第百二十一話 希望の星
──保養地に向かった吸血鬼狩りは全員──生存は絶望的だそうだよ。
エリシュカは、系統さえ知らない古語を耳の中に流し込まれた気分であった。言葉を噛み砕き、真意を咀嚼するより前に、音の欠片は嵐のような心音に攫われていく。
──違う。
エリシュカの五感が、心情が、理性が──貝のように閉じ籠もって、深淵の闇だけがそこにある。今も尚、底知れぬ奈落の底へと沈められている。
「何……何を言ってるの……? 冗談……よね?」
エリシュカは口角を歪めて笑うが、ベロニカの表情は厳しいままである。だが、皺の深い目元に、微かに傷心が滲む。その機微を察したエリシュカの顔から表情が消えた。
「そんなわけない。だって、ロイが負けるはずない。ロイはすごく強い吸血鬼で……ヴィタリーさんだって、す……すごく強い吸血鬼狩りで……」
じわ、とエリシュカの目に薄い水の膜が張り、やがて熱い雫が陰雨のようにとめどなく頬を濡らした。絶望が喉を焼き、爛れる痛みで胸が詰まる。最早、涙で溺れるという言葉ですら生易しい。
「嘘だ、嘘だ……! ねぇ、嘘だって言って、ベロニカさん!」
エリシュカはベロニカの襯衣の胸倉を掴み、慈悲を乞う。しかし、ベロニカの口からは慰め一つ零れ出ることは無かった。
それはエリシュカにとって、手酷い裏切りである。一際大きな涙滴が患者着に吸い込まれ、灰色の染みを作っていく。
「……お願いだから…………っ!」
エリシュカはベロニカに縋るが、老いた女の腕は初めてエリシュカを突き放す。驚くエリシュカに、ベロニカは乾いた眦を吊り上げる。
「エリシュカ、落ち着いて聞きなさい」
エリシュカは肩を震わせ、両手で耳を塞ぐ。エリシュカは辛い現実に向き合いたいのではなく、都合の良い夢物語に浸りたいだけだ。今のエリシュカには地獄を受け入れるだけの強さはない。
「いや……いや! 聞きたくない……やめて……! やめてよ!」
エリシュカは頑是ない子供の様に泣き叫ぶ。しかし、普段はエリシュカに甘いはずのベロニカには容赦が無かった。ベロニカは無情にもエリシュカの手首を握り、耳から引き剥がした。
「聞くんだ、エリシュカ・ルプ!」
ベロニカの分厚い手が、エリシュカの両頬をがっちりと掴んだ。エリシュカにはベロニカの怪力を到底振りほどけない。こうなってしまえば、エリシュカは現実からもベロニカからも目を逸らすことが出来ない。
「アンタは狼を……ヴィタリーと同じ姓を名乗ると決めたんだろう?!」
エリシュカは鋭く息を呑み、ただただ首を振った。
狼を名乗ったのは強い獣の様に気高くありたかったからだ。確かに、吸血鬼に負けぬ牙を欲した。吸血鬼に立ち向かう家族を欲した。──彼らの死を背負いたかったわけではない。
ベロニカは、ちっと舌打ちをする。
「エリシュカ! ヴィタリーとロイ……奴らの遺体は他の連中と違って、まだ見つかっていない!」
思いがけず希望が僅かに灯った。しかし、エリシュカの顔を見た瞬間、ベロニカは罪悪感に塗り潰された顔でいや、と訂正する。
「遺体が見つかってないだけで、生存自体は絶望的なんだが──」
キィは呆れた様にベロニカを見る。
「協会長。慰めたいのか、トドメを刺したいのか、どっちなんです?」
「うるさいな! だって事実なんだから仕方ないだろう!」
ベロニカは顔をくしゃくしゃに歪めながらキィを振り返り、子供の様に歯を剥き出しにする。
「それでも! 遺体が見つからない以上、死んだと確定したわけじゃない! 希望は……希望だけは持ってて構わないんだよ!」
「希望……? なに、それ。そんなもの、どこにあるの?」
神の加護を無くしたエリシュカの絶望は、らしくなく捨て鉢になる程に深い。無様にも敵に敗北し、そして、頼みとしていたヴィタリーとロイは行方が知れない。協会は半ば瓦解したと言ってもいい。
武具や消耗品の損失など軽微なものだ。しかし、人を立て直すのは難しい。仲間の凶報で、彼らの士気は底へと落ちているはずだ。
エリシュカが“御使い”の力を失ったことも、いずれ露見するだろう。その瞬間が、エリシュカには何よりも恐ろしい。
彼らの絶望も、敵意も、諦念も、一身に受け止めるにはエリシュカの若い心と体は育ちきっていない。
「希望なんてどこにもないじゃない。……それでも、頑張らないといけないの……?」
「──そうだよ、エリシュカ」
キィが苔色の瞳を伏せながら言う。少し袖口のくすんだ白衣には、今日に至るまでの労苦が透けて見える。
「女神の妙薬は皆の希望だけど、完成するという保証はない。僕の道の先には希望の光は未だ……何処にもないんだ」
キィは骨張った掌を見つめ、きつく握り締める。
「それでも、僕は研究を続けなきゃいけない。何よりも、僕自身の欲望のために」
「……欲望?」
「僕はヴィーラを人間に戻したい。君は? 君の欲望は?」
「私の……欲望……」
エリシュカの焦げ茶色の瞳が、きらきらと光る空に一瞬囚われる。いつだってエリシュカの心を占めるのは眩い金光だった。決して──暗い闇ではなかったはずだ。
感傷が、つきりとエリシュカの胸を刺す。しかし、エリシュカはその痛みに知らぬ顔をした。
「……にいさま……兄様を人間に戻したい……」
キィは安堵したように深く息を吐く。
「大丈夫、君のお兄さんはまだ生きている。僕の研究が断絶したわけでもない。君の希望はまだ潰えていないんだから」
キィはベロニカの肩を叩いて面会の終了を告げる。医師による指示には流石のベロニカですら従わざるを得なかった様で、後ろ髪引かれる様に医務室を後にした。
「今はただ、傷を癒すことだけを考えなさい。身体を損なえば心だって損なう。逆もまた然りだよ」
エリシュカは、小さく頷く。今にも消えそうな希望を抱えるように、薄い瞼をそっと鎖した。




