第二十九話 太陽と老樹
ヴィスコル城を囲む森を抜け、正門へと向かう一本道を、四頭立ての馬車は疾走する。
馭者は額に汗を浮かべながら馬に鞭を打つ。乗り込んでいる人間の乗り心地など度外視だ。その無礼を許したのは他でもない──エリシュカである。
辺境伯当主を吸血鬼が襲撃するかもしれない──そんな危急の事態を前にして、自らの安全を考慮する余地などない。
エリシュカはマチルダと互いにしがみつくようにして、暴走する馬車の揺れに耐えていた。
慣れ親しんだ道といえども、車輪が石を食むたびに車体が上下するのは恐ろしい。車輪が外れてしまえば馬車を捨てて歩かなければならず、横転の危険性もある。
──早く城に着いて……お願い。
しかし焦る心はエリシュカの心を蝕み、今では祈る心よりも懸念の方が僅かに勝っている。城に着いたところで──次の狙いがカタルジュ家だと報告したところで、果たしてこの事態は好転するだろうか。
そもそも、アルフレートは朝からその行方が知れず、いつ帰って来るとも知れないのだ。
──もし、お戻りにならなかったら……?
不意に、エリシュカの喉元まで嫌な吐き気が込み上げてきた。エリシュカは慌てて口元を押さえて何とか飲み込む。
──大丈夫、大丈夫よ。兄様はお戻りになるわ。絶対に、私を一人にしたりしない。
エリシュカは目を閉じ、心の中で執拗に自分に言い聞かせる。
──そうして、どれほどの間、『大丈夫』を繰り返しただろうか。
気付けば馬車は既に停止していた。車体の遥か上空からは黒唄鳥の長閑な声も聞こえてくる。
「──お嬢様、お城に到着致しました」
マチルダがエリシュカの肩を揺さぶる。
エリシュカが目を開けると、マチルダの心配そうな顔がすぐ近くにあった。普段は鉄の如き強さを帯びた紫紺色の瞳が、不安そうに揺れている。
「お加減が優れませんか? 少しお休みになりますか?」
エリシュカはゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫……こんな事で倒れたりしないから」
エリシュカは気丈に答え、馭者の介添えで石畳の馬車回しに降り立つ。まだ、頭がふわふわとしていた。エリシュカは恐る恐る一歩足を踏み出すが、酩酊した人間の様な千鳥足である。
──悪酔いするってこんな感じかしら。
この場にエリシュカの醜態を笑う人間はいない。それでも、エリシュカは生涯に渡る禁酒を密かに心に誓っていた。
「おや」
不意に、扉の方から柔らかな声が聞こえた。見ると、オクタヴィアンが城の中から出てくる所であった。どうやら馭者の先触れを聞き、出迎えに来てくれたらしい。
オクタヴィアンはエリシュカの姿を認めると、目元に深い皺を刻みながら、恭しく頭を垂れる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お早いお戻りで老骨めを安心させて下さり、ありがとう存じます」
エリシュカは老爺の笑顔を見て、この帰還は間違っていなかったことを確信する。その瞬間、極度の緊張と恐れがじんわりと解けていった。
帰る場所があり、待っていてくれる人がいるということは、こんなにも人の心を強くするのだ。
だが、束の間の平和に浸る暇は、今はどこにもない。エリシュカは少し足をもつれさせながらもオクタヴィアンに駆け寄り、その両の腕を取る。
「兄様は……?! もうお戻りになった?!」
オクタヴィアンはエリシュカの鬼気迫る様子に何かを感じたのだろう。孫を見つめる好々爺のような顔付きから一転、完璧主義の家令の顔に即座に戻った。
「旦那様はまだお戻りにはなっておりません。何やらただならぬご様子ですが、是非修道院でのご様子をお聞かせ頂けますか?」
エリシュカは、濃褐色の瞳に不穏な影を落とす。アルフレートの不在に、失望を隠せなかった。
■□■
ヴィスコル城の玄関ホールには、訪問客がぱっと見ただけではそれと分からない小部屋がいくつか存在する。
訪問客の使用人や馭者が待機する待合室や、客間女中の待機所などがそれに当たる。その小部屋の一つに、家令の執務室が存在した。
階段の影に隠された通路を抜けると、簡素な書斎机とぎっしりと資料が詰まった本棚がエリシュカ達を出迎える。広さこそエリシュカの部屋より一回り小さいものの、ヴィスコル城の第二の中枢と言っても差し支えない場所である。
「手狭で申し訳ございません。一人で過ごすには十分すぎる広さなのですが。どうぞおかけください」
オクタヴィアンは謙遜しながら書斎椅子を引き、エリシュカに着座を勧めた。
エリシュカがその椅子に腰掛け、その傍らにマチルダが立つ。
「それでは……お話をお聞かせください。お嬢様は女子修道院で何をお知りになったのです?」
オクタヴィアンは書斎机を挟んで真向かいに立ち、改めて背筋を伸ばした。
「吸血鬼狩りの方から、少しだけお話を伺うことが出来たの。女吸血鬼が、私と兄様の命を狙っているそうよ」
「な……何ですと……!」
オクタヴィアンは目を見開き、マチルダを見る。
マチルダが神妙な顔つきで頷き返したため、オクタヴィアンはじりじりと滲み始めた汗を手巾で拭った。
「今、世間を騒がせている連続拉致事件と関係はありますか? あれも吸血鬼の仕業と報じられていましたが」
「ごめんなさい、その辺りは分からないわ。色々と聞き出す前に彼は気絶してしまったから」
エリシュカは不甲斐なさに眉を寄せる。
「でも……私はカタルジュを狙っている吸血鬼と連続拉致事件は関係ないと思うわ」
「ふむ。……失礼ですが、お嬢様は何故そう思われたのですかな?」
「だって、被害に遭っているのは美しい女性ばかりなのでしょう? 私は違うし、兄様は美しいけれど、そもそも性別が違うわ」
エリシュカが正直にそう告げると、オクタヴィアンは不思議そうに首を傾げた。その様子に、マチルダが額を押さえてため息を吐く。
「口さがない令嬢の陰口を真に受けるのはおやめくださいと何度も申し上げましたでしょう……!」
あのアルフレートの妹であるというだけで、エリシュカはことあるごとに注目され、そして比較されてきた。中でも、年頃の令嬢たちの悪意は凄まじいものがあった。
『最近、御髪の色がいよいよ老樹のような風格を備え始めたのではなくて? 良い樵をご紹介致しましょうか?』
『まぁ、地味な見た目にますます磨きを掛けましたのね。妹というだけで無条件に太陽に愛されて、本当に羨ましい限りですわ』
『私なら、その見た目で彼の隣に立つなんて恥じ入るばかりですもの。流石、図々しく根を張っていらっしゃるだけの事はありますわね』
今から思えば、激しい悪意を叩き付けて来たのは皆派閥や身分差からアルフレートと関わる事が難しい令嬢ばかりだった気がする。
添い遂げられぬ相手ならば、せめて妹の様に可愛がられたいと願っても、その立場は既にエリシュカが独占していた。せめて兄と同じくらい美しければ彼女達も諦めがついていただろうか。救われていたのだろうか。彼女達も、エリシュカも──
エリシュカは沸々と湧き上がる悲憤を抑え込むように、自らの腕をきつく握り締める。
「……じゃあ、マチルダは吸血鬼に拉致されている事件とヴィタリーさんのいう女吸血鬼は繋がっていると思うの?」
はい、とマチルダの答えには淀みも迷いもなかった。
「そうでなければ、首都の吸血鬼狩りがここまでわざわざやって来る理由がありません」
マチルダがそう返答した瞬間、部屋の外から歓声とも悲鳴ともつかぬ声が複数上がった。
息吐く間もなく、ばたばたとどこかへと走っていく靴音と、何かを指示する声が入り乱れる。何事かと三人が顔を見合わせた時、執務室の扉が力強く叩かれた。
「オクタヴィアン様、いらっしゃいますか?」
セザールの声だ。その声は冷静さを保とうとしている反面、剃刀のような鋭さがあった。
「何事かね、セザール」
「たった今、アルフレート様がお戻りに──」
わずかな安堵と強い困惑──扉の向こうのただならぬ事態を感じ取り、エリシュカは椅子から立ち上がる。マチルダとオクタヴィアンの二人を残し、一早く部屋の外へと転がり出たのだった。




