第百二十話 僻遠玉砕の玉梓
エリシュカは腹を括り、口を開いた。既に息を吸うことさえ難儀だと感じる程、口の中が干乾びている。
「あの場には……“魔女”だけじゃなく、兄と兄を攫った吸血鬼がいました。“魔女”とは協力関係にあったようです」
ベロニカが協会長としての顔付きを取り戻した。老いた目元の皺がわずかに薄くなる。
「何だって? 確か……日中に天候を操ったっていう、あの?」
ベロニカが剃刀のように鋭い輝きを瞳に宿した。今にも剣を持って斬りかかりそうな気迫に、エリシュカですら呑まれそうになる。
「はい、今回は名を名乗りました。確か……セルゲイ・アル・グレイ・ガルシニアスと」
「セルゲイ?!」
「ガルシニアスだって……?!」
ベロニカとキィは同時に叫んだ。その名に秘められた意味を知らぬエリシュカは首を傾げるばかりである。
先に口火を切ったのはベロニカである。ベロニカは眉間に刻まれた皺を誤魔化すために指で揉みほぐした。
「……ガルシニアスってのは、狂王ザハリアーシュの右腕の名だよ。あまり市井には伝わっていないがね」
「どうして?」
「強すぎたんだよ。先代の“使徒”と“御使い”の奇跡を持ってしても傷一つつけることが出来なかったらしい」
エリシュカは焦茶色の目を丸く見開く。
エリシュカはアレスの天与の奇跡が悉く敵を討ち滅ぼすのを誰よりも間近で見てきた。人々を恐怖に陥れた怪物が赤子の様に容易く踏み躙られる様には胸がすく思いすら覚えたものだ。
“御使い”は疑いようもなく至上の存在である。にも関わらず、その“御使い”にすら討ち滅ぼせない敵が存在するというのか。最早たちの悪い冗談にしか聞こえなかった。
「……彼らの威信を落とす記述を残すことは出来ない。だから、当時の協会はガルシニアスの存在を秘匿したんだ。ザハリアーシュを滅ぼしても、それ以上の化け物が生き残っていると発覚すれば、民衆は絶望してしまうからね」
エリシュカはシーツをきつく握り締める。ロイの強さも大概だが、セルゲイは紛うことなく桁外れの怪物である。それに対峙し、曲がりなりにも生還出来たというのに、エリシュカの顔には喜びはない。
──今回は見逃されただけだわ。次に見えた時は、きっと虫けらみたいに殺される。
エリシュカはぶる、と身体を震わせる。
手心を加えられても尚、エリシュカはアルフレートにすら微塵も歯が立たなかった。そのせいで背後に控える黒幕の真の強さはぼんやりとした輪郭すら見えない。
──なら、逃げるの? やっと兄様と再会出来たのに? ……絶対に、嫌。
あの時に綺麗に死ねていれば、兄の生死ですら諦めもついた。だが、エリシュカは今、生きている。そして、生きている限り欲望は鎌首を擡げるのだ。
兄の奪還を諦めるという選択肢は、既にエリシュカの中には存在しなかった。
エリシュカの心に種火は燻る。だが、水を差すようにキィが気の毒そうにエリシュカを見た。
「……セルゲイ……ガルシニアス……。それが本当なら何て残酷な運命なんだろう。……どうやら君は最悪な男と縁が深いらしいね」
「え?」
キィは眼鏡の山を静かに押し上げる。縁がぎらりと強く光った。
「……ロイがどうして協会に力を貸してくれるのか、その理由を聞いたことがあるかい?」
「いえ……彼はあまり自分のことを喋らないから。でも……言動から、吸血鬼に対する憎悪はひしひしと感じるわ」
ロイの剣はいつだって容赦がない。大量の血液から戦場を自在に動く大量の短剣と両手剣を生成し、全方位から敵に叩き込むのが常だった。
その圧倒的な物量を前に、大抵の敵は抵抗すら許されずに沈黙する。それは正しく制圧という言葉が相応しい。
思えば、穏健なユオンに対してですら、舌を切り落とすと脅したり、コソ泥と罵ったりと散々な物言いだった。
「だろうね。彼は二百年前に吸血鬼に殺害され、怪物として蘇ってしまった変異種だから」
どこか含みを滲ませたキィの言葉に、エリシュカは戦慄する。
「まさか……」
キィはエリシュカの顔色を見て、神妙に頷いた。
「ご明察。ロイを殺し、吸血鬼に仕立て上げた男の名はセルゲイだそうだ。勿論、名前が同じだけで同一人物かどうかはまだ分からないけど……」
エリシュカの脳内に過ったのは、セルゲイとアルフレートの間で交わされていた、どこか淫猥で虫唾の走る戯れだ。
しかも、あの老爺はエリシュカにすら多少なりとも食指を動かしていた。あの好色ぶりでは、老若男女問わず、手当たり次第に手を付けていてもおかしくはない。
──もしも……もしも、あのロイが……兄様と同じ目に遭っていたのだとしたら?
エリシュカは胃が裏返された様な不快感に思わず口を覆った。ベロニカが慌ててその背中を擦るが、エリシュカは堪えきれずに遂に吐瀉した。透明な胃液がぶち撒けられ、真白い掛け具を濡らす。
キィは黙って汚れた掛け具を回収し、新しいものに交換する。更に、手拭いを水に浸し、手や指を何度も丹念に拭ってくれた。
「大丈夫かい? 病み上がりの人間に少し無理をさせすぎたね。今日はもう休んで──」
「ま、待って……!」
エリシュカはキィの手を握り、首を振る。一瞬くらりと目眩を感じたものの、今はそんなものに気を取られている場合ではない。
セルゲイはかつて、女吸血鬼リュミドラの窮地を救うために首都を襲撃し、協会がヴィスコル城に応援を差し向けるのを妨害した前歴がある。しかも、セルゲイはロイを殺害し、吸血鬼に変えた男だ。
そんな男が、ロイの遠征と前後して表舞台に姿を現した。これを偶然だと言い切るには、纏わりついている因縁が余りにも深い。
──あの男の策略だとしたら、ロイはまんまと誘き出されたことになるわ。
首都から辺境までは余りにも遠く、ロイは協会の援助が期待出来ない。それに、援助が可能な程の腕利きは全員“魔女”によって沈められてしまった。
「ロイとヴィタリーさんは……? あちらの戦況は今どうなっているの?」
キィは助けを求めるようにベロニカを見た。
「彼らの消息については僕は知らないんだ。協会長、何かご存知ですか?」
話を振られたベロニカは海松色の目を憐憫で濡らした。凍えた様に震える唇が、答えを紡ぐ。まるで悼むように、厳かに──
「……残念だけど、保養地に向かった吸血鬼狩りは全員──生存は絶望的だそうだよ」




