第百二十五話 エリシュカ、再起
医務室の窓に面した中庭に、暗い影が差し始めた。雨雲を呼ぶ湿った風がざわりと一帯の空気を舐め、変調に触れた鴉達が不気味に鳴き始める。
哄笑にも似た鳴声は警告か──あるいは、聞いた者達に凶兆を予言するものだろうか。誰しもが不穏な空気に引き摺られて口を噤む。そしてほんの一瞬、人の声がしんと絶えた。
「む──無理だよ! 敵陣にヴィタリーさんとあたしたちだけで乗り込むなんて!」
沈黙に耐えきれなくなったのか、イリーナが火が点いた様に喚き始めた。次いで、ソフィアを庇うように右手を掲げる。
「あたしは兎も角、ソフィアとエリスの状態は本当に酷かったんだから! 今ここで無理なんかさせたら、今度こそ本当に死んじゃうよ!」
イリーナの言葉には嘘はない。ソフィアの頭部に包帯が巻かれており、ごく薄くなっているものの目元には青黒い斑点が残っていた。エリシュカもまた、輸血という処置を経て経過観察中の身である。
「私も反対だ、ヴィタリー」
ベロニカは腕を組み、苛立たしげに指先を動かし腕を弾いた。
「吸血鬼になっちまったアンタの証言を鵜呑みにするワケにはいかないよ。せめて……アンタが敵の支配下にないという確信が欲しい。それにアンタの持ち帰った情報を精査する時間も必要だ」
ヴィタリーが眉を吊り上げベロニカに食ってかかった。
「何を悠長な事を! アイツを見殺しにするのか?! これまで協会に貢献してきたアイツを……!」
「僕も反対だよ」
キィは気負いなく言うと、ヴィタリーに背を向けて薬品棚へと向かう。厳重に施錠された棚を開くと、劇薬と書かれた小瓶を手に取った。
「怪我人を動かすのは医師として承服しかねる。ましてや、吸血鬼と共に行動させるなんてあり得ない」
だから、とキィは言葉を継ぐ。
「君には薬で眠ってもらう。今は昼間で吸血の衝動を抑えられるだろうが、夜になったらどうなるか分かったものじゃないから」
キィの冷徹な宣告を聞き、ヴィタリーは顔色を無くした。彼にとってそれは事実上の処刑宣告に近い。
協会は決して吸血鬼に血を与えることはしない。尋問を終えた吸血鬼は深く眠らせ抵抗の術を削ぎ落としてから、心臓に白木の杭を打ち込むのが常だ。
吸血鬼を人間に戻す女神の妙薬の開発は進められているものの、その存在は広く公表されてはいない。その存在を知らないヴィタリーには、キィは冷酷な処刑人の様に見えているはずだ。
「……若手に任せてうたた寝決め込んでろってか? 冗談じゃねえ!」
ヴィタリーは後ろ手に縛られたまま、悔しそうに身を捩る。
「それなら、ロイに使った毒を俺にも使え! それならちったぁ信用出来るはずだろ」
エリシュカ以外の者が、痛ましいものを覚えてヴィタリーから目を逸らした。
劇毒を心臓に打つ──相手が吸血鬼であった時にはあれ程容易かった決断が、どうしても仲間相手には鈍る。
だが、感情の揺らぎを自覚した瞬間、突き付けられるのはロイを怪物だからと軽んじ、時に怪物の不死性に頼って死地へと送り続けた自身の残虐さだ。そして、不均衡に気付きながらも、何も言わず触れることのなかった怯懦だった。
「……私は……」
エリシュカが口を開く。その瞳は老いた狩人の覚悟を真っ直ぐに射抜く。
「私は行くわ。例え罠だとしてもロイを助けに行く」
「エリシュカ!」
それぞれの思惑を乗せた五人の声が唱和する。ぴんと張り詰めた空気が肌を差し、ちりちりと痛むほどだ。
「正気じゃない! まだ経過観察中なんだぞ、君は!」
「じゃあ、経過観察はいつ終わるの? 手をこまねいている間にロイは死ぬのよ?」
「……っ、僕だってロイを見殺しにしたくはない! でも──!」
キィは悔しげに手にしていた小瓶を握り締める。
彼はロイの心臓に劇毒を仕込んだ張本人だ。だが、目的は裏切りの抑止であり、当然、ロイが敵に敗れて拉致される事態など想定していない。この結果は彼としても流石に本意ではないのだろう。
「……ヴィタリーさん、私の欲望を思い出させてくれてありがとう」
急に名を呼ばれたヴィタリーは目を瞬かせるばかりだ。
「あ……? 欲望……?」
エリシュカは頷く。
「私ね……ロイの事を大事にしてあげたいの」
それは、ロイが消息を絶ったと聞かされたあの日、願う事すら許されなかった言葉だった。その声には綻ぶ花の静けさと若木の様な至誠が宿っていた。舌と唇の動きはあどけない。だが、眷恋の甘さなどは一切感じさせず、誰の耳にもすっきりと馴染んだ。
「あの人、口は悪い癖に妙な所で繊細だから、私達が救援が来るなんて思っていないと思うわ。寧ろ合理的な判断だって言うかもしれない。でも、だからこそ──絶対に見捨てたくない」
アレスの加護と共に戦う術を失い、兄を人間に戻したいという欲望だけがエリシュカの無力感にそっと寄り添ってくれた。
だが、今は違う。ロイをこの手で奪還する──それは再び剣を取るのに十分な理由だった。
「まだ……まだ間に合うはずだわ。だってロイは生きてるんだもの」
エリシュカは不意におかしそうに微笑む。
「あの人、また敵に負けたって落ち込んでるだろうから、引っ叩いてでも正気に戻さないと。それが出来るのは相棒の私だけだから」
イリーナとソフィアが眩しそうにエリシュカを見た。二人はどちらからともなく互いに手を取り合い、ベロニカの傍に進み出ていた。
「……エリシュカさんが行くなら、私も行きます」
「あ、あたしも。ヴィタリーさんと二人だけなんて……危険すぎるもん」
ベロニカは俯き、それから途方に暮れたように天井を仰いだ。吐き出される吐息はゆるゆると静寂に溶ける。
「……反対だ──と言っても、エリシュカは聞いちゃくれないんだろう。まぁ、一人で暴走されるよりはずっといい」
ベロニカは背を向け、一人扉へと歩き始めた。義足の音がことことと小気味よい。
「ロイ奪還作戦について詰めなきゃならん。キィ、ヴィタリーの拘束を外してやってくれ」
キィは不服そうにベロニカの背中を睨むが、観念した様にヴィタリーの拘束を解いた。
やはり、雇われの医師が協会長の意向に異を唱えることは相当難しいらしい。
エリシュカがそう納得した途端、キィは憤懣を隠さずに盛大な愚痴を零したのである。
「……医師としては業腹ですが。何せ、エリシュカは神の“御使い”を捩じ伏せる女ですからね。僕達如きでは彼女を止められないというのは同意しますよ」
キィの言葉を受けて十の瞳がエリシュカを凝視する。好奇と非難を織り交ぜた視線に、エリシュカは只管身を縮こませるしかなかった。




