第百二十三話 未だ切れぬ縁(よすが)
吸血鬼狩りの協会は在籍する狩人達のために寮舎を二棟保有している。一棟は女性専用の寮舎だが、二階建てで、男性専用の寮舎より二回りも小さい。だが、それでも女子寮には空室が目立った。
そもそも、体力も力も男に劣る女が狩人を志願する事自体が稀である。更に生き残ることが出来る者は、志願者よりも遥かに少ない。
だが、有事の際には男女の区別なく迅速な集結が求められるために、狩人の職住は二棟共極めて近接である。本来ならば、エリシュカの足でも女子寮から協会に到着するのには三分と掛からない。
だが──
陽気を誘う緑風が、エリシュカの長い髪を緩く靡かせる。その瞬間、長い睫毛に触れた汗が頬を伝い、石畳にぽつりと黒い染みを作った。
「エリス、大丈夫?」
イリーナが心配そうにエリシュカの顔を覗き込む。イリーナも重傷だったと聞くが、自ら杖代わりを買って出てくれたのだ。
エリシュカは頷くが、白磁の肌は血の気が引いて青く透き通っていた。足運びが覚束ないのは勿論のこと、たかだか数十歩程度の距離を歩いただけで息が上がる。
エリシュカは唇を噛んだ。たった七日間の静養で、エリシュカの身体はすっかり萎えてしまったのだ。
「姉さんの歩く速度が早すぎるんじゃないですか? もう少しゆっくり歩きましょう」
エリシュカの右半身を支えるソフィアが言う。ソフィアは頭に包帯が巻かれており、ともすれば、エリシュカよりも重傷だったのかもしれない。
それでも、ソフィアの呼吸は一切乱れていない。当然、ソフィアよりも等級が上のイリーナはほぼ普段の調子を取り戻しつつある。
エリシュカは二人には分からないように唇を噛み締める。実力だけで上位帯へと登りつめた女達と借り物の力で戦ってきたエリシュカでは、これ程までに積み上げてきたものが違う。
「大丈夫。……こんなことで、弱音なんか吐いてなんかいられないもの」
エリシュカは敢えて明るい声で笑う。少しでも劣等感に気付かれれば、彼女達の友を名乗る事が出来なくなってしまう様な気がした。
■□■
結局、普段ならば十分と掛からず辿り着くはずの医務室に到着したのは、エリシュカが部屋を出てから十五分後のことである。
エリシュカ達は逸る気持ちを抑えながら、医務室の扉を静かに開けた。それは中にいる怪我人を脅かさない配慮であったが、常勤医のキィが幽鬼でも見たかのように飛び上がった。
「な、何だ?! 何で揃いも揃って怪我人が此処に?!」
キィの苔色の目が三人の娘達を睥睨する。
「君達全員、重傷で療養中のはずだろう! 誰の許可を得て外を歩き回ってるんだ!」
「ご、ごめんなさい! でも、あたしたちヴィタリーさんが帰って来たって聞いて……居ても立ってもいられなかったの!」
イリーナの申し開きを受けて、キィの目線が一瞬だけ左へと向かう。エリシュカがその視線の先を追うと、寝台に横たわる巨漢の姿があった。
「あっ……!」
「ヴィタリーさん!」
エリシュカは思わず声を上げる。その声を皮切りにイリーナとソフィアが寝台の縁に駆け寄った。
二人の支えを失ったエリシュカは一瞬よろめくが、キィが身体を支えてくれたお陰で事無きを得る。
「イリーナ、ソフィア! 怪我人から急に手を離すんじゃない!」
キィは苦言を呈すが、イリーナとソフィアはヴィタリーに縋って泣いているものだからそれ以上何も言えずに渋い顔だ。
「い、いいのよ……私が二人と同じ立場なら、同じ事をしていたかもしれないわ」
イリーナ達の身体越しに見たヴィタリーは、死人の様に顔色が悪い。更に、暫く見ない内に茶金色の髪の一部が僅かに退色してしまったようで、草臥れた印象がより強い。だが──生きている。
「ヴィタリーさん、よかった……」
エリシュカも二人に遅れて寝台に駆け寄ろうとしたが、不意に違和感を覚えて足を止める。
「……どうしたんだい?」
キィは不思議そうに首を傾げるが、エリシュカは身の上に起こった不可思議な感覚について、整然と言い表せずに困惑を深くする。
「よく……私にもよくわからないんだけど……何だか……」
エリシュカは何とか現状に相応しい言葉を探そうとするが、その意志を裏切って、右手が震え始めた。慌てて左手で押さえ込むものの、右手はゆっくりと宙を彷徨う。何かを探しているようでもある。
「これって……」
アレスに肉体の制御を委ねた時によく似ている。ただ、以前と違うのはエリシュカの意識が表層にあるということだ。それに、意図せぬ挙動は本気で抗えば抑え込む事も出来そうだった。
だが、問題はこの感覚が何故今になって蘇ったのか、という事だ。アレスとの繋がりは“魔女”の【魔眼】の力によって断絶したのではなかったのか。それに──アレスがエリシュカの身体の主導権を欲するのは吸血鬼と対峙した時だけだ。
──いや……嘘よ、そんなの……!
「う……うぅ……」
掠れた呻き声が寝台の方から這い上ってきた。ヴィタリーが、今にも意識を取り戻そうとしている。
その瞬間、エリシュカはキィの診察机の上に置いてあった金槌を手に取り、ヴィタリーへと槌頭を向けた。
「イリーナ、ソフィア! 駄目! 早くそこから離れて!」
「……え、エリス……?」
泣きじゃくるばかりのイリーナ達は状況を飲み込めず、エリシュカとヴィタリーを交互に見る。
エリシュカはその間にも、足を引きずりながら寝台へと近付く。
「良いから、離れて! 全員私の後ろに! 早く!」
裂帛の気迫に押されて、イリーナとソフィアは漸く後ろに下がった。だが、彼女達と入れ替わるようにキィがエリシュカに近寄り、肩を掴む。
「エリシュカ! やめなさい! 金槌なんて持って、どうするつもりだ」
「……どうして誰も気付かないの?! コイツはヴィタリーさんじゃない! 偽物……吸血鬼よ!」
エリシュカはキィの手を乱暴に振り解く。持っていた金槌を大きく振り被り、ヴィタリーの眉間目掛けて真っ直ぐに振り下ろした。
今は昼間で吸血鬼は本来の力を発揮出来ない。今ならば殺せると、エリシュカは確信していた。
単なる医師に過ぎないキィはもちろん、歴戦の狩人であるイリーナ達ですらエリシュカの凶行に動けなかった。出来たのは目を瞑り、エリシュカが仲間を手に掛ける瞬間から目を逸らすことだけであった。
だが──ヴィタリーはエリシュカの殺気に素早く反応した。拳をエリシュカの手首に打ち込んだのだ。
「ぐっ……!」
エリシュカの五指が痺れた。金槌が寝台の縁に当たって床に落ちる。派手な打音が上がると同時にヴィタリーは身体を起こし、エリシュカの手首を強く掴む。みし、と嫌な音がした。
「痛……ッ!」
堪らずエリシュカが悲鳴を上げる。その瞬間、ヴィタリーの身体が震えて手首の戒めが解かれた。
「エ……エリシュカ! すまねぇ……驚いてつい、反撃しちまった! 怪我は無えか?!」
予期せぬ言葉に、エリシュカは毒気を抜かれて立ち尽くした。
体術も、大らかで優しい声も記憶の中のヴィタリーと寸分の違いもない。それなのに、エリシュカの身体だけが、今も目の前の男が吸血鬼だと叫んでいる。
「ご、ごめんなさい……」
エリシュカは震える声で一歩後ろに下がる。
今更ながら、自分がしでかそうとした事が恐ろしかった。仲間で恩人でもある男を、エリシュカは殺そうとしたのだ。
「私……ヴィタリーさんのこと……吸血鬼だって……勘違いして……酷い事をして……ごめ……ごめんなさい……」
だが、ヴィタリーは首を振った。その顔は諦めと慈愛が混ざって複雑な色をしていた。
「いや……エリシュカ……お前の判断は正しい」
「え……?」
ヴィタリーは口角を指で引き上げ、口腔を見せつける。長い牙が、その存在を誇示していた。
「俺はどうやら──一度死んで吸血鬼になっちまったらしい」




