第二十八話 あの女が来る
エリシュカの呼び掛けでヴィタリーの抵抗が止む。抵抗の気力が萎えたというよりは、急に現れた貴人に驚いているようであった。
「……あんた……いや……あなた、は?」
ヴィタリーは目を見開いたままエリシュカを見つめた。ルプの名に恥じぬ琥珀色の瞳孔は、高熱に浮かされているせいか、どこか危うげに揺らいでいる。
エリシュカはヴィタリーを安心させるように、努めて人好きのする笑顔を浮かべてみせた。
「私はエリシュカ・カタルジュと──」
エリシュカが言い終わるより前に、ヴィタリーは渾身の力で馭者の拘束を振り切り、突き飛ばした。
馭者の身体は投げ出され、呆気なく寝台の下に落下した。その際、強か腰を打ったのか、呻き声を上げたきり起き上がれない様だ。
暴力を目の当たりにした修道女達が、ついに悲鳴を上げながらヴィタリーから離れた。恐怖に支配された彼女達には倒れた馭者に手を差し伸べる余裕はない。
その場に残された馭者を助け起こすために駆け寄ったのは、意外にもマチルダだった。
尤も、馭者を心の底から心配しているというより、帰りの馬車を走らせる人間がいなくなることを気にしているようだ。マチルダには無事にエリシュカを城へ帰すという義務があるため、当然と言えば当然である。
二人の様子に気を取られ、エリシュカはヴィタリーから目を離してしまった。
その一瞬の隙をつかれ、ヴィタリーがエリシュカの手首を掴む。
「あっ……!」
身の内に炎を飼っている様な熱さだった。そのまま力任せに締め上げられて、エリシュカの華奢な手首が悲鳴を上げる。骨まで灼かれるような痛みが、腕を通り越して肩まで走り抜けた。
マチルダと院長が悲痛な声を上げ、ヴィタリーからエリシュカを引き剥がそうと腕に取り付く。だが──
「……カタルジュ……?」
皆の予想に反してヴィタリーはそれ以上エリシュカに危害を加えることはなかった。
ヴィタリーはカタルジュの名を反芻するように口遊むと、片方の頬を歪めて笑う。この男はかなりの強面な上に怪我で衰弱しているのも手伝って、笑うと何とも言えない迫力があった。
「ハハ……ッ! 俺はツイ、てる……辿り着いた……っ! カタルジュ……辺境、伯の……領地に……!」
一頻り引き攣れたような笑い声を上げた後、ヴィタリーは苦しそうに咳き込む。それでも、エリシュカの手を離そうとはせず、尚も必死の形相でエリシュカに縋り付く。
エリシュカを守ろうとする者はいなかった。最早この頃には、エリシュカを含めた全員が狂人の振る舞いに度肝を抜かれ、指先一つ動かす事が出来なかった。だが──
「……カタルジュ、様……! お……お逃げ、くだ、さい……!」
それは誰もが思いもよらぬ言葉だった。ヴィタリーは外見からは想像も出来ない程丁寧な言葉遣いで、エリシュカに哀願している。
「……やつが……あの女が、来る」
「あの、女……? 誰のこと……?」
「あの女……吸血鬼の……次の狙いは、カタルジュ様……! あなたがただ……!」
どくんと、エリシュカの胸が大きく跳ねる。
カタルジュが吸血鬼に狙われているというのはどういうことだろう。
各地で吸血鬼たちに娘たちが拐かされている事件と関連があるのだろうか。狙われているのは美しい娘ばかりだと聞いたが、ヴィタリーは今「あなたがた」と言わなかったか。
「……兄が……狙われているの?」
はい、とヴィタリーは苦しそうに頷く。
「あなた、も……首都……協会、へ…… 逃げ……く……ださ…………」
ぐらり、とヴィタリーの頭が微かに揺れる。その顔は真っ青だ。絶対安静の言いつけを破った反動がここに来て出たのかもしれない。
ヴィタリーの手がエリシュカの手首から滑り落ちた瞬間、エリシュカはヴィタリーの胸倉を掴み、渾身の力で揺さぶった。
ヴィタリーは何か重大な情報をエリシュカに──カタルジュに齎そうとしている。そのために辺境を目指したのだ。
エリシュカは必死だった。このまま気絶などさせてなるものか。
「その吸血鬼の特徴は?! どうしてカタルジュを狙うの?! 知っていることを全部教えて!」
「────」
しかし、ヴィタリーはエリシュカの声に応えることなく、その身体は寝台に沈む。そして、それきり彼は沈黙してしまった。
院長が慌てて男の容体を確認すると、力無く首を振った。
「──息は、あります。ですが、また意識を失ってしまったようですね。これ以上はもう……」
「そんな……」
エリシュカは膝から床に崩れ、呆然とヴィタリーの寝顔を見つめることしか出来なかった。
暗澹とする世界にようやく一条の光が差したと思った瞬間に、暗闇に引き戻された。差し出された希望が大きかった分だけ、絶望は宵闇よりも一段深い。
だが、エリシュカの胸に去来したのは哀しみではない。兄や領民に対する申し訳なさ、至らない自分に対する憤ろしさだった。
細い糸のように繋がった縁はエリシュカの手中に収まることなくすり抜けてしまった。もしこのまま断ち切れてしまったら、エリシュカは兄や領民たちにどう詫びればいいのだろう。
「カタルジュ様……」
院長はエリシュカの傍らに跪き、肩を抱く。優しく抱き寄せられた瞬間、きゅっと胸を締め付けられるような苦しさと切なさがあった。
「今日はこのままこちらにご逗留くださいませ。この聖域が貴女様をお守りくださるはずです。……狙われていると知りながら送り出すわけには参りません」
その誘いはひどく魅力的だった。だが、エリシュカはオクタヴィアンと交わした約束をひっそりと思い出す。
──そんな心配をしなくても、今日中に皆のもとに戻ると約束するわ。……だから、おかえりと言って迎えてくれる?
例え約束を反故にしたとしても、オクタヴィアンはエリシュカを責めないだろう。それでも、あのオクタヴィアンの笑顔を裏切ることは、絶対に出来ないと思った。
「だめ……一人だけのうのうと逃げるなんて、出来ない。約束したの……戻るって。城に、おかえりと言って迎えてくれる人がいるの」
それに、とエリシュカは震える声で続ける。
「兄には吸血鬼に狙われていることを知らせないといけないわ」
吸血鬼がエリシュカを──アルフレートを狙っている。この情報だけはヴィスコル城に持ち帰らなければならない。兄の命を守れるのは今、エリシュカしかいないのだ。
マチルダが覚悟を決めたようにエリシュカに手を差し出す。エリシュカはその手を取り、立ち上がった。
「戻りましょう、お嬢様。……必ず、旦那様と共に避難して……生き延びましょうね」




