第五十話 出征の“使徒”と交わらぬ赫き瞳
「……危険なことに付き合わせてごめんなさい」
王室を欺いた罪がどれほど重いかはこの国に住む者ならば誰もが知るところである。それでも協力してくれたヴィタリーには感謝しかない。
「なぁに、俺は運だけはいいからな、何とかなるとは思ってたぜ」
ヴィタリーは呵々と笑うが、その顔に不意に真剣な色を刷く。
「……そんなことよりも、エリシュカよぉ……本当によかったのか?」
「何が?」
「カタルジュを名乗ると、どうしてもしがらみや余計な面倒に巻き込まれるからって、別の名字を名乗ることにしたって聞いたぜ?」
あぁ、とエリシュカは朗らかに笑う。
「エリシュカ・カタルジュ改め、エリシュカ・ルプよ。いい名前でしょう?」
ルプは当然、ヴィタリーの名字から拝借したものだ。
その語源となった狼は家畜を食い殺す害獣ではあるが、仲間意識は強く勇敢である。
それに、伝承によれば、古代には半人半狼の怪物がおり、吸血鬼にとっては不倶戴天の敵であったという。エリシュカにはその伝承に肖ろうという思いもあった。
「……まぁ、悪い気はしないな。同じルプの誼だ。俺のことはもう一人の兄と思って頼ってくれていいぜ」
エリシュカはきょとんと瞬く。
「…………。父様じゃなくて?」
「おい、俺はまだ三十八……いや。エリシュカはまだ十七だもんな。そっかぁ……そうかぁ……」
一人思い悩むヴィタリーを見て、エリシュカとネリーは小さく吹き出す。
その時、馬の嘶きがほんのりと明るさの差したホールに響き渡った。ヴィタリーとエリシュカを乗せる馬車が馬車回しに到着したのだ。
エリシュカは既に辺境伯家の四頭立ての馬車を利用する資格を失っている。よって、わざわざ事前に路銀を支払い、庶民でも乗れる辻馬車を手配しなければならなかったのである。
ヴィタリーは自分の荷物を下ろし、エリシュカの旅行鞄をひょいと持ち上げる。
「荷は俺が積んでやろう。まだ右腕しか使えないから積み込みには時間がかかる。その間に積もる話でもすればいいさ」
エリシュカは旅行鞄を床に置くと、ネリーにそっと両手を伸ばした。
「エリシュカ……様」
ネリーはぎくしゃくしながらも、細い身体に両腕を回した。
エリシュカはネリーを姉のように慕っていたが、二人の間に横たわる身分差が本当の姉妹のような触れ合いを決して許さなかった。
だが、今は二人を隔てるものは何もない。
「ネリー、私はもうお嬢様でもエリシュカ様でもないわ」
ネリーは何度も小さく頷き、エリシュカの両頬を少し荒れた手で包み込む。その容貌を記憶に刻もうとしているかのようだった。
「エリシュカ……ああ……どうか怪我などしないよう、健やかに過ごして。……頃合いを見て、お手紙を送っても?」
「ええ、待ってる。いつまでも待ってるから……」
「……どうかご無事で……恙無く使命を果たされますように」
エリシュカは物見遊山に首都へ行くわけではない。“御使い”という最強の矛を手に入れたとはいえ、死地に赴くことに変わりはないのだ。
ネリーは無事を祈ることしか出来ない歯がゆさを抱えたまま、その手を離すしかなかった。
「──お嬢様、ついに征かれるのですな」
そう言ってホールへと駆け付けたのはオクタヴィアンである。家令である彼を筆頭に、料理長や家政婦などの上級使用人たちが、エリシュカの見送りのために一列に並んだ。
もはや、平民となったエリシュカとの縁など切れたも同然だと言うのに、最後まで主家の令嬢として扱い、別れを惜しんでくれることが嬉しい。
そして──この場に療養中のセザールの姿が見えないことだけが、あまりにも切なく、哀しかった。
エリシュカはネリーから離れ、背筋を伸ばして彼らの前に立つ。
慣れ親しんだ城を去り、尽くしてくれた彼らと別れるのだ。思い出という宝物を持って行くのだとしても──寂しくないはずがない。辛くないはずがない。
だが、追放の悲しみを気取られぬよう、エリシュカは精一杯の笑みを浮かべた。
「ええ……見送りに来てくれてありがとう。皆、元気で──いつまでも身体を大事にしてね」
オクタヴィアンは寂しげに微笑みつつも、いつも以上に深々と頭を下げ、上級使用人たちもそれに続く。
「お帰りを首を長くしてお待ち申し上げます。どうぞ、お気を付けて行ってらっしゃいませ」
餞の言葉は、さらば、ではなかった。
ならば、エリシュカも別れの言葉を口にする必要などない。
エリシュカは春に華やぐ薔薇のような笑みを浮かべた。
「いってきます──!」
帰りを待っていてくれる人がいるからこそ、エリシュカは一歩足を踏み出せるのだ。
クリステア王国の首都、レダ=ジェネロスへと──
■□■
「──聞いたか? ヴィタリーが好色の魔女を討伐して、明日にも協会に戻って来るらしいぜ」
若い吸血鬼狩りが電報を片手に受付に飛び込んで来た。
安穏としたヴィスコル城とは対照的に、レダ=ジェネロスの吸血鬼狩り協会の内部は、まるで戦場のように空気がひりついていた。
それもそのはずで、ここ数日に渡って首都では吸血鬼の襲撃が相次ぎ、多数の死傷者が出てしまったのだ。戦える者も疲労が蓄積しており、誰も口には出さないものの、厭戦の重い空気が蔓延していたのだ。
だが、そこにヴィタリー凱旋の報告が舞い込んで来たのである。萎えかけていた吸血鬼狩りの士気を再び高めるには十分であった。
「どういうことだ? こっちには応援を送る余裕なんて無かったのに。まさか……好色の魔女を相手に単独で討伐したのか?!」
吉報を持ち寄った若者を周囲にいた同僚が取り囲む。だが、彼は厳つい男たちに囲まれて迷惑そうに手を振って追い払うような仕草を見せた。
「違う違う! いいか、落ち着いて聞けよ。ヴィタリーの報告によると……“御使い”が……“使徒”が現れて一緒に討伐したって話だ!」
その場は一瞬息をのむ音で静まり返り、割れるような歓声がその場の空気をびりびりと震わせた。
“御使い”と“使徒”と言えば吸血鬼狩りの源流──彼らにとっては原点と言ってもいい。事実、現在使われている対吸血鬼用の戦闘技術や知識は彼らから得られたものばかりだ。
しかも、三百年振りに降臨した“御使い”並びに“使徒”と、自分たちが肩を並べて戦えるかもしれないのだ。彼らが興奮するのも無理はない。
「……」
しかし、ただ一人。離れた場所で迷惑そうに喧騒を眺めている若い男がいた。
“御使い”の登場を耳にしても、歓迎や拒絶の意思を示すわけではない。寧ろ、何に対しても一切興味がないというように、騒ぐ仲間に対して背を向けて、その場からそっと離れた。
男の目は、まるで血のような赫い色をしていた。
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