!」
ロイはエリシュカを視線の力で黙らせると、再び倉庫の奥へと厳しい視線を向けた。
「いつまでそこで見ているつもりだ? 子供を矢面に立たせておいて、自分は逃げるつもりか? 見下げ果てたものだな、臆病者」
ロイは暗闇に向かって、憤怒していた。
やはり──とエリシュカは思う。使い魔の主──恐るべき吸血鬼はすぐ近くに潜んでいたのだ。
ソルがセラの手から抜け出し、ロイの指に掴みかかった。ロイが振り払わないことをいいことに、その指に噛み付く。
ロイは微かに眉を寄せたが、それだけだ。ぷつぷつと赤い玉のように血が滲むが、ロイはソルに注意を払おうとすらしない。
「ロイさん、血が……!」
エリシュカは懐から手巾を取り出して患部に添えようとする。
痛みが無いわけではないだろう。それに、野生生物による咬傷は感染症の恐れがある。──尤も、人間であればの話だが。
「勝手に動くな。俺ではなく、敵に集中しろ」
ロイの声に動揺はなく、寧ろ狼狽えるエリシュカを叱り飛ばすくらいには冷静であった。
敵、と言われてもそこに広がるのはエリシュカにとっては闇でしかない。どこを見ていればいいのか、皆目見当もつかなかった。
──どうしてそんなに冷静なの? 怪我をすることが怖くないの?
確かに、吸血鬼は恐るべき回復能力を有しているが、それと痛みを恐れぬことはエリシュカの中では決して結びつかない──否、結び付けてはいけない事象である。
不死という特性はこれ程までに人間と吸血鬼の間にある断絶を深めるのかと、エリシュカはロイの圧倒的な強さに一抹の不安を覚えていた。
「まぁいい。出て来なければ、この子どもを殺──」
その瞬間、腐って割れた木箱の一部がエリシュカを掠めた。エリシュカは辛うじて身体を引き、背後にいたロイはセラの頭を庇うように身を屈める。
標的を見失った鋭い木片は二人の背後にある半開きの扉に当たる。木片は扉諸共木っ端微塵に砕け散った。──その恐るべき膂力は人間のものでは有り得ない。
「その子に僅かでも傷を付けてみろ……! お前たちを八つ裂きにしてやる……!」
折り重なるように捨てられていた木箱の影からのっそりと現れたのは、薄明の空を瞳に宿した病的な儚さのある青年だった。
青年の長く黒い髪は、深夜の孤独を感じさせるロイのそれとは趣を異にしており、夜明け前の青みを帯びてさらりと肩を滑り落ちる。
青年の着こんだ羊毛の外套はすっかり褪色しており、紫というより最早灰色に近い。膝丈の脚衣は現代では考えられないほどに短く、靴は現在の婦人靴に近い、装飾過多なものだった。
エリシュカの服飾史の知識に誤りがなければ、どう短く見積もっても百年ほど前の服装である。
ただし、手仕事と思われる見事な刺繍と金色の釦の彫金細工は、現代の技術と比較しても遜色がない。それは、彼がかつて貴族階級の人間であったことが示している。
彼とセラを見比べると、手入れの行き届いていないセラの有り様が余計に惨めで、エリシュカは胸を痛めた。
「……やはり、吸血鬼か」
「……! お前も吸血鬼か!」
同族の邂逅は、即座に殺気のぶつかり合いへと発展する。特に青年は我が子と引き離された猛獣のように、ロイに対する憎悪を隠そうともしない。
あわや一触即発かと思われた事態を打破したのは、意外にもロイの腕に抱かれたセラであった。
「おとうさん! だめ! おねえさんたちにひどいことしちゃだめ!」
「セラ……! くそ……!」
おとうさんと呼ばれた青年は悔しげに唇を噛むが、やがて抵抗を諦め、両手を軽く上げた。
「……娘に危害を加えないでくれ」
頼む、と頭を下げる吸血鬼の姿を見て、ロイはセラをゆっくりと地面に下ろす。
セラは自由になると、すすり泣きながら父と呼んだ男の背中に隠れた。
「お、お父さん……?」
エリシュカは酷く混乱していた。
“御使い”が言うには、セラはただの人間である。
“御使い”は、以前ロイを一目見ただけで吸血鬼だと看破した実績がある。それを【天眼】と認めこそすれ、今更疑う余地などない。
だがセラは吸血鬼の青年を父親だと呼び、吸血鬼もセラのことを娘だと言う。彼はセラの命を慮り、ロイに頭まで下げてみせたのだ。
ちっ、とエリシュカの頭の中で鋭い舌打ちが響く。
──食糧に父親と呼ばせて悦に浸るとは……随分と趣味が悪ィな、アイツ。
エリシュカはアレスの軽口を「やめて」と声なき声で嗜める。青年がセラの安否を気遣って矛を収めたからこそ、エリシュカたちは余計な血を流さずに済んだのだ。
彼のセラに対する想いは本物だろう。その一方で、セラがろくに世話をされていない様子なのがエリシュカには気掛かりであった。
「……話を聞きたいだけだ。素直に質問に答えてくれればこの娘には危害を加えない」
ロイは暗に青年の討伐を匂わせる。
青年には最早抵抗する気力すら無いのか、観念したように目を閉じ、失意の闇に身を委ねた。




