第四十六話 天網恢恢、疎にして漏らさず
エリシュカは屈辱に咽ぶリュミドラを前に、唇を戦慄かせた。
怨敵の惨めな姿を見れば溜飲も少しは下がるかと思っていたが、そうではなかった。寧ろこれ以上ないほどに憤激していると言ってもいい。
エリシュカは今にも迸りそうな激情を、肩が上下するほどの荒い呼吸で押し留めるので精一杯だ。
この場に集結した村民の殆どは、初めてエリシュカの激情を目の当たりにし、何名かが首を押さえて呻く。この娘が怒りのままに国王に訴えを起こせば、自分たちは容易く縛り首に処されるのだと漸く自覚したのだ。
ヴィタリーは油断なくリュミドラを凝視したまま腰に下げた銃に手を添えており、ベアトリスも首から下げた十字架をそっと握り締め、聖典の一節を諳んじている。
こうして各々が視野狭窄に陥った結果、昼と夜のあわいに、突如として暗雲が吐き出されたことに、誰一人として気付くことはなかったのである。
「貴女が……オフェリアの指輪を持っていたのね」
ヴィタリーからリュミドラの貪婪な性質を聞かされ、アルフレートを手に入れるためならば手段を選ばぬことも既に承知していた。オフェリアがリュミドラの手に掛かって亡くなったことも、うすうす察していた。
だからこそ、婚約指輪がこの女の薬指に収まっていることがエリシュカには許せない。この婚約指輪の持ち主はオフェリアただ一人だ。この女は最も相応しくない。
「貴女のせいで……オフェリアは!」
エリシュカは背後にそろりと右手を伸ばす。
エリシュカは何も無策でリュミドラを待ち構えていたわけではない。補正装具に鞘を縫い付け、二本の短剣を装備していた。一方は兄から譲り受けたもので、もう一方はヴィタリーに借り受けたものである。
だが、エリシュカの手が柄に触れるより前に、二人の男がそれぞれの思惑を持って動いた。一歩早く動いたのはヴィタリーである。
ヴィタリーはリュミドラから視線を外さず、エリシュカの右肩にそっと触れて凶行を止める。
「お嬢様、もういい。何もお嬢様自ら手を汚す必要はない」
「でも……!」
ヴィタリーはエリシュカの隣をすり抜けて前に出ると、左肩の傷に障らぬように右手で銃を抜く。そして、戦意を喪失しているリュミドラ──ではなく、その左隣に立ったアルフレートと思しき外套姿の男に銃口を向けた。
リュミドラは此処まで連れ添ってきた男に縋ろうとするが、彼は構わず片膝を付き、リュミドラの細い手首が軋む程にねじり上げたのである。
「あぁっ……!」
リュミドラは苦痛に顔を歪める。いかな吸血鬼とはいえ、陽の下で膂力を失った今となっては、やはり筋力は男に劣るのだと、エリシュカは改めて知った。
「痛い……っ! あなた、痛いわ……っ! 何をするの……?!」
リュミドラの媚びるような声に、エリシュカは吐き気を覚える。
男はリュミドラを捕らえる手を緩めず、目深に被ったフードを取る。社交界の令嬢を虜にしたと言われる紺碧の瞳が、侮蔑も露わにリュミドラを見下ろしている。
「貴様の秋波など気色が悪いだけだ。口を慎め」
「に、兄様……!」
果たして、エリシュカの予想通りリュミドラに付き従う男の正体はアルフレートであった。
エリシュカは今すぐにでも兄に駆け寄って再会を喜びたかったが、恐らくヴィタリーはその短慮を許さないだろう。
だが、エリシュカにとって嬉しい誤算もある。アルフレートはリュミドラの支配下に置かれていたはずだが、今この場にあっては何故か敵対をも辞さない態度を見せてくれている。
アルフレートがいつから、何故正気に戻っていたのかは、エリシュカには分からない。だが──
「……きっと、オフェリアが兄様を元に戻してくれたのね」
一方、度肝を抜かれたのは農夫たちである。口の利けない下男と軽んじ、ぞんざいな扱いをしたという自覚があるのだろう。アルフレートの容貌を見て大いに狼狽え、農具を放棄してその場に次々と平伏する。
そして、およそ半数が重い刑罰を恐れ、叫び声を上げながら逃亡した。
冷静に考えれば、正式に訃報が伝えられたアルフレートがリュミドラに同行していた時点で、彼が人類の敵に堕ちたも同然だった。
しかし、敵味方が硬貨の表裏のようにひっくり返るこの状況についていけず、そんな至極当たり前のことすら農民たちには分からなくなっているのだろう。
「──何故お前がこの指輪を持っているのか、今ここで、皆に分かるよう説明しろ」
アルフレートは冷徹に命じたが、リュミドラはさっと顔色を青くして唇を引き結んだ。
「どうした? 先ほどまでよく回る口を持っていただろう。それとも、今度はお前が口を利けぬ端女の振りでもするつもりか?」
「なっ……うぐっ!」
アルフレートは左手を捻り上げたままリュミドラの右手を掴むと、強引に背中に回す。これ以上暴れられぬようにしっかりと拘束した。
「皆、よく見ろ! この女と──私の罪を! "オフェリア・カタルジュ"の真実を!」
低く通る声に命じられるままに、農夫たちは恐る恐る顔を上げる。その額や鼻先は砂埃ですっかり汚れてしまっていた。
男達は目の眩むような輝きに目を細めたが、指輪の意匠が失せ物の特徴と細部まで一致していることを知り、驚嘆の声を上げた。
そして、リュミドラこそが自分たちを苦しめてきた原因と知るや、熾火のようになっていた敵愾心を再び暗く燃やし始めた。
「オフェリア・カタルジュは──私の妻は不幸な事故で亡くなったのでも、自ら命を絶ったわけでもない! この女吸血鬼──リュミドラによって命を奪われたのだ!」
いや、とアルフレートは言葉を継ぐ。
「この女に殺されたのはオフェリアだけではない! 首都を始めとする連続少女拉致事件もこの女の仕業だ! オフェリアの地位を簒奪するために、一連の凶行に及び──我が領地民をも危険に晒した。私も、その責を負う」
アルフレートはヴィタリーに視線を向けると、微かに相好を崩した。
「吸血鬼狩り──ヴィタリーといったか。この女共々私を殺してくれ」
アルフレートが自死を望むことそれ自体には、エリシュカにもヴィタリーにも驚きはない。
寧ろ領地に多大なる混乱を齎した貴族の責任の取り方としては、至極真っ当なものであると言ってもいい。
しかし──エリシュカは兄の選択を受け入れられなかった。二人の間に横たわる家族としての情が、失われた日常への未練が、貴族としての正解ではなく緩怠の抜け道を選ばせたがっている。
エリシュカは辛うじて泣くのを堪えたまま、いやいやと首を何度も振る。
「いや……兄様……! そんなこと……仰らないで……!」
エリシュカ以上に拒否感を示したのはリュミドラである。長い絹糸のような髪を振り乱し、背後のアルフレートをきっと睨みつける。
「やめて、アルフレート……! どうしてあなたが私のことを陥れるような真似をするの?! 私はあなたの主なのよ?!」
「そうだな。私の人生で最も厭わしい汚点だ。貴様を葬り去ったとしても、その事実が消え失せることはない。これほど屈辱的なことは早々あるまい」




