第百十九話 死という病について
医務室には再び沈黙が落ちた。エリシュカの懇願に対するベロニカとキィの返答はない。
やはり、とエリシュカは苦いものを噛み締める。
エリシュカは以前、ベロニカ達を相手に人体実験の凍結という結果を勝ち取ったが、それはエリシュカの言い分を受け入れたわけではなかった。“御使い”の威光に平伏して要求を呑んだだけだ。エリシュカの手札から切り札が落ちた今、彼らがエリシュカの交渉に諾と言うはずがない。
「……莫迦な事をお言いでないよ、エリシュカ」
ベロニカは激昂するでもなく、ため息交じりに言う。静かだが、迫力のある言葉にエリシュカは身体を強張らせた。
いかに己が子供じみたことをしているのかを滾々と諭されるのか、“使徒”でないエリシュカを手酷く叱り付けるつもりか──どちらにしろ待っているのは碌でもない未来だろう。
エリシュカは黙して目を閉じる。ベロニカから齎されるものが何であれ、今は受け入れるしかないのだ。
だが、エリシュカの予想に反し、ベロニカはエリシュカを抱き締める。以前と何らか変わりのない、愛情と多少の強引さをたっぷりと含んだ抱擁だった。
「死んだら次の“使徒”を選んで貰うよう、神様に頼むだって? だからロイ達を傷付けるなって?」
ベロニカの声は僅かに硬く震えている。
「アンタ……自分が何を言ってるのか分かってるかい? それは死ぬ為に戦うと言ってるようなものだよ!」
「わ、私は……」
キィが両手を軽く上げ、ベロニカを落ち着かせるように取りなす。渋々と言った体でベロニカは離れたが、エリシュカの背中にはベロニカの掌の温もりがじわじわと伝わっている。
キィが、大袈裟に溜め息を零した。
「……君は本当にタチが悪い。僕の大事な人を人質にとって自分の要求を通した癖に、自分の大事なものだけは絶対に守りたいって?」
「……都合の良い事を言っている自覚は……あります。でも、私に差し出せるものは差し出すつもりで──」
冗談じゃない、とキィは静かに吐き捨てる。苔色の瞳の奥深くで炎が揺らめいているのを、エリシュカは見た。
「死ぬと言う子どもに賛同する医師がどこにいるって言うんだ。僕は絶対にそんなの許さないからな」
そんな、とエリシュカは悲痛な声を上げる。最早、エリシュカの手札にロイ達を守れるものはない。
だが、キィの面に浮かぶのは小娘をやり込めた達成感ではなく、厳冬の雷雨のような憤懣だった。
「君は僕が命を軽んじる悪徳医師か何かだと思っているのか?」
エリシュカが恐る恐る頷くとキィは素っ頓狂な声を上げて肩を揺らし、ベロニカは低く笑った。
「まぁ……当然だよね。見た目が胡散臭いんだよ、アンタは」
横からベロニカが茶々を入れ、キィが嫌そうに顔を顰めた。
「既に女神の妙薬の研究は以前とは違う局面に移っています! だから、今更、非人道的な道に立ち返ることはない!」
その宣言は、エリシュカにとっては願ってもいない僥倖だった。しかし、余りにも耳触りのいい話に、却ってエリシュカの中に警戒心が生まれた。
「どうして……? 吸血鬼の血肉を使わない実験は効率が悪いと言っていたじゃない。妹さんを人間に戻すためにも、早急に女神の妙薬を開発したいのでしょう?」
キィは力強く頷く。今も尚、キィにはロイを切り刻んできた事に対する罪悪感はない。
「ロイを検体にしたのは、彼が既に死という病に取り憑かれていたからだ。吸血の欲求自体はあるみたいだけど、どうやら身体が人の血を受け付けないらしい。あらゆる生物が生存のために食事を必要として、それは吸血鬼であっても例外じゃない。にも関わらず、だ」
エリシュカは黙って聞いていた。生存に直結する欲求を持ちながらも満たせない──そんな苦痛にいつから耐え続けてきたのか、どれ程のものだったのかはロイにしか分からない。少なくとも、人の寿命ではその境地には辿り着けない。
「普通なら、食事を取れなければいずれ死ぬ。本人も死んで苦痛から逃れることを望んでいた。だが、彼はそれでも死ねなかったんだ。だから、医師として──その苦痛を取り払うのが急務だと思った」
でも、と苔色の瞳が窓の外を見る。淡い蒼に遥か遠い地で戦う男の姿でも見ているのか、僅かに瞳の勁さが和らぐ。
「ロイは実験の凍結と方針の変更を言い渡した時に、渋い顔をしていたよ。でも、エリシュカがロイのためにどんなに無茶をしたのかを教えたら、その後から彼の振る舞いが少しずつ変わり始めた」
キィは胸のポケットを探り、小さな黒い欠片を取り出す。エリシュカにはそれが何なのかすぐに分かった。ロイから贈られた魔除けの残骸だ。
「これ……ロイが君に贈ったものなんだろう?」
「ど、どうしてキィさんがそのことを知ってるんですか……?」
キィは悪戯っぽく笑い、親指で窓を指し示す。
「此処から中庭は丸見えなんだよね。特等席で拝ませてもらったよ」
かっとエリシュカの頬に朱が差す。見られて困る様な事は何もなかったはずだが、胸の内が蜂の巣をつついた様に騒ついている。
ベロニカが何故か神妙な顔付きになって、エリシュカを見る。
「エリシュカ……アンタまさか……」
しかし、キィは皆まで言わせない。ベロニカの肩にそっと触れて再度押し留めた。
「ロイには君を守るという執着──いや、目標が出来た。君に生きる理由を見出したのなら、僕の治療は彼にはもう必要ない。少なくとも、ロイに苦痛を与えてまで薬の開発を急ぐ理由はなくなった」
キィはそこで一旦言葉を切るが、視線はエリシュカを鋭く射抜く。
「だからこそ、君にはロイを守るために自分が死ぬなんて絶対に言わせない。……二度も彼から生きる理由を奪わないでやってくれ」
エリシュカは両手で顔を覆い、はらはらと静かに涙を零した。
“使徒”という肩書きを無くしても、見限るどころか寄り添ってくれる大人がいるというのは本当に心強かった。何より、ロイの心情の変化を知る事が出来たのは、エリシュカにとっては救いの光明だ。
──生きて欲しいと願ったことは、無駄じゃなかった。……よかった。
「キィ……アンタって奴は本当に……放っておいたら何を言い出すか分からないね」
ベロニカがキィのお喋りを咎めるようにキィを睨め付けるが、キィは少し疲れた顔で笑うばかりだ。
「折角助けた命に死ぬなんて言われちゃ堪りませんからね」
「それはそうだが……しかし、ロイは──」
「心配しなくても、ロイならこれ以上エリシュカに絆されることもないと思いますし」
それに、とキィは掠れた声で続けた。
「僕はヴィーラの兄として……彼女に恥じない選択をしたくなったんです」
兄という言葉を聞いて、は、とエリシュカは息を呑む。自分が敗北した相手は“魔女”ではなく、実の兄であったことを漸く思い出した。
「あ……あの……今回の任務の事で報告しなければならないことがあります」
表情を引き締めたベロニカとキィを見て、エリシュカは一瞬だけ逡巡する。
アルフレートと交戦したことをベロニカに報告すれば、協会は兄の討伐を命ずるだろう。そうなれば戦火は避けられない。だが、アルフレートが危険に晒されることを恐れて黙っていれば、吸血鬼狩り達が死ぬ。
だが、仲間の死を見過ごせるほど、エリシュカは薄情ではない。少なくとも協会に所属している誰もが、エリシュカのかけがえの無い戦友になっていた。




