第三十六話 胡蝶の逆夢
その闇に涯はなかった。光も音もなく、匂いも温度も全く感じない。まるで五感そのものが死に絶えてしまったかのように、世界の全ては静謐そのものであった。
エリシュカは恐る恐る右足を一歩踏み出す。だが、踏み出した靴の輪郭さえ目視で捉えることが叶わず、踏みしめた地面は頼りなく、どこかふわふわとした浮遊感がある。
──夢、よね……? それとも、私は死んでしまったのかしら。
しかし、エリシュカは教会の謳う天国がこんなにも寂しい場所であるとは、にわかに信じられなかった。
天国とは、花が咲き誇り、病苦や餓え、悲しみのない楽園ではなかったのか。
先に逝ってしまった父母や弟、オフェリアがこのような寂しい場所で死という鎖に繋がれると知っていたならば、エリシュカは絶対に彼らを死出の旅には送り出しはしなかっただろう。
「……誰か……誰か、いないの?」
エリシュカが周囲を見渡す。その瞬間、闇の中に二つの大きな光柱が出現した。
エリシュカの目は闇に慣れきっていたはずだが、若干距離が離れていたせいか眩さはあまり感じない。
寄る辺のないエリシュカはようやく差した光明に救いを求めて二柱に近付く。まるで炎に魅入られた夜蛾のように、その足は吸い寄せられていった。
「……あ……」
光の束に近付くにつれ、エリシュカはそれが僅かに青みを帯びていること、更にその中心には人の形をした輪郭線が見えることに気付いた。
背が高い方は男で、背が低く裾が大きく広がって見えるのは女だろう。
エリシュカはその佇まいに見覚えがあった。
「──兄様、オフェリア!」
エリシュカは叫ぶ。二人はエリシュカの声が届いたのか、穏やかな笑みを浮かべた。アルフレートは両手を広げて、エリシュカを待ち構えている。
エリシュカは迷わず兄へと駆け寄り、その逞しい身体に抱き着いた。
──夢でもいい。兄様とオフェリアがいるなら。父様、母様、サシャもいるのかしら。夢なら一生覚めないで。
だが、夢はいつもエリシュカに対し非情だった。
アルフレートは抱き着いてきたエリシュカの身体を抱き寄せず、両肩を掴む。
その力はあまりにも強く、エリシュカは困惑したようにアルフレートを見る。兄は──背筋を凍らせるほど冷徹な目でエリシュカを見下ろしていた。
「──何故、私を殺したんだ?」
「え……っ?」
アルフレートはそのままその場に崩れ落ちるように膝を付く。その腹には黒い短剣が突き刺さっており、横にいたオフェリアが悲痛な悲鳴を上げた。
アルフレートは呻きながら地面に倒れ伏した。その身体から夥しい量の血が溢れており、エリシュカはアルフレートを助け起こそうと手を伸ばす。
しかし、その手が兄の身体に触れることはなかった。オフェリアによって叩き落とされてしまったのである。
「アルフレート様に触らないで!」
「オフェリア、どうして……っ!」
「そんな、汚れた手で……!」
仇を見るようなオフェリアの目にエリシュカはたじろぐ。吐き捨てられた言葉の意味を反芻しながら、エリシュカは掌を恐る恐る自分の方へ向けた。
「あ、あぁ……!」
エリシュカの両手はアルフレートの返り血で濡れていた。粘りのある赤とつんと鼻に付く鉄の臭いがこびり付いて離れない。
「そう──私が兄様を。短剣で、刺して──」
エリシュカは己のしでかした罪深さに鋭く息を呑んだ。
殺したのだ、最愛の兄を。
誰でもない、エリシュカ自身の手で──!
■□■
「は……っ!」
エリシュカはこれ以上ない程に目を見開き、早鐘を打つ胸を手で押さえる。その瞬間、腕から肩にかけて走った痛みと筋肉の強張りに短く呻いた。
触れた服の手触りは、滑らかで軽い。どうやら、エリシュカは喪服ではなく、寝間着に着替えさせられているようだった。
着せ替えたのはネリーだろうか。
──夢、なの? それとも現実? どこから? どこまでが?
エリシュカの記憶では、ひどい重傷を負って死にかけていたのは使用人たちの方だった。だが、今の夢で死に絶えたのはアルフレートの方だ。
それに、エリシュカ──の中に生まれた“何か”はアルフレートの腿を刺したが、その命までは奪っていない。
先ほどの夢は記憶の混濁が見せたまやかしだったのだろうか。それとも忌まわしい未来の予知なのか──
「嫌──もう何も考えたくない……!」
エリシュカはゆっくりと右腕を目元に翳した。部屋が明るいので、今が昼間なのは疑いようがない。しかし、時計の時刻を確認しようという気には到底なれなかった。
「──お嬢様?」
ネリーの声が聞こえた。エリシュカは腕を下げ、視線だけを動かして、その姿を探す。
ネリーは清拭用のタオルと水盆を持って来てくれたようで、問題なく職務へ復帰しているようだった。エリシュカの様子を見てわなわなと震えた後、盆を置くのも忘れて再び廊下へと戻ってしまった。
「先生──! お嬢様が、お目覚めになりました!」
その声を皮切りに、のしのしと貫禄を感じさせる足音が近付いてきた。ネリーが先生と呼ぶのなら、それはカタルジュ家専属の侍医のものだろう。
果たして、先生と呼ばれた男は、黒い医療鞄を引っ提げてエリシュカの部屋にやってきた。
彼は同年代のオクタヴィアンとは少し毛色の違う、恰幅の良い老人である。
長くカタルジュに仕える侍医の華々しい経歴とは逆に、白衣と医療鞄には薄く擦り切れた箇所があり、年季の長さが垣間見えた。
侍医は医療鞄から聴診器を取り出し、一通りエリシュカの身体の音を聴く。彼はすぐに中程度の筋肉痛と疲れが出ただけで、怪我や内臓の不調などの心配はないと言った。
「身体が少し重く感じられるかもしれませんが、心配いりません。倒れてから二日間お眠りでしたので、お身体が少し萎えていらっしゃるのでしょう」
「そんなに? 私……貴重な時間を無駄にしてしまったのね」
エリシュカの自嘲を聞き咎めた侍医は、厳しい表情で首を振った。
「とんでもない。わたくしの目から見ても、お嬢様には長い休息が必要でした。必要な療養を無駄とは申しません」
エリシュカは微かに頷いて、同情的な優しさを受け入れる。ほんの少しだけ気持ちが楽になったお陰か、他人を心配する余裕が生まれた。
「あの、先生……オクタヴィアンやセザールは? 他のみんなは?」
侍医はエリシュカを不憫そうに見つめて、薄い掛け布団を胸元まで掛けてくれた。
「酷い状態でしたが、皆様命に別状はございません。どうかお嬢様はご自愛くださいませ」
「……本当に? みんなひどい怪我だったわ」
侍医は気を悪くした様子もなく、福々しい顔で微笑む。
「本当ですとも。わたくしが責任を持って治療に当たりました故、ご安心ください」
「……兄様は?」
「………わたくしがあの場に呼ばれた際、旦那様は既にこの城にはおられませんでしたので……」
侍医は曖昧に言葉を濁し、そそくさと帰り支度を始める。
「……それでは、わたくしはこれで」
侍医はすまなそうに頭を下げてエリシュカの部屋を出ていく。しんと静まり返ったエリシュカの部屋に、ネリーの遠慮がちな声が落ちた。
「あの……吸血鬼狩りのヴィタリー・ルプ様が今後のことについてお話ししたいと面会をお求めです。……お会いになりますか?」
エリシュカはその名前を聞いて眉を顰める。
それはカタルジュ家の人間の保護という密命を帯びながら、無様にも失敗した男の名前だった。
ヴィタリーが怪我など負わずに村に辿り着いていたならば、みすみすあの女吸血鬼に奪われずに済んでいたかもしれないのだ。
だが、ヴィタリーを責める言葉が浮かぶ度に、エリシュカの脳裏にはガラ=アグネッサ女子修道院で見た彼の痛ましい姿が浮かぶ。
包帯を何重にも巻き、高熱に浮かされて尚、カタルジュを救おうと足掻く姿は、さながら高潔な騎士のようだった。
あの姿を見てしまったからには、もうエリシュカにはヴィタリーを責めることは出来なかった。




