第五十一話 夜、死神(タナトス)の声を聞く
──これは怪物と成り果てながらも、愛を求めた男の物語である。
蒙昧故に道理を知らず、その因果故に永訣の海に沈んだ、浅はかで惨めな男であった。
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夜を溶かした海の上を、金色に光る目を持つ、黒く巨大な『獣』が泳いでいる。『それ』は見るもの全てを威圧するように灰色の息を吐き出し、恐ろしく長い咆哮を上げて静寂を破った。
船着場に寝そべっていた黒猫は頭を上げると、耳と髭を『獣』に向けてぴくぴくと動かし、警戒心を露わにする。
それが『蒸気船』という名前の乗り物であることを、黒猫は生涯知ることは無かった。
ただ、この『獣』が現れた時は、必ずと言っていいほど船着場には人間が溢れて静寂が踏み荒らされるのだ。そうなると、黒猫は月光浴どころではなくなってしまう。
黒猫は夜空に浮かぶ三日月を名残惜しそうに見上げると、ゆっくりと伸びをしながら立ち上がる。小さな声でおいで、と鳴くと、少し不機嫌そうに尾を左右に揺らしながら倉庫の立ち並ぶ区画へと歩き出した。
優しい声に反応し、点々と散らばっていた小さな猫たちが頼りない足取りで集まって来た。毛色は母の毛皮を受け継いで殆どが漆黒である。
月光浴に退屈していた子供たちは、突如として始まった夜の散歩の始まりに尾をぴんと立てていた。はしゃぐように短く鳴き声を上げ、母の尻尾を前足で捕まえようと跳ねるように駆けて追う。
その時だった──濃厚な血の臭いが、風に乗って親子の顔を撫でたのは。
母猫は目を見開き、おいで、と鋭く鳴く。脇目も振らずに道を突っ切り、倉庫の影に身を隠した。
子供たちは母の後を追って身を隠し、教えるでもなく地面に伏せて姿勢を低くした。身に迫る命の危険が稚い彼らの生存本能を揺り起こしたのだ。
「あは────あは、は」
人間の鳴き声がした。これは機嫌が良い時の声だ。だが、その足音は人間のものではない。がしゃん、と硬いもの同士を擦り合わせたような音がする。
黒猫は頭だけを覗かせて災厄の姿をそっと窺う。後ろ足だけで立っているのは人間と同じだったが、その形は人間ではない。その手は腹に大穴の空いた死体の足を掴んでいた。その身体がずるずると引きずられる度に石の道に濡れた跡が伸びていく。
黒猫は死体の男に見覚えがあった。彼は黒猫たちと同じく港湾に住み着いている人間だ。男は黒猫と子供たちを見かけると少しばかりの肉と水を与えてくれる、優しい人間だった。
黒猫が子を一匹も亡くさずに生き延びてこられたのは彼のおかげだ。だが、彼がいなくなればこれから先、子供たちを育てるどころか自身が生き延びられるかどうかもわからない。
黒猫は我が子たちの様子を見る。子猫たちはそれなりに状況を察して息を殺し、災禍が去るのをじりじりと待っていた。
黒猫は子供たちの顔を愛おしそうに舐める。大丈夫よ、と宥めるように小さく鳴いた後、子供たちから寄せられる無限の愛情を振り切るように、そっと暗闇へと姿を消した。
黒猫は振り返らない。子を亡くすことは悲しいことだ。身を引き裂かれるほど辛いことだ。
だが、生物としての根源的な本能が母性の子を慈しむ心を殺した。生き延びなければならない。生きて、生きて、生き延びて──血脈を後世に繋げなければ。
──あの子たちが死んでも、子ならまた産める。
母親が背を向けたことで、遺棄されと悟った子猫たちは、一頭を除き母を求めて鳴いた。それが確実に死神を呼び寄せると知りつつも、母のない孤独には耐えられなかった。
鳴き声を上げなかったのは、唯一白と黒の毛皮を持つ仔猫だけだった。幼い彼は、愛に依存する兄弟達を見限り、ゆっくりと母の消えた闇へと自分も足を踏み入れたのだった。




