第三十五話 毒婦の奸計
「どうして傷が治らないのよ!!!」
森に遺棄された小さな城塞に、リュミドラのひどい癇癪が響き渡った。
かつて刻を止めた空気が再び動き出し、至る場所に降り積もっていた埃がぶわりと舞い上がる。
天井に巣食っていた蝙蝠が泡を食ったように一斉に飛び立ち、割れた窓に殺到する。我先に外へ逃れようと必死であった。
「私の顔が! 私の美しい顔が!」
リュミドラがいたのは、比較的原型を保っていた領主のものと思しき寝室だった。部屋の中は多少黴臭いとはいえ、当時の調度品はほぼそのまま残されているようだ。
賊の侵入を免れ、しかも当時の様子を窺い知れるという点では、歴史的価値も非常に高い空間であると言える。
だが、吸血鬼にとって、そのようなものは一切考慮に値しない、ただのがらくただ。
リュミドラは部屋の隅に遺棄された脚の折れた文机をまるで玩具のように軽々と持ち上げ、壁に投げつけてる。木っ端となった残骸がバラバラと床に落ちた。
それだけでは飽き足らず、棚を倒して中身を床にぶち撒けた後、既に破れていた綴織を更に手で引き裂いた。
どれもこれも全て残骸と化すまで破壊尽くしたというのに、それでも尚、リュミドラの腹の虫は治まらなかった。
「どうして?! いつもならもうとっくに治ってるはずじゃない!」
リュミドラは自慢の美貌を両手で覆い隠し、甲高い声で泣き叫ぶ。不意にその指先に、瘢痕に似た分厚い瘡蓋と、醜く引き攣れたような皮膚が触れて、その不快な感触に息を呑んだ。
頬から鼻まで一文字に刻まれた醜い裂傷──これはその治りかけだ。エリシュカによって付けられた、リュミドラ唯一の汚点である。
リュミドラは衝動に任せて不格好に膨れた柔い肉を掻き毟る。引っ掻き傷は深く肉を抉ったものの、この裂傷だけは、リュミドラの執念も虚しく、ついに消えることはなかった。
それどころか、瘡蓋を剥がそうと傷つける度に、瘢痕は分厚く広がっているようにさえ見える。
「何故?! 食べ残しにまで手を付けたのに、治らないなんて!」
この城塞の地下には古い牢があり、リュミドラは各地から攫ってきた女たちを保存していた。
女たちは美しいものばかり厳選して攫ってきたのだが、中には他と比べると見劣りする個体もいて、リュミドラはそういう粗悪なものには絶対に手を付けなかった。
もっとも、手を付けないのなら逃がしてやるという慈悲も、生憎と持ち合わせてはいなかったが。
だが、今は状況が変わり、リュミドラは忌避していた残飯すら、文字通り貪ったのだ。それで、治癒で使い果たした力も元通りになる──はずだったのだが。
「おかしい……おかしいわ! 吸血鬼狩りに撃たれた傷はもう治ったのに!」
リュミドラは自分の細腕を見下ろす。
吸血鬼狩りに撃たれたはずの左腕は、もうごく薄い痕が白い肌に残るのみだった。遠目からでは分かりにくい上、衣装や羽織で隠すことも出来そうだ。
あの吸血鬼狩りを決して許しはしないが、この程度の些細な欠点ならば、ある程度は自分の中で折り合いを付けることも出来る。
だが、顔に付けられた傷だけは別だ。顔貌が完璧でなければ、男たちはリュミドラをちやほやしない。高価なものを貢いだり──愛を囁いたりしない。
リュミドラは爪を噛み、身の置きどころの無い様子で部屋の中を徘徊する。埃を被った鏡の前を通り過ぎたが、この世のものではない化け物を、鏡面が映すことはついぞなかった。
「……変よ。吸血鬼狩りの武器よりあの小娘の武器の性能が良いなんてこと、あり得るのかしら」
リュミドラは渋々ながらヴィスコル城での逃走劇を振り返る。
あの夜、小娘の持っていた短剣は、悍ましい白い光を纏っていなかっただろうか。
弱々しくも罪を漂白するような光は、忌々しい聖の気配がした。それは吸血鬼が最も忌避すべき光輝──魔のものを滅ぼす力である。
だが、それでも分からない。何故地味な貴族令嬢ごときが、吸血鬼に対抗出来る力を得られたというのだろう。
「まさか、男日照りでついに尼にでもなったとでもいうのかしら」
ぶち、と何かが千切れる音がして長い爪の残骸が床に落ちる。しかし、次の瞬間にはもう千切れた爪は磨かれ、整えられたように美しく生え揃っていた。
「だったら修道院とやらにずっと引っ込んでなさいよ! 変にアルフレート様に執着して!」
鋭い牙に罅が入るほど歯を食いしばるリュミドラだったが、不意に泣きそうな目で背後に立つ美丈夫を振り返る。
背後に立っていたのはアルフレート・カタルジュ──リュミドラがやっとの思いで手に入れた至高の番であった。
彼もまた能力の使いすぎと腿からの出血でかなり衰弱していたが、リュミドラが惜しみなく血を分け与えたお陰で、今ではすっかり万全の体調を取り戻していた。
「あぁ、アルフレート……もう起き上がっていていいの?」
「はい。リュミドラ様のご慈悲にお縋りし、復調いたしました。感謝申し上げます」
アルフレートは笑みを見せるが、不意に澄んだ碧眼が悲しげに曇った。
リュミドラはアルフレートに醜女と詰られることを恐れて、一瞬身を硬くした。
「……痛みますか?」
だが、リュミドラの予想に反して、アルフレートの口から出てきたのは余りにも優しい言葉だった。
アルフレートはそっと指先でリュミドラの頬の傷跡を撫でる。その手つきはあまりにも優しい。
──本当に、夢みたいだわ。こんなにも醜いものに、優しく触れてくれるだなんて。
リュミドラは紫の瞳を蕩けさせ、アルフレートにそっとしなだれかかった。
彼が慈しみ、愛情をもって触れてくれるならば、例え唾棄すべき瑕疵でさえ己の一部として愛おしいのだと、リュミドラは初めて心からそう思えた。
「……妹を討ち果たせなかった不明をお詫びします。リュミドラ様があの女の首を所望するのならば、次こそは差し上げましょう。是非私にお命じください」
アルフレートは瞳を眇め、そっとリュミドラを抱き寄せる。その抱擁は力強さと優しさを兼ね備え、しかも優美だ。
リュミドラはこの男には知性も理性もなく、貪欲に求められてみたいと胸躍らせていた。それこそが女の幸せなのだと信じて疑わなかった。
しかし、アルフレートの知性と、そこに秘めた熱情に触れて、リュミドラはその信条を改めざるを得なかった。肉欲ではなく優しさこそが、女の真の悦びを擽るのだ。
「あぁ……愛してるわ、アルフレート……」
アルフレートの指先に触れられた場所が熱を帯びていく感覚に、リュミドラは狂喜していた。
アルフレートは美しいだけでなく、女王に仕える騎士のような忠義をもってリュミドラに跪く。
自分だけがこの高潔な男を傅かせられるのだと思うと、リュミドラは身体の芯の部分が熱く痺れるのを感じた。
「やっぱり、あなたは顔がいいだけの愛人どもとは違うわ。とっても素敵」
アルフレートの指が微かにリュミドラの柔肌に食い込む。
「それは──光栄です」
アルフレートの声音が少し硬くなったことに気付いて、リュミドラは軽く吹き出す。
リュミドラは顔を上げて、アルフレートの顔を仰いだ。
「あら、もしかして妬いてくれたのかしら? 残念だけど、そいつらはこの間、全員死んだの。だから安心してちょうだい?」
「リュミドラ様が残念がるほどの男だったのですか?」
リュミドラは小馬鹿にするように肩を竦めた。
「都合のいい下男としてね。私の伴侶はあなただけ。あなた以外の男は全員下の下だわ」
リュミドラはアルフレートの胸に顔を埋めながら、名前も思い出せない男たちのことを思い出す。
アルフレートは既に人間の体温を失っており、同じく吸血鬼のリュミドラと抱き合ったとしても熱を分け合えるわけではない。それでも、アルフレートが纏う香りが自分に移るのが心地よかった。
「……全員、死んだのですか? 下男の働きを全うせず、リュミドラ様を置き去りにして?」
アルフレートはリュミドラの髪を指で梳く触れながら問う。その仕草は変わらず優しかったが、声音は配下たちの無様を責め立てる口調だった。
「ふふ、そうなの……ほとんどが女どもを攫わせている最中に吸血鬼狩りに討伐されたのよ。揃いも揃って間抜けよね」
しかも、唯一生き残ったしもべ──確か名はジャンと言ったはずだ──の証言によると、しもべの一人がリュミドラの正体とアルフレートが標的であることを暴露したらしい。吸血鬼狩りがアルフレートたちを保護しようと、先んじたのはこのせいだ。
ジャンは吸血鬼狩りを足止めすべく先回りしたようだが、やはり失敗した。死にかけだったとはいえ、吸血鬼狩りを見逃した罪は重い。
尤も、今もこの城塞に戻ってこないことを考えると、きっともう死んでしまったのだろう。リュミドラがわざわざ手を下す必要はない。
ただ──赤銅色の髪と目が美しい、お気に入りの愛人だっただけに惜しいと、リュミドラはわずかに感傷に浸った。
「……ふん。今となっては、あんな役立たずのことはどうでもいいわ。今の私には強い援助者がいるもの」
援助者、とアルフレートは涼やかな目で小さく復唱する。
「そう、援助者。色々と気持ちの悪い爺だけど、強さだけは本物よ。首都で足止めを頼んだから今頃、きっと暴れてくれているはずよ。首都の援軍はまず来られない」
リュミドラは、細い指をアルフレートの襯衣の隙間にそっと差し入れ、優しく撫でた。
アルフレートは顔色を変えずに、女主の戯れを静かに見つめている。
「そんなことよりも、私……あの女に地獄を見せるいい方法を思いついたの」
オフェリアという邪魔者がいなくなり、アルフレートは手中に落ちた。本来、リュミドラの目的は達成されたと言ってもいい。
だが、エリシュカに与えられた屈辱を晴らさないままで、完全に勝利したと言えるだろうか? ──答えは否だ。
「……その方法とやらを教えて頂いても?」
「もちろん。聞いてちょうだい、あのね──」
まるで幼子のように無邪気に、リュミドラはアルフレートに耳打ちしようとする。アルフレートは身を屈め、その口元に耳を寄せた。
蠱惑的に震える唇が何事かを伝えた後、アルフレートは碧眼に暗い光をそっと宿した。




