第三十三話 崩れ去る砂上の楼閣
時はわずかに遡る。
ここ数日、めっきり食が細くなっていたエリシュカは、今日も夕食を早めに切り上げ、早々に自室に下がった。
食欲がないのは一人での食事が味気ないせいもある。兄はここ数日自室か書斎で食事を済ませているようだし、使用人が雇用主と食卓を囲むなどあり得ない事だ。
侍女のネリーが、荷支度のために席を外していた事も大きかった。エリシュカは吸血鬼から身を隠すため、明日の朝一番に首都へと行かねばならず、ネリーはその準備を買って出てくれていた。
「ネリー、入るわね。荷造りの準備は進んで……る……?」
扉越しに声を掛けてから部屋に入ると、部屋の中央には大小様々な旅行鞄に物を詰め込んでいるネリーの姿があった。エリシュカがざっと数えただけでも、荷物は五つを優に超えている。
「まぁ、お嬢様! ちゃんとお夕食は召し上がられたのですか?」
エリシュカが食事の時間を終えて帰ってくるまでの時間がかなり早かったためか、ネリーは驚いたように振り返る。
エリシュカは旅行鞄とネリーを見比べ、途方に暮れたように立ち尽くした。
「こ、こんなにたくさんの荷物を持っていかないといけないの……? 少し減らしたほうが──」
「なりません! いつまで避難する羽目になるのか分からないのですから、最低限このくらいのお荷物はお持ち頂かないと!」
エリシュカはちらりと荷造り途中の旅行鞄の中身を見る。
中身は用途によって几帳面に分けられているようで、喪服一式が数点、貴重品、身だしなみを整える道具や化粧品などが整然と収まっていた。
確かにどれもこれも人間らしい生活を営むために必要なものではある。たとえ不遇の中にあってもエリシュカには不便をかけたくないという、ネリーの優しさが垣間見えて有り難くもあった。
しかし、この大荷物で吸血鬼から逃げ切ることは難しいだろう。
エリシュカが自分でこれらを運ぶ訳では無いが、荷重が重ければ馬車は速度が落ちるし、随行達の動きを阻害するかも知れないのだ。
「……もし、道中に吸血鬼が襲ってきたら、荷物を捨てて逃げなくてはいけないわ。ネリーの気遣いはとても嬉しいのだけれど……現地で揃えられそうなものは置いて行きましょう?」
その刹那、束の間の穏やかな時間を、重低音の破砕音が引き裂く。敷地内の樹に稲妻が走ったような轟音に、二人は短く悲鳴を上げて抱き合った。
「驚いた……何なの、今の──」
時を置かず、二度目の大音響がヴィスコル城内を駆け抜けていった。沈黙の間隙を縫って聞こえてきた音に、エリシュカは聞き覚えがあった。
別棟の兵舎にいる兄を訪ねた際、訓練場で度々射撃の訓練をしていたからよく覚えている。これは──銃声だ。
「ネリー、今のどこから聞こえてきたか分かる?!」
急に話題を振られたネリーは顔を引き攣らせ、何度も首を横に振った。
エリシュカは耳を澄ませて三度目の発砲を待ち構えたが、予想に反して夜はあっという間に静寂を取り戻した。
反響音から争いの場所を特定する術は失われたが、そもそもエリシュカには難しく考える必要は無いのだ。
現在、最も吸血鬼の脅威に晒されているのはカタルジュ家の人間なのだ。エリシュカがこうして無事である以上、襲われているのはアルフレートしかあり得ない。
「どうしよう、ネリー! 兄様が……! 兄様が危ない……!」
「お嬢様! どうか落ち着いてくださいまし!」
あからさまに狼狽え始めたエリシュカを、ネリーが抱き締めて宥め始めた。
ネリーは長年侍女として仕えていたため、拘束しなければエリシュカはすぐに現場に飛び出していってしまうと知っていたのだ。
「きっと旦那様はご無事ですから! それよりも、お嬢様、護身用の短剣は肌身離さずお持ちですか?」
エリシュカは震える手で机の上を指差す。
いくら兄から譲り受けたとはいえ、武器を持ち歩くのは怖い。それはエリシュカを守る道具ではあったが、同時に無差別に人を傷付ける凶器でもあるのだ。
不意に、慌ただしく廊下を走る音が聞こえてきた。靴音からして男性のもの──それも複数人がエリシュカの部屋に近付いて来ている。
エリシュカは楽観的に兄がここまで逃げて来たのだと思った。それで、恐怖に歪んでいた面差しに、一瞬だけ安堵の笑みが差し込む。
だが、ネリーは机の上に放置されていた剣を取りに向かう。鞘から抜くのに難儀しながらも、鈍い輝きを放つ黒い短剣を扉に向けてエリシュカを庇うように立ちはだかった。
「ネリー……!?」
ネリーの呼吸は浅く、早い。今も歯の根が合わずかちかちと音を立てているというのに、何故エリシュカを守ろうとしてくれるのだろう。
ネリーだけではない。他のカタルジュ家の使用人たちや修道院長、首都の吸血鬼狩りまでもがエリシュカたちを生かそうとしている。傷付きながらも戦ってくれている。
それが涙が出るほど嬉しく、彼女たちの献身に何も返せないことをすまないと思った。
「お嬢様! お部屋にいらっしゃいますか?!」
「セザール様! いらっしゃいます! ご無事です!」
扉越しに聞こえてきたのはセザールの声で、ネリーは涙声になりながら武器を下ろした。
「ご無礼を!」
セザールは返答も聞かずにエリシュカの部屋の扉を開け、部屋の中央で震えるエリシュカたちの手を掴む。
「此方へ! 隠し通路からお逃げください!」
「ま、まって……兄様は──」
「お急ぎください!」
エリシュカは兄の安否を聞こうとしたが、セザールは敢えて聞こえないふりで質問を黙殺する。
その迫力に圧倒されてエリシュカは言葉を飲み込む。理解も納得も許されないのに、セザールの言葉に頷かねば死ぬという確信だけがそこにはあった。
だが、セザールが二人を連れて部屋を出ようとした時、まるで脱出を阻むようにオクタヴィアンの身体が倒れ込んできたのである。
白髪は赤く斑に染まり、左腕はあらぬ方向に折れてしまっている。その顔は苦痛に歪み、脂汗が噴き出していた。
「オクタヴィアン様!」
「ならん……! 逃げろ……セザール……!」
セザールはオクタヴィアンを助け起こすつもりだったのだろう。だが、オクタヴィアンは老人とは思えない勁い瞳でその甘さを咎める。
セザールは逡巡したものの、悔しそうに歯噛みしてオクタヴィアンに背を向けて走り出す。
エリシュカはオクタヴィアンを振り返り手を伸ばしたが、オクタヴィアンは既に意識を失っていた。
「──逃がさん」
空気を裂くような鋭い音がセザールを射貫く。同時に、セザールの身体が床に沈んだ。
「セザール!」
命はあるようだが、セザールは足を押さえて呻くばかりで、到底動けそうにない。
エリシュカが彼の身体を検分すると、脹ら脛に血のように赤い短剣が突き刺さっていた。──否、赤いだけではない。それは剣身から柄頭に至るまで、血そのもののように見えた。
「エリシュカ様! 危ない!」
ネリーがエリシュカの身体を抱え、エリシュカの部屋の方向に倒れ込んだ。その拍子に短剣がネリーの手を離れ、床に刺さった。
咄嗟のことでエリシュカは受け身を取り損ねたものの、ネリーが頭を庇ってくれたため大事はない。
エリシュカは何とか身体を起こして、四肢の具合を確認する。痛みはあるが走れないわけではなさそうだ。
──だが。
「……ネリー?! 怪我をしたの?!」
ネリーは床に倒れたまま肩を押さえて蹲っている。その背中には短剣が掠めたのか薄っすら赤い線が走っており、とてもではないが逃げられる状態ではない。
「──エリシュカ」
冷たい男の声に、エリシュカは恐る恐る顔を上げた。
廊下にはエリシュカの唯一の家族、アルフレートが立っていた。何があっても死ぬなと──生き延びてくれと言ってくれた最愛の兄だ。
だが、そんな彼が何故エリシュカを仇敵でも見るような目で睨んでいるのだろう。
何故、傷付いたオクタヴィアンたちを無視しているのだろう。彼らの傷は深い。今すぐにでも怪我の手当をしなければならないのに。
「──悪く思うな。今すぐに死んでくれ」
その言葉を聞いた瞬間、エリシュカの視界はぐにゃりと歪み、地面が波打つような感覚に襲われた。まるで、高熱を出した時に見る悪い夢の様だった。




