第六十七話 白梟ヴィリア
東雲色の空と凪いだ水平線の間に、金色の旭光が走る。規則的に並んだ赤い煉瓦の倉庫群に陽光が差し込まれ、蔓延っていた闇がさっと払拭されていった。
結局、エリシュカとロイは夜通し周辺を巡回したが、目撃者どころか吸血鬼の影すら突き止められなかった。
エリシュカは疲労で、ロイは朝の来訪と共に怪物の力が失われたことによって、その表情は宵闇を纏ったように暗い。しかし、旭光はそんな彼らの全身を無慈悲にもほんのりと赤く染めていく。
「……昼過ぎまで休憩を取ろう。食事でも仮眠でも好きに過ごすといい」
エリシュカにとって、これは初めての徹夜作業であった。昂ぶった神経があちこちを刺激しているのか、様々な欲求が腹の底から湧いてくる。現在、エリシュカの数ある欲求の中で、最も主張が激しいのは普段は過少であるはずの食欲だった。
「……私、食事をしてくるわ」
港湾の街は酒場や食堂などがひしめき合っており、食事付きの宿はあまり流行っていない。そのため、客は周辺の食堂や屋台で食べると、エリシュカたちは宿泊施設の従業員に事前に聞かされている。
「貴方には……食事は必要ないのよね?」
「ああ。……だが、食事に向かうなら、"彼女"を連れて行ってくれ」
そういった瞬間、何もない虚空から白梟が現れ、ロイの肩に止まった。顔と胸元、そして足元は新雪のように真っ白だが、それらを除く羽毛の先は黒い斑点がまるで染め抜かれたように鮮やかだった。
「綺麗……!」
「ヴィリアという。俺の使い魔だ。自分で狩りをするから食事を用意する必要はない」
エリシュカは魅入られたようにヴィリアに近寄り、そっと右手を差し出した。
ヴィリアはわずかに警戒するように翼の付け根をぴくりと動かしたが、主人の表情に警戒のないことを見るや、自らその手に嘴を寄せた。少し緑がかった金の瞳がきゅっと細くなり、小鳥のように可憐に鳴いた。
とても猛禽とは思えぬ愛らしさにエリシュカは微笑む。
「使い魔は鼠や蝙蝠だけじゃないのね」
「何も動物ばかりではない。西瓜や南瓜が使い魔になることもある」
「本当に……?」
「伝聞上では。俺も実物を見たことはないが」
端から聞けば子供騙しの嘘か、たちの悪い冗談だが、ロイが下らない嘘をエリシュカに教えるとも思えず、エリシュカはロイの挙動を観察する。
尤も、社交界で鍛えたエリシュカの目ですら、ロイの内心は看破し得るものではなかったが。
「……野菜の使い魔の真偽はともかく、ヴィリアは優秀な付き人だ。例え姿が見えなくても、必ず傍で守ってくれる」
それから、ロイは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「もしも見知らぬ場所で迷子になったらヴィリアの名を呼ぶといい。保護者として宿まで連れ帰ってくれるだろう。使い魔は主人を決して見失わないからな」
つまり──ロイはエリシュカのことをヴィリアの狩りを見守る保護者とは思っていない。それどころか、ヴィリアこそがエリシュカの付き人であり、保護者だと言いたいのだろう。
エリシュカはきゅっと眉を顰める。ロイはエリシュカのこと正しく同僚として認めてくれているはずだが、時にまるで稚い子どものように扱われることがある。
それが無性に気恥ずかしく、エリシュカを落ち着かない気分にさせた。
「わ、私はそこまで方向音痴じゃないわ。……迷ったりなんかしないもの」
エリシュカは咄嗟に反論したものの、この物言いもデビュタントを果たした元淑女としては、如何なものかと、内心は反省しきりである。
だが、意外にも、エリシュカは負けん気が強い方だった。強がりを今更引っ込めることも出来ず、少し慌てたようにロイに背を向ける。
「とにかく……行ってくるから」
だが、エリシュカがヴィリアの同行を求めるようにちらりと視線を寄越したのを、ロイは見逃さなかったようだ。
ロイは薄く笑みを浮かべると、愛しい半身の身体をそっと撫でる。
「……さぁ、行ってくれ。……頼んだぞ」
賢い白梟はその命令に小さく一鳴きすると、主人の頬に甘えるように頭を擦り寄せ、再び虚空に姿を消したのだった。
■□■
「あの人、やっぱり相当意地が悪いわ」
エリシュカは屋台のひしめく表通りを歩く。もう旅行鞄を片手に歩くのも慣れたもので、エリシュカは道行く人間にぶつからないように、相手の視線や爪先の向きを観察して避ける術を既に覚えた。
だが、一人歩きは最早苦ではないものの、流石のエリシュカも大柄な男性が横を通る時は、やはり身体が強張った。
協会でぶつけられた悪意や暴力の記憶は、まだ芯の部分が癒えていないのだろう。
エリシュカは嫌な記憶を振り払うように頭を振る。
──今は、食事よ。……どれも美味しそうだわ。
屋台の種類は多岐に渡り、大きな寸胴に火を通し、具だくさんのスープのみを提供するものや、白身魚のすり身や羊肉に馬芹をまぶし、鉄の網で炙った串焼きまで様々である。
肉の焼ける香ばしい匂い、肉汁と脂が染み出す音、異国の香辛料の風味が混じり合う独特の空気が、潮風に混じり合ってエリシュカの食欲を更に刺激する。
──皆、食べながら歩いているけど、誰も注意しないのね。私も……でも、お行儀が悪いと思われないかしら。
流石に吸血鬼が人を串刺しにして晒し者にするという事件が頻発する中で、敢えて串焼きを購入する勇気はエリシュカにはない。
だが、食事といえば銀の食器を使い、冷めた料理ばかり口にしていたエリシュカから見れば食べ歩きとは新鮮で、抗いがたい魅力があった。
──どうせなら、誰かと一緒に食べたかったのだけど。
エリシュカは連れの存在を思い出し、林立する大衆食堂の屋根を見る。
赤い屋根の上には白梟の姿があるが、彼女は先ほどエリシュカの手にじゃれた愛らしい嘴で新鮮な鼠の屍肉を啄んでいるところである。
ヴィリアは愛らしいが、流石に鼠の死体を見ながら食事を楽しむ気にはなれそうにないし、嘴を撫でるのも抵抗がある。
どうしたものかと悩むエリシュカの目の前に、小柄な少女が倒れ込んでくる。固い石畳が少女の柔い頬を削り、痛々しい赤が滲み始める。
路地の石ころに躓いて転んだという生易しい勢いではない。恐らく、誰かに突き飛ばされて、倒れ込んだのだ。
実際にその現場を見たわけではないものの、続いて聞こえた怒声がエリシュカの予想を確信に近いものへと近付ける。
「ったく、浮浪児が! とっとと帰れ! お前みてぇな薄汚ぇ奴が店先をうろついてたら、他の客が寄りつかねぇだろうが!」
食料品店の店主らしき白髪頭の男が蝿でも追い払うような手つきで少女を追い立てる。
転んだ少女は店主に小さく頭を下げ、地面に散らばった小銭や包みを拾い上げた。包装紙は剥がれかけており、中から薄く切ったパンが数切れ顔を覗かせている。
通行人は少女を手伝うどころか、気まずそうに目を逸らすか、あるいは迷惑そうに避けていくばかりだ。
「……大丈夫?」
エリシュカは散らばった小銭を拾い上げ、少女にそっと差し出した。
少女は驚いたようにエリシュカを見つめ、汚れた掌で水を掬うように手を伸ばす。こうすればエリシュカの手を汚さずに受け取れると考えたのだろうが、その思考そのものが既に切ない。
「あなた一人で買い物に来たの? えらいわね」
「……うん」
少女は戸惑ったように頷く。その反応にエリシュカは首を傾げた。
エリシュカから見た少女の年齢少なくとも十よりは下に見えたが、栄養失調により発育が遅れたという視点を持つべきだったのかもしれない。
店主は少女を浮浪児だと呼んでいたが、そう言われても仕方がないほどに少女の有様は酷かった。
元々金髪であっただろう髪は皮脂と埃が混じり合ってくすんだ灰色になっていたし、着ているものはどこからか拾ってきたのか、擦り切れて、不格好だ。そもそも、彼女の身の丈に合ったものですらない。
だが、親がいなくとも、周囲の大人が支えなければならないのではないのか。彼女が不潔だからと街ぐるみで放置しているとしたら──これは虐待どころの騒ぎではない。
「お母さんは?」
エリシュカが尋ねると、少女はいない、と首を振った。今は不在であると言う意味なのか、死別したのか判然としない。
そもそも、少女は最低限の教育すら受けているようには見えず、語彙力は豊かではなさそうだった。
「……じゃあ、お父さんは?」
「…………病気」
「病気なの? ……もしかして、病気でずっと働けていないの?」
ならば、父親に金銭的な援助を──と思うものの、今の自分は平民で自由になる金銭など持ち合わせていないことにエリシュカは気付き、続く言葉を紡げずに口の端をむっつりと引き締めた。
その表情が余程恐ろしかったのだろうか。少女は竦み上がるようにパンの包みを抱えると、恐怖に腰が引けたまま、縺れた足で逃げ出したのだ。
「あ、ちょっと──」
追いかけようと立ち上がるエリシュカの前に、白梟が立ちはだかる。先程までの愛らしい仕草はどこへ消えたのか、翼を広げてエリシュカを威嚇している。
低い鳴き声は、まるで群れから逸れて死地へと向かおうとする子を叱る母のようで、ある種の必死ささえ窺える。
──私が勝手な行動をとると、ヴィリアがロイに叱られてしまうのかしら。
エリシュカには可愛い使い魔を振り切ってまで少女を深追いすることは出来なかった。
エリシュカはそっと頭を上げるが、少女の姿は既に雑踏の中に溶けて消え、その痕跡すら見つける事は出来なかった。




