第二十七話 荒ぶる手負いの戦士
手負いの吸血鬼狩りが錯乱し、拘束を要する状態に陥っている──その情報に、エリシュカ、マチルダ、院長はそれぞれ大きく反応を示した。
エリシュカとマチルダは馭者が巻き込まれたことを知り、最悪の結末を想像して身を竦ませる。
院長は信じがたいという目でベアトリスを見つめ、長椅子から立ち上がった。
「まさか! あの高熱と失血で動けるはずがないでしょう!」
「とんでもない! 三人がかりで止めるのがやっとです! 長くは抑えきれません!」
「なんてこと……! ベアトリス、貴女は人手を集めてきて。私も加勢いたします」
頭を下げて出ていくベアトリスだったが、その時、左足を庇うように引きずるのをエリシュカは見逃さなかった。
「申し訳ございません、お二方。すぐに馭者の方をこちらにお連れいたします。ご足労頂いておきながら大変恐縮ではございますが、事情が事情ですので、本日はこれにてお引き取り願えますか」
「え、ええ……でも──」
「大変申し訳ございませんでした」
院長は深く頭を下げると、足早に応接室から出ていった。
部屋に取り残されたエリシュカは、ちらりと隣のマチルダの顔色を窺う。マチルダはひどく冷たい目で院長が消えた白い扉を見つめていた。
「女性だけで収拾がつくかしら。相手は吸血鬼狩り──それこそ軍人並みに身体を鍛えた方でしょう」
「あちらはそれも覚悟の上で保護したのでしょうから、私たちが気にすることではございませんわ」
マチルダはまるで他人事のように冷たく言う。院長からは既に謝罪を受けたとは言え、良心を疑われた事が棘のように引っかかっているのだろう。
──気持ちは分かるけれど……放っておくのはあんまりだわ。誰かが怪我をするかもしれないのに。
エリシュカがやんわりとマチルダを咎めようとした瞬間、陶器が割れる音が二人の耳を劈いた。
遅れて聞こえてきたのは修道女たちの悲鳴だ。それは応接室の右隣の部屋から聞こえてきた。
居ても立ってもいられず、エリシュカは立ち上がる。
「やっぱり、私たちも行きましょう、マチルダ」
「お嬢様、なりません。危険すぎます!」
「馭者が大怪我をする前に止めなくてはいけないでしょう? 彼が怪我をして馬車を扱えなくなったら、私達は城に帰れなくなるのよ?」
──馭者には悪いが、そういうことにしておいてもらおう。
エリシュカが応接室を出ると、既に隣室の扉の前には数名の修道女たちが屯していた。
大方、彼女たちも先ほどの悲鳴を聞きつけて様子を見に来たのだろう。だが、中の様子を確かめる勇気がなく入室を躊躇っている様に見えた。
「通してちょうだい! 中を確認します!」
エリシュカは身を寄せ合う修道女たちを掻き分けるようにして扉の前へと進む。やがて現れたのは応接室と同じ造作の白い扉であった。
エリシュカは息を整え、扉をゆっくりと叩いた。
「……院長様? 大丈夫ですか?」
しばらく待ったが、部屋の中から返答はない。この間に、マチルダがエリシュカの背後へと迫ってきていた。
「……失礼します!」
エリシュカは、はしたないと思いつつも扉を思い切り開けた。その途端、消毒液の鼻につくにおいが部屋の中から押し寄せてくる。
部屋の中は、惨憺たる様相であった。
まず、エリシュカの目に飛び込んできたのは、床に散乱する水差しや花瓶の破片だった。恐らく、ヴィタリーが暴れた際に落ちてしまったのだろう。衝撃で少しへこんだ箇所を中心に大きな水たまりが広がっている。
他にも、交換したばかりと思しき汚れた包帯やガーゼと膿盆、更には新しい包帯や薬瓶までもが、見事にぶちまけられていた。
「か、カタルジュ様?! 何故こちらに……?!」
その奥では、院長を始め、修道女たちが数人がかりで怪我人に組み付いている所だった。ヴィタリーを除けば、唯一の男性である馭者はヴィタリーの両手首を掴み、馬乗りになって取り押さえている。
馭者が屈強な吸血鬼狩りを曲がりなりにも押さえ込む事が出来たのは僥倖である。
だが、それも長くは持たないだろう。現に、寝台は彼らの重みに耐えきれないようで、みしみしと嫌な音を立てている。
「はな、せ……! 俺……には、果たすべき……任務が……行かねば……ならんのだ……!」
その声が酷く嗄れていたので、エリシュカは最初、ヴィタリーを老人かと思った。長い茶金色の髪が顔にへばりついており、容貌がよく分からなかったせいもある。
だが、よく思い返してみれば、ヴィタリーは半日以上病床で朦朧としており、ほぼ絶食状態だったはずだ。つまり、老いているのではなく、失血や重い脱水状態のせいで喉の筋肉が弱りきっているのだ、とエリシュカは漸く気付いた。
「ですから、無茶ですって! あんた、医者から絶対安静を言いつけられているんでしょう?!」
馭者が歯を食いしばり、天井を仰ぐようにして男を拘束する両腕に更に体重を乗せた。
馭者は決して非力ではない。だが、ヴィタリーが抵抗して身を捩ると、その身体は不安定に揺れる。
「ちょっ……落ち着け! 傷がっ、開くって!」
馭者の声は端々に怒りが混じっていたが、その言葉はヴィタリーを心配するもので溢れている。
そこで初めて、エリシュカは緊張で詰めていた息を吐いた。
「……よかった、争っているわけじゃないのね」
ヴィタリーは修道女たちに危害を加えようとして暴れているのではない。自分の状態を認識出来ずに任務に戻ろうとする彼を、修道女たちが必死で制止しようとしているだけだ。
だからと言って、彼らをこのままにしておくわけにもいかない。
「お嬢様、近付かないで! 何かあっても私では守りきれません!」
背後からマチルダの制止の声が掛かったが、エリシュカは敢えて無視した。震えそうになる手を握り締め、散乱したものや水溜りを踏まないよう注意を払う。
何よりもヴィタリーを驚かせないよう、靴音一つに神経を尖らせながら足を運んだ。
「お、お嬢様……! それ以上近付いてはなりません……!」
馭者がエリシュカの接近に気付き、顔を歪めながら忠告する。しかし、彼も限界が近いのか、ヴィタリーを押さえつける手がぶるぶると震えているのが見て取れた。
エリシュカは首を振る。緊張の面持ちを飾らない微笑みで覆い隠し、ヴィタリーの武骨な拳をそっと握った。
「もうおやめなさい。今の貴方には休息が必要です。使命があるのなら、尚更、命を使い潰すような真似をしてはなりません」




