第二十五話 乙女微笑む不可侵の聖域
ベアトリスに促され拝廊へと進んだエリシュカたちを待ち受けていたのは、恐ろしく高い竜骨型の天井と、そこに描かれた天国を模したとされる精緻な宗教画である。
砕いた瑠璃を塗り込めた鮮やかな青には無数の綺羅星が散りばめられており、その清冽さがエリシュカの胸を打った。
「いつ見ても素晴らしいわね……」
「ふふ、ありがとうございます」
ベアトリスはふんわりと微笑むだけで、至高の美を一瞥すらしない。寧ろ、院長の言いつけを実直に果たすべく、早速拝廊の隅に備え付けられた質素な扉へと向かった。
扉を開けると、中庭とそれに面した回廊が一行を迎える。中庭の植え込みには様々な薬草が茂っており、修道女たちが一つ一つ丁寧に摘んで、籠に仕舞っているところであった。
「緋衣草に蓬……あちらは迷迭香かしら?」
エリシュカは歩みを止めずに半歩後ろを歩くマチルダに問いかける。
「ええ。血止めや魔除けのポプリを作るために薬草を収穫しているようですね。村人に差し上げるものでしょうか」
マチルダの答えにベアトリスは驚いたように振り返り、目をぱちくりと瞬かせた。
「その通りでございます。流石は博識でいらっしゃる。私たちに出来ることなどたかが知れていますが、村人たちの不安が少しでも和らぐようにと、心を込めて作っております」
まぁ、とエリシュカは少しだけ明るい声を上げた。
「ありがとうございます。村人たちに代わって、皆様のお心遣いに感謝申し上げます」
その時、修道女たちの屈託のない笑い声がエリシュカの耳を擽った。
その様子は吸血鬼の被害に怯える農民たちとはあまりにも違っていて、エリシュカは何とも言えない表情を浮かべる。
不可侵の聖域に身を置くが故の余裕が羨ましくもあり、漸く見ることの出来た領民の笑顔に救われたような気分でもあった。
「過分なお言葉を頂き、恐縮でございます。──あぁ、こちらが応接室でございます」
ベアトリスは白い木製の扉の前で立ち止まり、軽く叩いて訪問を告げる。
誰何の声にベアトリスがカタルジュの名を告げると、「お入りください」という上品な女性の声が返ってきた。
その声を聞き、ベアトリスがそっと扉を開ける。
応接室は聖堂に比べると随分と質素で、欅のテーブルと長椅子が二脚設えられている他には、一輪挿しに白い薔薇がすっきりと生けられているだけだ。
その傍らでは修道帽を被った修道院長が深々と頭を下げてエリシュカたちを出迎えていた。
院長はゆっくりと頭を上げ、目元に福々しい皺を刻む。
エリシュカはこの年長の聖職者に敬意を示すために、ドレスの裾を軽く持ち上げ、僅かに腰を落とした。
「この度はあたたかいご支援を賜り、カタルジュ様には心より感謝申し上げます。また……喪中の時期にも関わらず、こうして我が修道院をお訪ねくださり重ねて御礼申し上げます」
「とんでもないことでございます。お役に立てれば幸いです」
院長とエリシュカが挨拶を交わすのを確認し、ベアトリスが口を開いた。
「私は怪我人の手当のために下がらせて頂きます。ごゆっくりどうぞ。何かあればいつでもお呼びくださいませ」
エリシュカが荷を抱えた馭者に目配せすると、彼はエリシュカに丁寧に頭を下げ、ベアトリスと共に部屋を出た。
真面目で気の利く馭者のことだ、何かあれば細々とベアトリスに手を貸してくれることだろう。
二人を見送った後、改めてエリシュカは院長を真っ直ぐに見つめた。
「昨夜手負いの吸血鬼狩りをこちらで保護して下さったとお聞きしました。改めてそのお慈悲に感謝致します。その時の状況やその方の具合について詳細を伺ってもよろしいですか?」
「もちろんでございます。どうぞ、おかけになってくださいまし。お付きの方もどうぞ」
「ありがとう存じます」
院長の配慮にマチルダは礼を言うとエリシュカと共に長椅子に腰を下ろした。
院長もまた、二人の向かいの椅子に腰を下ろすと、会話の糸口を探すように目を伏せ、膝の上で手を組む。
「吸血鬼狩りの方を保護したのは、昨夜、晩堂課が終わった頃のことです。彼は先程の修道女──ベアトリスの姿を認めた瞬間、言葉を発することなく失神した……と聞き及んでおります」
その際、血塗れの男はベアトリスに覆い被さるように倒れたため、彼女は金切り声を上げた。
下敷きとなったベアトリスは男を押しのけようと奮闘したが、意識のない人間は想像以上に重く、全く身動きが取れなくなってしまったらしい。
だが、彼女の悲鳴を聞き付けた修道女が数名聖堂へと引き返して来たため大事には至らず、無事助け出されたと修道院長は語った。
エリシュカは驚き、思わず彼女が去った扉の方を見る。ベアトリスは可憐な花のように咲き誇り、振る舞いには不審な所など何一つ無かった。
「修道女ベアトリスが、そんなに大変なことに巻き込まれていたなんて存じ上げませんでした。彼女に怪我はありませんでしたか?」
「打撲や痛みはあるそうですが、まるで何事もなかったかのように振る舞っておりますね」
「……強い方ですね」
院長は実の娘を褒められたかのように嬉々として目を細め、それから頷いた。
「最初は恐ろしい目に遭いショックを受けていたようですが、彼の怪我が私たちでは対処しきれないほど重篤だと知るや、危険を冒して街へ医者を呼びに行ってくれたのですよ」
連日吸血鬼がらみの記事が紙面を賑わせている中、その行為は蛮勇であると言わざるを得ない。しかし、一方で尊敬に値する自己犠牲の精神である。
エリシュカは自分と同じ年頃の少女の胆力に唖然とし、言葉を失った。
エリシュカは我が身を振り返り、彼女と同じ様に振る舞えるだろうかと声もなく自問したが、自嘲の笑みと共に目の下に睫毛の暗い影を落としただけであった。
「彼女も信仰に全てを捧げた身……殉教は覚悟の上だったと存じます。それに、あの娘は馬に騎乗出来たので、吸血鬼に襲われても逃げ切れるという思い上がりもあったのでしょうね」
院長は胸のあたりを押さえながら、仕方のない子だと苦く笑った。
言葉は辛辣ではあるが、その声の響きにはベアトリスに対する深い慈愛が込められている。
「幸い、巡回中の兵士の方々がベアトリスを呼び止めてくださり、事なきを得ました。彼らはベアトリスから怪我人のことを聞くと、彼女の代わりに医者を連れて来て下さったのです」
「そう……だったのですか。神のご加護が修道女ベアトリスをお守りくださったのですね」
エリシュカはほっと胸を撫で下ろす。
ベアトリスが助かったのは豪運も勿論のこと、杓子定規に取り締まるのではなく、事情を汲んで手を差し伸べる──そんな兵士たちの存在があったことも大きい。
兵士たちはベアトリスと吸血鬼狩りの命を救い、ひいては彼らがこの先救うであろう数多の命をも守ったのだ。
──そんな彼らが、持ち場を離れたことで処分されていなければいいのだけれど。
エリシュカは小さな気掛かりを感じながらも、院長に質問を重ねるために毅然と背筋を正した。




