第百二十四話 奪還
ヴィタリーの告白に、医務室の面々は凍り付く。エリシュカは、痺れた右手を押さえたまま立ち尽くし、イリーナとソフィアは非戦闘員のキィを守るために彼の前に立ち塞がる。キィは怯えた様にヴィタリーを見つめていたが、不意に我に返ってちらりと扉を見る。
「協会長を呼ばないと。僕達だけで収拾のつけられる事態じゃない」
だが、キィは動けなかった。狩人の少女達は全員手負いだ。たとえ本調子であっても熟達した吸血鬼狩りを相手に取り押さえることは不可能に近い。
ヴィタリーは、そんなキィの緊張を軽やかに読み取った様だった。困ったように両手を軽く挙げ、敵意がないことを伝える。だが、無手であるからと言って、ヴィタリーは決して油断出来る相手ではない。
「……すまん、いきなり吸血鬼になったって言われても混乱するよな。だが、俺にはお前らに対する敵意は無え。心配なら手首を縛り上げてくれてもいいぜ」
「……そうかい。なら、そうさせてもらうよ」
キィは盾となった少女達の庇護下から離れ、大きな収納棚の引き出しから細長い巾を取り出す。それは戦闘で精神を病んだ者や麻酔から覚めた際、譫妄を引き起こした怪我人の不穏な行動を抑制するためのものだった。
本来ならば四肢を寝台の柵に縛り付けるためのものだが、使いようによっては拘束具代わりに使えなくもない。
キィはヴィタリーの両手を背中に回させ、手首をぎちぎちに縛る。痛ぇ! と、ヴィタリーが情けない声を上げた。
「おいおい、キィ! 縛って良いとは言ったが、ちったぁ加減しろよ!」
怒鳴られたキィの方が小さな痛みに触れた様な表情を浮かべた。しかし、キィは微かな感傷を無理矢理にも飲み下すと、医師らしく冷徹な表情で首を振る。
「随分と興奮しているようだ。混ぜ物でも振る舞えば少しは落ち着いてくれるかな?」
ヴィタリーのみならず、エリシュカとイリーナ、ソフィアの身体がそれぞれびくりと震えた。
混ぜ物とは、吸血鬼を生け捕りにする際に使われる薬剤の符牒である。生け捕りと言っても、生易しい代物ではない。吸血鬼にとっては猛毒である聖餐や聖水、植物などを掻き集めた混合物で、怪物が死ねない苦痛に咽び泣く代物である。
「……勘弁してくれよ。俺は麦酒派なんだ。混ぜ物なんて甘ったるいもんは趣味じゃねぇや」
ヴィタリーは声量を落とし抵抗をやめたものの、軽妙な軽口は忘れない。
あくまでも泰然とした態度を崩さぬヴィタリーに、キィは弱りきった様に眉尻を下げる。
「イリーナ、ソフィア。見張りを頼めるかい? 僕は協会長を呼んでくる。もし何かあれば、その時はヴィタリーの討伐を──」
「やめてください!」
キィの言葉を遮ったのは、意外にも普段は控え目なソフィアの方だった。震える手でキィの白衣を掴み、小さく荒い呼吸を繰り返している。
「私も……狩人の端くれです。誰かに指示されなくても何かあればその場で対処出来ます。……何より、仲間を殺せと仰る先生を……私は見たくありません」
ソフィアの翠眼に糾弾の鋭さはなく、あるのは湧水のように零れるキィへの憂悶ばかりである。思いがけず利他の情に触れたキィは、堪らずソフィアから目を背けた。眼鏡の山を指で押し上げながらすまない、と呟く。
「……すぐ戻るよ」
キィはそう言うと、急ぎ足で医務室を後にする。その足取りは重く、物悲しい翳りが纏わりついていた。
■□■
エリシュカは「面会謝絶」と書かれた札を医務室の把手にそっと掲げる。極力音を立てないように静かに扉を閉めると、余人の立ち入りを徹底的に排除するためにしっかりとつまみを回して鍵を掛けた。
エリシュカは室内に目を向ける。既に寝台で拘束されたヴィタリーの傍らにはベロニカの姿があった。キィに勧められた丸椅子には座らず、油断なく巨漢を睥睨している。
エリシュカがベロニカの背後に控えると、ベロニカは額に手を添えて大きく溜め息を吐いた。
「まさかアンタが吸血鬼になっちまうなんてねぇ、ヴィタリー。序列銀が泣いちまうよ」
「面目無え。だが、吸血鬼になった俺でもまだお前たちの役に立てると思って、こうしておめおめと逃げ帰った次第だ」
ベロニカはその献身にかつてのヴィタリーの面影を見る。僅かばかり肩から力を抜いた。
「……保養地で一体何があったんだい?」
ベロニカの言葉を受けて、ヴィタリーが僅かに俯く。餓狼の勁さを持つ茶金色の瞳に一雫の恐怖を滲ませ始めた。
「あの地には爺がいたんだ。俺ぁ、よく覚えてる。リュミドラに与してた爺だ。アイツのせいで仲間は皆死んだ」
エリシュカとベロニカ、キィが息を呑む。イリーナとソフィアは事情が分からないなりに、口を挟める雰囲気ではないと察して黙ったままだ。
「ここでも、セルゲイ・アル・グレイ・ガルシニアスの名前が出てくるのか……!」
「待った、もしセルゲイがロイと接触したのだとすれば──」
そうだ、とヴィタリーが弾かれるように顔を上げる。
「ロイ……! アイツもあのいけ好かねぇ爺にやられたんだ! しこたま痛めつけられて──連れ去られちまった!」
エリシュカは転ぶ勢いで寝台に駆け寄り、ヴィタリーの患者着を掴んだ。
「……連れ去られた? ……ロイは……生きているの?」
ヴィタリーはエリシュカの発作的な行動に目を見開く。だが、エリシュカの必死さに何を見出したのか、柔らかく頷いた。
「あぁ……あぁ、もちろんだ。アイツがお前を置いて逝くワケねぇだろう?」
ぎち、と拘束されたヴィタリーの手首が嫌な音を立てた。見ると抑制帯が皮膚に食い込んでいる。
「っと……いけねぇ。もうエリシュカも十八だ。いつまでも子ども扱いするワケにはいかねぇよなぁ」
どうやら、ヴィタリーは両手の拘束を忘れ、エリシュカをぐずる子どもの様に扱って宥めるつもりだったようだ。ヴィタリーは戯けて笑うが、笑いを収めた後の表情は気鬱に沈んで冴えない。
「だが……悠長にもしていられねえ。ロイの心臓に毒が埋め込まれてるのは知ってるな? 手持ちの薬剤はもう使い切っちまった。新しい薬剤を打たなきゃ毒が徐々に溶け出して──早晩奴は死ぬ」
だから、とヴィタリーはエリシュカ、イリーナ、ソフィアを順番に見つめる。老いた狩人の瞳に宿る輝きは、研磨した黄鉱によく似ている。淡く透き通り既に若手の勁さは無い。それでも──未だそこにある。失われてはいない。
「俺は明朝あの爺の根城に殴り込みに行くつもりだ。奴は協会の切り札で失うわけにはいかない。とは言え、俺と奴じゃ戦力の差がありすぎる。……頼む、お前達も共に来てくれないか?」
この通りだ、とヴィタリーは頭を下げる。
思いがけず年長者に頭を下げられた娘達は、互いに目線を交わして困惑を露わにする。ヴィタリーの言葉は重石となって胸を押し潰し、即座に言葉を吐き出すことが出来なかった。




