第六十八話 邂逅
エリシュカの意識は泥のように水底に沈んでいた。胎児のように身体を丸めたまま、とろとろと微睡みに身を任せている。どこまでも広がる冥海は、人肌よりなお温かかった。
不意に黒く塗り潰されていた視界が白み始めた。寄せては返す波が水面に複雑な波紋を描いており、金色の陽光がはしごのように水底に伸びていく。
陽だまりに照らされたエリシュカの意識はゆっくりと浮上していく。身体とはちぐはぐに心は重い。それでも──抵抗は、しなかった。
「……ん……」
長い睫毛を震わせると、エリシュカは焦げ茶色の瞳をぼんやりと開いた。のそりと身体を起こすと、肌掛け布団がするりと落ちて、薄い寝間着に透ける細い四肢が露わになる。
昼下がりの強い日差しが帷幕の隙間を縫って差し込んでおり、エリシュカは目を眇める。道理で──あんな夢を見るはずだ。
「……支度をしなくちゃ」
エリシュカの独り言には、滲みるような静寂だけが返って来る。丸椅子と寝台だけが置かれた簡素な部屋には、声が反響する広さすら無い。
ロイの使い魔である白梟のヴィリアは、外出には付き添ってくれたが、添い寝には付き合ってくれなかったのだ。
きっと、あの羽毛を抱き締めて眠れたならば、エリシュカは真冬のように身を刺す孤独にこれ以上苛まれずに済むのに──
そもそも、とエリシュカは恨めしく思う気持ちを隠さずに心の中で呟く。
白梟をエリシュカの寝台に連れ込めなかったのは、ロイの激しい抵抗があったせいだ。
挙句、慎みがない、などと責め立てられて無理矢理彼女と引き離されてしまった。余りにも理不尽な罵倒に、エリシュカは怒るより先に面食らってしまい、何も言い返すことが出来なかった。今、何よりもその事が悔やまれている。
「……もしかして、私にヴィリアを取られると思って嫉妬していたのかしら」
彼らの繋がりは単なる主従関係ではない。血よりも濃い繋がりにエリシュカごときが割って入ることは出来ないし、そのつもりもなかったのだが──
もしあの無愛想な男が嫉妬をしているのだとしたら、ロイにもかわいいところがあるものだとエリシュカは小さく笑った。
■□■
身支度を整えたエリシュカは、ロイと共に再び港湾へと舞い戻った。
見慣れぬ稀人の登場に、波止場に群れる海猫たちが一斉にみゃおみゃおと鳴いた。あるいは、潮の流れで打ち上げられた魚の死骸を狙い、互いを牽制しているのかもしれない。
調査に際し、二手に分かれることを提案したのはエリシュカである。
日中は吸血鬼が強襲してくる可能性が低く、広大な敷地面積を持つ港湾を固まって移動するのは効率が悪い。
そこで、ロイはエリシュカが常にヴィリアの監視下にあること、日暮れ前に合流することを条件に一人で行動することを許可したのだ。──だが。
「……めぼしい情報が全然出てこないわね」
遠洋に沈む半円の日輪を遠目に眺めつつ、エリシュカは合流場所へと重い足取りで向かっていた。
その足元ではヴィリアが尾羽を左右に振りながらよちよちと歩いており、ぴいと短く鳴いた。
「あら、慰めてくれるの?」
エリシュカがいくらか慰められた気分で微笑むと、智慧ある飛禽はその言葉を理解したように目を細めた。
「いい子ね、貴方のご主人様とは──」
大違い、と言う言葉をエリシュカは慌てて飲み込む。
ロイの言葉は鋭く、時に神経を逆撫ですることもあるが、決して優しさに欠けるわけではない。寧ろ──
「……同じくらい、優しい人なのかもしれないわね」
その刹那、ヴィリアの身体が毛を逆立てた猫のように一回り大きくなる。
鋭い金の目が見つめる先を辿れば、食料品店の前で出会った少女が、途方に暮れたように丸い繋留柱に腰を下ろしていた。
「あなた……今朝会った……」
「おねえさん……」
少女は、エリシュカを見ても逃げなかった。寧ろ何も言わずに逃げ出した非礼の申し開きの言葉を探すように、落ち着きなく視線を彷徨わせる。
その瞳だけはこの内海のように美しい青で、港湾で育った子どもらしいとエリシュカは思った。
それよりも気掛かりなのは、彼女の頬には痛々しい傷が刻まれたままであることだ。流石に傷口についた砂利は洗い流したようだが、それ以上の手当てを受けた痕跡はない。
「ここで何をしているの?」
エリシュカは旅行鞄を路地に置くと、片膝をついて少女と目線を合わせる。無論、少女相手と言えども、旅行鞄から手を離すような愚を犯すことはない。
「……ねこ」
「え?」
「ねこ、探してるの。黒と白の小さなねこ。おねえさん、見なかった?」
昨日、エリシュカが看取った猫と同じ毛並みだと気付いて、胸の奥がどきりと跳ねた。
「……その猫って、あなたの飼ってる猫?」
しかし、少女は首を振る。
「違うの?」
「怪我してた……から……手当しなきゃって思っただけ。……あたしも猫も、同じ港湾に住みついてるだけ、飼ってるわけじゃないの」
「え? でも……港湾には倉庫とか飲食店くらいしかないわよ?」
エリシュカはそう言ったが、港湾関係者向けの宿泊施設がないわけではない。
港湾関係者向けと謳っているが、エリシュカのような一般人でも多少色を付けて金を払えば宿泊することは出来る。だが──面と向かって浮浪児と呼ばれるような少女の宿泊を認める施設が果たして存在するだろうか。
「……うん。もう使っていない倉庫で住んでるの」
少女は恥じ入るように俯き、皮脂や潮風で硬くごわつく髪を指に巻き付けて弄り始めた。
エリシュカは幼い少女が野良猫のように暮らしていることに胸を痛め、顔を顰めた。
だが、頭の中の冷静な部分が、少女に対する哀れみよりも先に、闇に葬られたはずの僅かな光を見出だす。
この少女は、事件現場に最も近い場所で寝起きし、生活している。つまり──何かを目撃している可能性があるのだ。
一瞬黙り込んだエリシュカに、ねぇ、と少女は声を掛ける。
「……おねえさんはこの街の人じゃないよね?」
「……どうしてそう思うの?」
「この街の人はみんなあたしのことが嫌いなの。汚れていて臭うから」
少女は傷口には触れないように軽く頬を押さえる。過ぎたことだと笑い飛ばすには、彼女の傷口は余りにも生々しかった。
「……私、エリシュカ・ルプというの。旅行者よ」
そう言ってエリシュカは右手を差し出し、握手を求めた。
「…………せ、セラ」
少女──セラは手を出そうとして、躊躇う。
恐らく、彼女は散々小汚いと罵られ、忌避されてきた身の上だろう。不用意に他人に触れれば激しい暴力が返ってくると、刷り込まれてしまっていても不思議ではない。
「セラ。いい名前ね」
エリシュカはセラの躊躇いを踏み越えてその手を握る。恐る恐る握り返してきた手はあまりにも小さく、伸びすぎた爪が手の甲の皮膚を軽く引っ掻いたが、気にはならなかった。
「怪我をした猫だけれど……行商の人が昨日この辺りで拾っていた猫が、もしかしたらそうかもしれないわ」
エリシュカはもっともらしい言葉を並べ立てながら微笑む。
嘘を付くことに罪悪感がないわけではない。だが、少女には怪我の手当てが間に合わなかったせいで猫が命を落としたのだと気に病んで欲しくはなかった。
「……拾った人はどこに行ったの? ねこの様子、見に行きたい」
「ああ……そうよね。でも、彼らはもう街を離れてしまったみたいなの。馬車に乗って行ってしまったわ」
少女はさぞ落胆するかと思われたが、意外にも花の綻ぶような笑みを浮かべた。頬の傷が引き攣れて痛むだろうに、少女らしく染めた頬は睡蓮の花弁を思わせる愛らしさがある。
しかし、その様子を見ても白梟は鋭い目を少女から一向に逸らすことはない。無垢な少女の何に対してそこまで警戒を示すのか、エリシュカには全く分からなかった。
「良かったぁ。もう会えないのは寂しいけど……あの子、大切にしてくれる家族が出来たんだね」
噛み締めるように呟くセラの目をエリシュカは敢えて真っ直ぐに見つめる。
「あの……私も一つ聞きたいのだけれど。黒と白の猫はどうして怪我をしたのか……セラはその理由を知っているの?」
「──知らない」
セラは冷たい声で言い放つと、勢いよく繋留柱から立ち上がる。
エリシュカはセラの態度の落差に戦慄する。何が彼女の逆鱗に触れたのかは分からないが、先ほどの子供らしい笑顔は消え、エリシュカに感情を読み取らせまいと目を見開き、口を引き結んだ。
「ごめんね、おねえさん。あたし行かないと」
ごめんね、と繰り返しながら、セラはエリシュカの横を擦り抜け、倉庫が立ち並ぶ区画を走り抜ける。
エリシュカは、追い掛けなかった。この場所はセラの庭に等しく、対してエリシュカには地の利がない。追いつくことは不可能だろう。
だが、手掛かりが全く無いわけではない。セラが塒にしているのは『今は使われていない倉庫』だ。虱潰しに探せば、絶対に見つかるはずだ。
「……ロイさんと合流しましょう」
エリシュカはヴィリアに呼び掛けながら立ち上がる。
名を呼ばれた白梟は、上機嫌にぴいと鳴いた。




