第三十四話 定めが二人を分かつ時
──嘘……嘘、嘘!!
エリシュカの瞳が心を裂かれる痛みで揺れる。
そんなエリシュカを尻目に、アルフレートはぐっと右手を握った。その力は明らかに常軌を逸しており、掌からは血が大量に滴るほどであった。
アルフレートの血は床には落ちずに氷柱のように凝固し、短剣の形を作った。よく観察してみれば、先ほどセザールや足を貫いたものと同じ形状である。
──兄様が、みんなを傷付けたの……?
「ひどい……」
不意にアルフレートの動きが止まる。
エリシュカはアルフレートが正気に戻ったことを期待したが、そうではなかった。セザールがアルフレートの足に組み付き、その歩みを阻んでいたのだ。
アルフレートは虫でも見るような目つきでセザールを見下ろし、ゆっくりと膝を付いた。
「……邪魔立てするならお前も死ぬか?」
アルフレートは冷たく宣言し、セザールの頭を鷲掴みにする。頭を握り潰す万力の責め苦に、セザールが身も世もなく叫ぶ。
エリシュカは恐ろしさのあまり、両耳を手で塞いだ。目を瞑って顔を逸らした瞬間、怯懦を詰るように、エリシュカの脳に直接声が吹き込まれる。
──武器を取れ。殺せ。
エリシュカは、はっとして足元を見る。床には黒い短剣が刺さったままだ。
──斗え。敵を殺さなければ、貴様が死ぬ。
エリシュカはびくりと体を震わせた。
死ぬのは駄目だ。死ねば、アルフレートとの約束を破ることになるから。
たとえ兄自身がエリシュカの死を望んでいたとしても──もう、孤独な兄を一人には出来ない。
エリシュカは滲んだ涙を振り切るように短剣に飛び付く。
アルフレートがエリシュカの動きに反応し、セザールから手を離す。即座に短剣を生成してエリシュカに投擲した。
短剣はエリシュカの耳を掠め、背後に飾ってあった花瓶を砕いた。今朝生けられたばかりの白薔薇が無残に散る。
──オフェリアの好きだった花が……!
アルフレートはオフェリアのことなど気にも留めていないのだと、エリシュカは悟る。
薔薇の残骸がはらはらと床に落ちた音がただただ悲しかった。
最早、アルフレートは人と相容れぬ存在に堕ちてしまったことを痛切に感じながら、エリシュカは短剣の柄を握り締める。
その瞬間、白い光がエリシュカの頭の中を埋め尽くした。エリシュカの意識は光の中に溶けていき、ついには完全に混ざり合ったのである。
「──残念だよ、ニイサマァ」
それは、エリシュカであってエリシュカではない。
“エリシュカ”は器用に受け身を取り、片膝をついた姿勢でアルフレートを振り返る。“それ”は順手に掴んだ短剣を空中に投げ、逆手に掴んで構え直すと、高揚したように笑った。
「そうなっちまったらもう殺すしかねェなァ。哀しいなァ!」
“それ”はふらりと立ち上がる。がくんと上半身を低く沈めたかと思うと、アルフレートの視界から消えた。“それ”の立っていた場所には黒い靴だけが残されている。
「死ねェ!」
“それ”は数瞬の間にアルフレートの懐に迫っていた。右手を後ろに引き、左側へ向けて大きく薙ぐ。
だが、アルフレートに動揺はない。
アルフレートは気絶したセザールを離して立ち上がり、再び自身の血で剣を生成する。その右手に現れたのは短剣ではなく、剣幅の広い片手剣だった。
アルフレートは片手剣を無造作に斜に構えると、エリシュカが放った一撃を鍔に近い部分で受け止める。
その瞬間、“エリシュカ”の一閃を受けたアルフレートの剣が僅かに削れ、血が床に滴り落ちた。吸血鬼の血から作られた剣であるが故に、銀には弱いのだろう。
アルフレートは手首を捻り、“エリシュカ”の短剣を剣身と鍔で挟む。
アルフレートはこのまま右方に振り抜き、“エリシュカ”の持つ短剣を弾き飛ばすつもりなのだろうが、その意図に“それ”が気付かぬはずがない。
“エリシュカ”はアルフレートの剣の重みと膂力を利用し、刃を滑らせながら剣先をいなした。その勢いを活かし、まるで踊るように左後方に飛び退る。
アルフレートは逃げられたことを悟り、“エリシュカ”を据わった目で見据えた。
「……見様見真似で出来る動きではない。何者だ、お前は?」
「今から死ぬニイサマが知る必要、あるか?」
「……まぁいい」
アルフレートは妹の下品な口上に眉を顰めたものの、気を取り直して床を蹴って攻勢を仕掛ける。決して上段には構えず、ただ単調に左右に振り抜くばかりの一撃を繰り返す。
「くっ……」
“エリシュカ”はその全てを正確にいなすものの、徐々に押され始めた。
エリシュカとアルフレートでは力量にも体格にも差がありすぎる。吸血鬼の膂力を手に入れたアルフレートの剣戟は、受け流そうとするだけでも左右に腕が振られるほどである。
しかも──アルフレートは手加減をしている。自分の力の限界を“エリシュカ”で試しているようでもあった。
「全く……随分と虚弱な身体じゃねェか! こんなのが私の"使徒"とは……心底嫌になるぜ!」
「そうか。ならば、抵抗などやめて楽になればいい」
アルフレートは単調な攻撃を止め、腰を捻りながら一歩大きく足を踏み出す。圧倒的な力で防御を崩すのではなく、明確な殺意を乗せた鋭い突きが“エリシュカ”の胸を目掛けて繰り出された。
「ちぃ……!」
“エリシュカ”は、ついにアルフレートの一撃を受けることを諦め、大きく後ろに飛び退った。死闘の中、可憐に揺れるスカートの裾はまるで踊りでも踊っているかのようだ。
“エリシュカ”は短剣を半身に構え、捻れた体勢のまま床を蹴りアルフレートと距離を詰める。再度アルフレートの懐へと飛び込み、一撃を与えるつもりなのだ。
「馬鹿の一つ覚えしか能が無いようだな」
アルフレートは冷静に剣を構え、“エリシュカ”の剣戟に備える。今度こそ“妹”の得物を弾き飛ばし、抵抗の術を封じた上でその命を奪うつもりだった。
“エリシュカ”が腕を振り抜く。アルフレートは剣を握る手に力を込めるが、僅かな衝撃すらも指先に感じることはなかった。
「なに……?!」
“エリシュカ”は右手に何も握ってはいなかった。半身に構えた瞬間、密かに左手に持ち替えていたのだ。
アルフレートがそう気付いた時には、“エリシュカ”は順手に構えた短剣を突き出し、アルフレートの腿を刺し貫いていた。更に“それ”はアルフレートの膝に足をかけながら剣身を引き抜く。
アルフレートはその場に膝を付き、痛みに呻いた。その傷は再生せず、だらだらと血を流している。
「傷が……灼ける! これは──この痛みは……!」
「聖別された銀の味は初めてか? よォく噛み締めろ。自分の存在の罪深さを悔いながら、神に頭を垂れて死にやがれ!」
“エリシュカ”は手遊びでもするように柄を回して逆手に握る。アルフレートにとどめを刺すべく一歩踏み出した時、不意に噴き出した殺気に気付いて廊下側を見る。
そこには倒れた使用人たちの姿があるだけで、他に誰の姿もない。“エリシュカ”は一瞬でそう判断したが、そうではなかった。
ウェディングドレスを着た女──リュミドラが天井に立っていた。
リュミドラは怪我を負ったアルフレートを青ざめた目で見つめ、髪の毛を振り乱して“エリシュカ”に襲い掛かったのである。
「よくも私の男を!」
リュミドラの動きは早いものの、怒りに任せた直線的な動きを見切るのは難しいことではなかった。
“エリシュカ”は意識を短剣に集中させる。手にほんのりと熱が点り、剣身にわずかに白銀の光が帯び始める。
「……はァ? お前の男だ?」
“エリシュカ”は身を躱しざま、リュミドラの顔を斬り付ける。
「……えっ?」
風が頬を撫でたのかと錯覚するほど、軽く鋭い一閃であった。だが、“エリシュカ”の得物はリュミドラの頬に深い裂傷を刻み付け、大量の血液がリュミドラの白い首を伝ったのである。
「い……いや──! いや! 私の顔が──痛い!! 熱い!!」
美貌を損なうほどの傷を負わされた事に気付いて、リュミドラは悲鳴を上げた。半狂乱になって顔を覆い、ふらふらとよろめく。
「それならちょうど良かった。二人まとめて殺してやるよ、この阿婆擦れが!」
“エリシュカ”は一歩踏み出し──受け身も取れずに床に倒れ伏した。立ち上がろうと藻掻くが、全ての感覚が凍り付いたように遠く、指先一つ満足に動かせそうにない。
「な、何で……どうして動かないの……?」
エリシュカの目頭に悔し涙が流れた。それまで纏っていた荒々しい雰囲気は既になく、一人の貴族令嬢らしい、上品な言葉遣いを取り戻している。
「動いて……動いてよ……動け……! 何で動かないのよ……! ねぇ、まだいるんでしょ……?」
エリシュカの悲痛な訴えに、いらえはない。ただ、女の狂気じみた悲鳴が木霊し、それがやけに耳に障った。
「私はこのまま死んだっていいから! 動いて! 私にあの女を殺させてよ!」
「ふざけるな……! 死ぬのはお前よ!」
リュミドラが再びエリシュカに襲い掛かった。
──銃声、一発。
廊下から撃たれた銃弾はリュミドラの左腕を射抜き、エリシュカの自室の窓を砕いた。
リュミドラはその場に踏みとどまることが出来ずに倒れる。業火で中を焼かれる感覚に泣き喚いた。
リュミドラの自慢は美貌だけでない。珠のように艶のある肌もアルフレートのためにあるのだ。それを穢されたリュミドラの絶望は深く、同時に瞋恚の炎を激しく燃やした。
「銀……銀の銃弾……! まさか、ここに吸血鬼狩りがいるの?!」
リュミドラは銃弾の撃たれた方向──硝煙の帷を凝視する。そこには、右手に銃を構えた包帯だらけの吸血鬼狩り──ヴィタリーの姿があった。
彼は痛々しく左腕を吊り、一発発砲しただけでふらふらと壁に凭れかかった。明らかに高熱に浮かされている。援軍というには余りにも心許ない。
しかし、リュミドラは戦闘ではなく、撤退を選んだ。
リュミドラは手負いのアルフレートを抱き抱えると、割れた窓を更に破って夜の闇の中に消えていった。
「に……兄、様……」
行かないで、と呟いた声は、吐息とともに掻き消える。
それが、エリシュカの最後の記憶であった。




