第百二十二話 奇跡の生還と落涙の抱擁
疎雲が淡い色の空をゆっくりと流れている。白雲が斑に灰色に染まるのは予報にあった通り雨の予兆だろうか。
エリシュカは寮の自室から窓を眺めながら、白い肌に長い睫毛の影を落とす。傍らに立て掛けられた粗末な杖を手に、エリシュカは恐る恐る左足を踏み出した。
その瞬間、大腿部に僅かに痛みが走った。
「痛っ……!」
左足が脱力しそうになった瞬間、即座に右足が重心を引き受ける。反射的に身体が動いたお陰で転倒は免れたものの、エリシュカの右足の脹ら脛は張っていて、少し重い。今日に至っては足首まで金属の棒を飲んだように硬くなってしまった気がする。
──この様子じゃ、まだ外出は無理かもしれないわね。
エリシュカが“魔女”一味に敗北を喫し、既に七日が経過していた。だと言うのに、エリシュカはまだ杖さえ手放せない。そのせいで自室から出ることすら難しかった。
医師は療養と言うが、エリシュカにとっては蟄居に近い刑罰であり、時間を無為に過ごしてしまったという罪悪感ばかりが胸を掻く。
「……アレス様がいらっしゃった時は、このくらいの傷でも問題なく動けたのに」
負傷をものともしない動きは、そもそも討伐中の高揚のお陰だったのか、それともアレスの加護の一部だったのかは分からない。しかし、今のエリシュカにはもう確かめる術すら無かった。
エリシュカは苦労して寝台に辿り着き、ゆっくりとその縁に腰を下ろした。安物の発条が硬く軋む。
その刹那、腰の辺りからがさり、と乾いた音がする。見れば──エリシュカが個人的に定期購読している朝刊が無造作に置かれていた。
|首都の名を冠する日刊紙《レダ=ジェネロス・ジュルナル》は一般紙だ。知識層向けの堅苦しい高級紙ほどではないが、取り扱う時事問題については、都会向けに洗練されている。
今朝の一面を飾るのは、やはり連続妊婦殺人事件で逮捕されたバージル・スターンについての続報である。既に絶縁されたとは言え、侯爵家の令息が醜悪な犯罪者に身を窶したとあれば、娯楽に餓えた民衆が放っておくはずがない。実際、見出しには元貴公子の零落という、いかにも労働者階級の興味を引く煽り文句が大々的に掲げられていた。
──バージル・スターンの凶行の最初の被害者は、ラマイエ・ベローという二十一歳の女性だった。彼女は元スターン侯爵家の客間女中だったが、事件発生の四ヶ月前に解雇されている。解雇事由はラマイエさんが侯爵家の財産目当てにバージル・スターン容疑者を誘惑し、その私生児を身籠ったためだと判明した。
エリシュカの顔に白けた笑みが浮かぶ。
バージルはエリシュカへの恋慕を忘れられず、貴族の義務よりも恋を選んだ末に廃嫡されたと言った。だが、実際はどうだ。あの不実な男は使用人に私生児を孕ませ、吸血鬼を世に放とうとした責任を取らされただけではないか。
呆れはしたものの、エリシュカの心は思いの外動かなかった。勿論、色々と煩わされたことは遺憾ではある。だが、そもそも好いてもいない男に粉を掛けられた程度のことなのだから、エリシュカが動揺する道理がない。
エリシュカは更に記事の深淵へと目を向ける。この辺りから、文章の湿度が変わり、徐々に義憤にも似た熱を帯び始めた。
──ラマイエさんは当初妊娠を隠していたが、いよいよ誤魔化せなくなり、スターン侯爵に身籠った子供を私生児にしたくなければ、自分を侯爵家の妻として迎えるよう詰め寄った。しかし、スターン侯爵はこの脅迫に屈さず、実の息子共々放逐した。ただし、侯爵は暫く生活には困らない程の祝儀をバージル容疑者に渡している。しかし、その金の使い道を巡って、被害者と容疑者は言い争いとなった。
エリシュカは祝儀の文字を人差し指でなぞる。つまり──侯爵は使用人のラマイエと貴族のバージルとの結婚は許さなかったが、平民同士の結婚は許したのだ。
濃褐色の瞳が食い入るように真相を追う。
──バージル容疑者はラマイエさんに中絶を迫り、それで責任を果たしたという事にして侯爵家への復帰を目論んだ。しかし、ラマイエさんはこれを拒否。これを逆恨みした容疑者が、殺害へと及んだ。容疑者はラマイエさんだけでなく、他の妊婦にも憎しみを募らせ、その後も中絶を拒む妊婦を殺害し続けた。
記事はバージルの非道を責める言葉で締めくくられ、最後に時系列に誰がいつ殺されたのか整然と纏めた表が記載されていた。
吸血鬼による関与については、一切書かれていなかった。精鋭の吸血鬼狩り達が束になっても敵わなかった怪物の存在については、徒に民衆を恐怖に陥れるとして掲載を見送ったのかもしれない。
「……」
エリシュカはそれ以上記事を読む気にはなれず、丁寧に新聞を折りたたみ、寝台の縁に置いた。
掲載された写真には、多数の官憲に連行されるバージルの様子が写し出されている。エリシュカは我知らず怒りを滲ませた。
「私、貴方の事を一生恨むわ、バージル・スターン。貴方がこんな事件を起こさなければ、私はロイやヴィタリーさんと離れたりしなかった」
尤も、エリシュカがロイとヴィタリーに伴って辺境の任務に向かった所で、協会から出た死者の数が一名増えただけかもしれない。
それでも、こんなに虚ろな日々を送るよりもずっといい。生死すら分からないのは戦死を知らされるよりもずっと堪えた。心が、どこにも定まらない。
「返してよ……仲間を返して……! 何もかも元通りにして……!」
エリシュカは新聞を乱暴に払い除け、床へと叩き落とした。
半拍おいて、廊下の方が俄に騒がしくなる。誰かが──否、複数人が何事か叫びながら走っているようだった。
協会の女子寮はよく言えば歴史ある建物だが、反面経年劣化であちこちが脆い。歩いていても廊下の軋む音が室内に響くほどだというのに、今は最早騒音に近い。寮母が見たら、即座に叱責が飛ぶだろうとエリシュカはぼんやりと考える。
エリシュカは嵐が過ぎ去るのを待ったが、意外にも足音はエリシュカの部屋の前で止まった。
「エリシュカさん!」
ソフィアの声だった。ドアを叩く強さは控えめだが、叩扉の回数や声掛けの礼儀を無視するのは、礼儀正しい彼女には珍しい。
「エリス、いる!? ちょっと来て!」
どうやら、イリーナも一緒のようだ。尤も、エリシュカはまだ二人が一人でいる所を見たことがなかった。
「……なに? どうしたの? 二人とも、大怪我したのに、そんなに走って平気なの?」
エリシュカは杖を取り、寝台の縁からゆっくりと立ち上がる。動きの緩慢さには我ながら呆れ果てたが、キィにはくれぐれも無理はするなと言い含められている。仕方がない、とエリシュカは開き直った。
しかし、エリシュカの弱気をイリーナは許さない。苛立ったように床を踏み鳴らした。彼女の怪力を知るエリシュカは、床板を踏み抜かないかと冷や冷やするほどである。
「今はそんなのどうでもいいんですよ!」
「そうだよ! それより早く! ヴィタリーさんが──!」
「──え?」
イリーナの声には開花の瞬間を迎えた蕾の様な喜色が滲んでいる。
「ヴィタリーさんが、生きてた! 帰ってきた──!」
雷に打たれたような衝撃がエリシュカの身体を駆け巡った。
──帰ってきた? ヴィタリーさんが?
生死不明とされた二名の内、一名が帰還した。しかも無言の帰還ではない、生きていた、とイリーナは言った。
エリシュカの瞳が氷解した湖面の様に揺れる。
ヴィタリーの生還は奇跡だ。しかし、これの意味するところはもっと大きい。もう一人の行方不明者──ロイの生存にも、微かながら希望が灯ったのだ。
エリシュカは杖を放り出し、左足を引きずりながら走り出す。震える手で扉を開けると、今だけは痛みを忘れて、伝令役の少女達に飛び込んだ。
一週間ぶりに再会したイリーナとソフィアは、至る場所に包帯が巻かれていた。しかし、二人とも両手を広げてエリシュカを強く抱擁する。
「イリーナ、ソフィア……!」
本当によかった、と娘たちは笑った。喪失の痛みではなく、望外の喜びに泣きながら、晴れやかに笑い合った──




