第六十九話 揺籃の海抱く輩(ともがら)、闇に飛翔せし儕(ともがら)
ロイが合流場所として指定したのは、エリシュカ達が仔猫を看取った波止場である。
エリシュカがやっとの思いで、その場所に辿り着いた時には、ロイの姿はそこにあった。大分待たせてしまったのか、苛立ちを隠さぬ仁王立ちである。
「遅い」
ロイの声には咎める様な鋭さがある。
当然と言えば当然かもしれない。単独行動は日暮れまでという約定こそ破ってはいないが、夜が近付くに連れて治安は悪くなるものだ。エリシュカに牙を剥くのは何も吸血鬼ばかりではない。
ヴィリアは大きく翼を広げて飛び立つと、ロイの肩に飛び乗り、宥めるように頭を擦り付ける。どうやら、エリシュカを叱るロイを宥めているつもりらしい。
その愛らしい仕草に絆されたのか、ロイの言葉から僅かに険がとれ、低い声が丸みを帯びる。
「──だが、朝のように単独で行動しようとせず、俺との合流を優先したことは成長と言えるかもしれないな」
「え……?」
今朝、少女と出会ったことは任務と関わりがないため、情報の共有はしていない。無論、先程その少女と再会したことも伝えてはいない。
ヴィリアから伝わった可能性はあるものの、ロイの口振りではまるでその場で見ていたかのようだった。
不安そうなエリシュカの顔色を見て、ロイがはっとしたように表情を硬くした。
「……言っていなかったか? 使い魔と主は互いの視覚を共有出来る。だから、俺はお前があの少女と二度接触したことも、二度共逃げられたことも知っている」
「……そんなの、聞いてない!!」
エリシュカはロイの言葉を聞いて赤くなったり青くなったりと忙しい。
つまり──ロイがヴィリアの共寝を拒絶したのは、使い魔を取られるかもしれない恐怖や牽制ではなかった。寧ろ、エリシュカの私の部分を侵害しないための優しさだったのだ。
思考と情緒をぐちゃぐちゃにしながらも、エリシュカはやっとの思いで告げられた言葉の意味を理解した。返す返すも──エリシュカの言動は無防備に過ぎる。
「……既にヴィタリーから聞いていると思っていたんだが」
エリシュカは激しく首を横に振る。
エリシュカの慌てふためく様子を見て、ロイは頭痛を覚えたように頭を抱えた。
「……こちらの説明不足だ。はしたない、と言ったことは……悪かった」
それよりも、とロイは年長者らしい冷徹さで素早く切り替える。
「先程の少女……セラと言ったか? 彼女を探そう。何らかの事情を知っている可能性が高い。確か──今は使われていない倉庫に住み着いていると言っていたな」
会話の内容まで筒抜けになっている事に、既にエリシュカには驚きはない。使い魔は文字通り主の耳目となって働くらしい。
──相当意地が悪いと言ったのも、聞かれたわよね。
そして、優しいと彼を評したことも──だ。エリシュカは頬の辺りがむず痒くなって、苦虫を噛み潰したように唇を歪めた。
「エリシュカ」
不意にロイに名前を呼ばれて、エリシュカは身体を強張らせる。嫌味の一つや二つ投げ掛けられることを覚悟して、エリシュカは「はい」と言った。
「お前にとっては監視下に置かれている不快感しかないかもしれないが……あまりヴィリアを遠ざけてくれるな。ヴィリアはお前にとても懐いているようだから」
ヴィリアはロイの肩に蹲り、エリシュカを見つめながら小さく喉を鳴らす。
その様子を見たエリシュカは、素直に可愛いと思った。だが──
「──まぁ、手の掛かる雛のようだと思われているみたいだが」
良かったな、とロイは言う。片側だけぎこちなく上がる口角は、底意地悪さの片鱗をしっかりと湛えている。
前言撤回──やはり、ロイは優しいばかりの男ではない。
■□■
エリシュカとロイは港湾関係者や宿無しの間を渡り歩いて少女の目撃情報と放置された倉庫の場所を特定し、捜索範囲を狭めていく。
一つ一つは取るに足らぬ情報でも、丁寧に精査し、繋ぎ合わせていけば、目当ての廃倉庫を特定するのにそれほど時間は掛からなかった。
「こ、ここ……?」
寂れた場所だが、街灯が辛うじて生きていたお陰で、その全容は薄い影を纏いながらもぼんやりと浮かび上がる。
エリシュカは時に置き去りにされた倉庫を前に息を呑んだ。
積み上げられた赤い煉瓦は所々割れや欠損があり、地面には砕けた破片が散乱している。切妻屋根は半分以上が崩落しており、降雨による浸水や陽射し、冷気と熱気を防ぐ手段がない。
あの幼い少女がこのような過酷な環境で、どうやって命を繋いできたのか、エリシュカには全く想像がつかない。
「……にも関わらず、糊口を凌ぐだけの資はあるというのもおかしな話だがな」
「そうね。……あの子、どうやってお金を稼いだのかしら」
過酷な環境で命を繋ぐためには、食糧の確保が物を言う。だが、港湾に住みついた働き盛りの男たちですら日銭仕事にあぶれ、その日の食い扶持にありつけないでいることも多いらしい。そんな中、セラはいかにして彼らを出し抜き、仕事を得たというのだろうか。
「本人に聞けば分かることだ。……少し下がっていろ」
ロイはエリシュカを後ろに下がらせ、塗装の剥げた白い扉の前に立つ。握り玉に手を掛けて捻ると、僅かな抵抗と共に悲鳴の様に響いた軋みが酷く耳に障った。
「開いている……か」
ロイが先んじて足を踏み入れ、周囲を見渡して安全を確認した後、エリシュカが後に続く。
煉瓦を敷き詰めた床の荒れ具合は、外壁のそれと大差がない。割れて土が剥き出しの部分には強かに生えた雑草が低く地面を這っているのが見えた。
その刹那、闇の中で小さな光がぽつぽつと灯る。それは一瞬ぎらりと瞬いたかと思えば、上下左右に蛇行しながらエリシュカ達に襲いかかってきた。
「きゃあぁぁぁ!」
エリシュカは思わず目を閉じるが、頭の中で厳しく叱咤するアレスの声が飛ぶ。
──莫迦が! しっかりと目を開けろ! 何のための修練だ?! 動きを見ろ! 動け!
エリシュカは、はっとする。
──そうか……動く……動かなきゃ……!
その言葉を聞き、エリシュカは閉じていた瞼を無理矢理抉じ開ける。
見開いた視界に、暗い色の何かが複数横切った。大きさや羽音は小型の飛禽よりも僅かに小さいが、広げた翼は体長と比較してかなり大きかった。
──もしかして……蝙蝠……?!
エリシュカは片手を振って接近する蝙蝠を追い払うが、雑に数えただけでもその数は優に五十を超えていた。
しかも、蝙蝠たちは一度追い払っても、その間隙を縫うように別の個体が襲い掛かってくる。まるで、何者かに統率されたかのような動きにエリシュカは酷く困惑した。
ロイはエリシュカを庇うように立ち塞がり、蝙蝠を追い払いつつも、その目は蝙蝠ではなく奥を見つめていた。
夜目の利くロイは、倉庫内に不法に投棄されたであろう、複数の大きな木箱の残骸を正確に捉え、厳しい目で睨む。
「…………微かに何者かの気配がする」
「え……?! それって、まさか……!」
セラはこの中で同じように蝙蝠の群れに襲われているのだろうか。それとも、別の何者かによって危難に晒されているのか──
「助けないと……!」
「……! 待て、早まるな!」
ロイの制止を振り切り、エリシュカは背中に隠し持っていた短剣の柄に手をかけようとしていた。
貴重な“御使い”の力を割いてでも、人命は救わねばならない。相手が非力な子どもであるならば尚の事だ。
だが──
「やめて! ソル!」
泣きそうな少女の声が蝙蝠たちの羽音を縫って倉庫に響く。その声はエリシュカには聞き覚えがあった。これは──セラの悲鳴だ。
「このおねえさんを傷つけちゃだめ! このおねえさんは、優しい人なの!」
まるで少女の言葉を理解したかのように、あれだけ凶暴に暴れていた蝙蝠たちが攻撃を止めて、エリシュカたちから離れた。
彼らは天井に逆さにぶら下がったものの、闖入者が妙な動きを見せればいつでも動けるよう、厳しく目を光らせているようだ。
その内の一匹がセラの胸元へ吸い込まれるように飛び込んでいく。では、あれがソルという個体なのだろうか。
「セラ……あなた……」
「……その蝙蝠、動きが普通ではなかった。使い魔だな?」
ロイが指摘すると、セラが慌てて蝙蝠を両手で包み、痩せた身体の後ろに隠した。
「使い魔……? なに、それ? ……あたし、わかんないよ」
セラは心細い面持ちで困惑を露わにした。エリシュカにはセラがとぼけているのではなく、単に使い魔という言葉自体に理解が及んでいないように見えた。
──でも、そんなことあるかしら? 吸血鬼に仕える使い魔が人間と仲良くするなんて。
極めて稀な状況を追うよりは、セラがソルの主人で吸血鬼であると考えた方が容易い。だがエリシュカの単純な推測を、上位の存在は即座に否定する。
──残念ながら、あの餓鬼はただの人間だ。アイツもそのことは分かってるから、対話を試みているんだろうよ。
では、とエリシュカは戦慄する。ソルと呼ばれた蝙蝠の主はセラとは別に──ここにいるかも知れないのだ。




