第百十八話 昏い夜、明けども
エリシュカが目を開けた時、その視界は酷く滲んでいた。何もかもがぼやけて輪郭が判然としないのは、雨垂れの窓を覗いた時によく似ている。それで、何かがエリシュカの目を濡らしているのだとすぐに分かった。
エリシュカは塞がった涙を払うように力なく瞬く。霧が晴れたように視界が開けて、新雪のような白が世界を埋め尽くした。
美しささえ感じる光景に、エリシュカは、自分が天の国に召されたのだと淡く確信する。
──それならそれで……構わないわ。もう、何もかもどうでもいい……。
“御使い”の加護を無くしたエリシュカは狩人としては余りにも未熟だった。どう足掻いても勝てない──ならば、エリシュカの敗北は僥倖だとも言えるだろう。死ねば──エリシュカはアルフレートにこれ以上、身も心も傷付けられずに済む。
だが、神はエリシュカの痛切な逃避を決して許しはしなかったようだ。怯懦に身を委ねた瞬間、ずきり、と目の裏に釘を撃ち込まれたような痛みが走った。
「いた……っ!」
エリシュカは身体を強張らせ、両手で顔を覆った。アルフレートに踏み躙られた左手は、感覚がどこか遠い。
「エリシュカ!」
男の叫び声がした。エリシュカが恐る恐る両手を退けると、飛び込んできたのはキィの顔だった。その顔が今にも泣き出しそうに歪んでいた事を、きっとエリシュカは一生忘れないだろう。
「よかった、目を覚ましてくれて……! 本当に良かった……!」
キィがエリシュカの右手を取り、額に頂く。小さく神への感謝を捧げると、机の上に無造作に投げ出された聴診器を掴んだ。
「……っ、キィ……さん……私……」
「今は喋らないで。身体の音を聞かせてくれ」
医師にそう言われればエリシュカは黙るしかない。戦闘はあれからどうなったのか、仲間達はどうなったのか──聞きたいことは山とあるのに。
エリシュカが大人しくなったことを確認し、キィはエリシュカの胸元を寛げる。その時初めて、エリシュカは血で汚れた襯衣ではなく、清潔な患者着に着替えさせられていた事に気付いた。
「大きく息を吸って、吐いて……そう……」
エリシュカの胸や腹に冷たいチェストピースが当たる。ほんの数秒のことで、器具の冷たさを感じる暇も無かった。
キィの診察の手腕は、エリシュカも舌を巻くほどである。特に判断の早さに関してはカタルジュ家の侍医をして持ち得なかったものだ。
やがて、顔を上げたキィの表情からは、すっかり険しさが消えていた。
「うん……よかった、すっかり持ち直したようだ」
「私……そんなに酷い状態だったの?」
キィは頷きながら、エリシュカの患者着を整えてくれる。
「輸血が必要なくらい大量に出血して、三日間昏睡状態だった。ここに運び込まれるのが十分遅ければ、今頃どうなっていたか……」
キィの説明を何となしに聞きながら、エリシュカはセルゲイに告げられた言葉を思い出す。
──次に見える時は、今度こそ元気な子種を宿しておくんだよ。
悪寒を催す悪意がエリシュカの思考を黒く塗り潰していく。まさかとは思うが──気絶している間に、この身体はあの老爺に玩弄されたのだろうか。
「あ、あの……出血だけですか? 他に何か異常は……?」
エリシュカの顔色を見て、キィの表情が引き締まった。
「何か気になることがあるのかい? もしかして、あの怪我以外にも何か……?」
「わ、分からないの。でも……でも……」
いつになく歯切れの悪いエリシュカに、キィは安心させるように笑った。
「大丈夫だよ、とにかく一度全身を診察してみよう。もし何かあっても、すっかり元通りに治してあげるからね」
エリシュカとキィは一度吸血鬼を人間に戻す薬──女神の妙薬の開発方針を巡って衝突している。だが、キィはその禍根を残すことなく、今この瞬間も献身的な医師としてエリシュカに接してくれている。その事が、エリシュカには何よりも有難かった。
だが、キィの言葉を受け止めて尚、エリシュカの表情は真っ青のままだ。
エリシュカは既に知っている。たとえ全ての傷が治ったとしても、《《傷を負わされた事実そのもの》》は永劫消えることはないのだ、と──
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一刻後、キィのやつれた顔には仄暗い笑みが浮かんでいた。
「一通り診察した結果──やはり太腿の怪我以外に異常は無いようだね。ただ、十日間は絶対安静だよ。それに、身体もそうだが、心の傷の方が深そうだ」
エリシュカはそっと詰めていた息を吐く。どうやら、老爺の言葉はただの脅しであったらしい。もしくは、次にセルゲイに歯向かえば言葉通り女の地獄を見せてやるという牽制だったのかもしれない。
安堵した途端、抗いがたい眠気がエリシュカを襲った。萎えた身体が一段と重くなる。
エリシュカは慌てて目を瞬いて眠気を散らした。己の安全だけを確認してそれで仕舞いにするわけにはいかない。エリシュカは班で動いていたのだから。
「私のことはもういい。他の皆は? ……無事、なの?」
「エリシュカ……」
「どうなの?」
キィの表情から何かしらの情報を汲み取れないかと、エリシュカは痛ましい面を凝視する。返事を待つ時間ですら、今は惜しかった。
「命があるかという質問なら、そうだね……全員無事だ。だが、君と同じくらい酷い有様だった。今はそれぞれ外部の病院に入院中だよ」
エリシュカは右手できつくシーツを握り締める。
「……私が……私がうまくやれなかったせいだわ……! そのせいで皆が怪我を負ってしまった……!」
今回、“魔女”を討伐する作戦を立案し、実行したのはエリシュカだ。彼らの負傷の責任は全てエリシュカにある。
「それは違う、エリシュカ」
キィはそっとエリシュカの右手に触れ、硬直したように震える拳をそっと開いた。草臥れた声は意外にも力強く、エリシュカの胸をどうしようもなく突いた。
「君が先陣を切って“魔女”の【魔眼】の力を弱めてくれたから、全員死なずに済んだんだ。……皆感謝していたよ」
エリシュカの目からじわりと熱いものが込み上げる。
どうして、と震える声でエリシュカは喘いだ。自由にならぬ身体では見苦しいその様を隠すことも叶わない。
「どうして、優しくするの……! 私……もう役に立たないのに……! “使徒”じゃなくなってしまったのに……!」
「…………え?」
キィは苔色の瞳を見開き、息を呑んだ。その顔に失望が浮かぶのを見たくなくて、エリシュカは咄嗟に顔を逸らした。
その瞬間、壁を殴ったような打音が医務室に響く。何が、と確かめる前に鴇色の髪がエリシュカの視界を占領する。
協会長──ベロニカだ。どうやら、逸る余りに扉に義足をぶつけたらしい。
「エリシュカ! 目を覚ましたんだね……! よかった……!」
知命を超えた女とは思えない膂力に抱き締められ、エリシュカは顔を歪めた。無礼と知りつつ右手でベロニカを押し退け、悄然と俯く。
「ごめ……ごめんなさい……協会長。……あんなに良くして下さったのに、私……もう協会のお役には立てないんです」
アレス様が、とエリシュカは涙声で喘いだ。
「“御使い”の意識が私の身体の中から消失しました。何度呼び掛けても、応じてくれないんです」
ベロニカとキィが顔を見合わせる。豪放磊落を地でゆくベロニカであったが、かつてないほどその表情は険しい。
「……それで?」
エリシュカは、あちこち痛む身体を起こし、下げられるだけ頭を下げる。
今ならば、“魔女”を取り逃したロイがあれ程自責の念に囚われていた理由が痛いほどよく分かる。
エリシュカが得た天与の力や“使徒”の肩書きは、否が応でも人々の期待と羨望を集めるのだ。吸血鬼ながら人に与したロイも同様の視線に晒され続けて来たはずである。
勿論、巨大な力は人々を救うために振るわれるべきであり、エリシュカもロイもその責任を果たし続けて来たと自負している。だからこそ、エリシュカはベロニカに尊ばれ、ロイは人間の世界で生き長らえて来られたのだ。しかし──失態を犯せば、期待は容易く失望に塗り替えられる。
──失望されたくない。見限られたくない。
されど、なまじ力を持っていたせいで申し開きすら許されない──その現実を、エリシュカは未だにしっかりと受け止めきれずにいる。
「お願い……お願いします……私、私……お役に立てなくても命を賭して戦います。死んで天の国へ行けたら、次の“使徒”を早く選んでくれるよう神様にお願いしますから」
だから、とエリシュカの喉から血反吐を吐く様に言葉が溢れる。
「ロイとユオンを切り刻む実験の再開だけは……やめてください……」




