第百十七話 壊れた玩具※※
「……………………は?」
愛玩物という言葉にエリシュカは大いに惑乱し、吐息のような声を漏らした。しかし、それきり二の句が継げない。
兄を愛玩物と宣うこの老人の不敬は万死に値するが、アルフレートもアルフレートだ。これほどの恥辱を受けて、アルフレートは何故この男の不遜な言葉を咎めないのだ。せめてエリシュカに対して何か申し開きをしてくれれば、こんなにも心乱されることはないというのに。
静かに怒りの焔を育てるエリシュカを裏切り、アルフレートはセルゲイの掌にそっと頬を寄せる。その掌を至上のものとするように彼は唇を寄せた。心服する飼い主に甘える犬とはまた違う──艶やかな暗影を帯びる空気を、エリシュカの肌と心はまだ知らない。
「……おやおや、愛する妹には目もくれずに、おねだりかね? ここには寝台もないというのに、随分とはしたないことだ」
セルゲイはアルフレートの行為を咎めるが、言葉とは裏腹にこの状況を楽しんでいるのは明らかだ。その証拠に、エリシュカが退廃の香りを嗅ぎ取って顔色を変えた瞬間、セルゲイは鋭い牙を隠さずに笑った。
「それとも……見られる方が好みかな?」
セルゲイの手がアルフレートの唇を撫で、唇から覗く舌先を弄び始めた。エリシュカはおろかオフェリアにさえ見せたことのない甘さが、肉付きの薄い頬にほんのりと滲んでゆく。
「あ…………」
アルフレートは睫毛を震わせ、口内に指を招き入れる。鋭い牙を突き立てるわけでもなく、甘く食んではねっとりと唾液で濡らす。
一体、幾度あられもない薫陶をその身体に注ぎ込まれたのだろう。首を傾げる角度から、声の湿り気に至るまで、この老いぼれの暗い欲望を悦ばせるための作為で塗り潰されてしまっている。
エリシュカは、憤怒した。
「……き……っ……貴様ぁぁ!!!」
エリシュカは噛み締めた唇から血を滲ませながら、セルゲイに斬り掛かった。構えた短剣は躊躇いではなく、迸る殺意で切っ先が震えた。
この男の愚行を絶対に許してはならない。首を斬り裂き、圧し切り、全身を遍く斬り刻んでもまだ足りない。この男の薄っぺらい尊厳を破壊し尽くさねば、エリシュカの溜飲は下がりはしない。
エリシュカの殺意を一身に受けているはずだが、セルゲイは悠然と佇み、動かない。エリシュカの殺意を些事と侮っているのか、それとも──穢れた戯れに夢中なのか。
「殺してやる……! その薄汚い手で! 私の兄様に触れるな──!」
エリシュカは短剣を大きく薙ぎ払い、セルゲイの首を切り裂く。初撃は思いの外浅い。老いて弛んだ皮膚がまるで鋼鉄の様に刃を弾いたのだ。
だが、エリシュカは追撃の手を緩めない。たとえ相手が巌のような硬さを誇っていたとしても、穿つまで攻撃を叩き込むことは出来る。
「──愚かな」
しかし、エリシュカの二撃目をアルフレートは許さなかった。身に纏っていた甘い空気を、憂いた溜息で蹴散らし、血の剣を振るう。一閃──というには余りにも穏やかな剣閃である。
一拍置いて、エリシュカのスカートの一部が無残に切り裂かれた。左の太腿にうっすらと赤い線が刻まれた瞬間、大量の血が噴泉のように噴き出し、汚れた床を更に汚した。
「あぐ……っ!」
以前アレスが交戦した時のアルフレートとは明らかに戦い方が異なっている。剛にものを言わせた苛烈さではなく、優美を良しとする軽やかな剣筋が却ってエリシュカの判断を狂わせるのだ。更に、大量の出血を促すという呪いが加わったことで残酷さが増した。
「あぁぁぁぁ──!」
エリシュカは横倒しになり、痛みを堪えきれずに右足を無様にばたつかせた。露わになった太ももの傷を咄嗟に手で押さえるが、流血は一向に止まらない。
「ど、うして……!」
見た所、傷はそれほど深くない。大量の出血を伴う様なものではないはずだ。しかし、エリシュカの見立てとは裏腹に、エリシュカの血液は──命は刻一刻と失われていく。意識が、朦朧とぼやけていく。
アルフレートはエリシュカの手ごと傷口を踏み躙った。ごり、と鈍い音がした後、痛みが脳天を焼きエリシュカは悲鳴を上げる。
「ぎ……っ! あああああぁ──っ!」
指先が痙攣し、軋む。だが、一本たりとも欠けてはいない。未だ五体が揃っている。
戦う力を喪失しなかったのは、エリシュカにとって僥倖である。同時に、意識を失う機会を逸した不幸は、最早悔やんでも悔やみきれない。
「兄様……! 目を……覚まして……!」
エリシュカは断続的に襲う痛みに狂気すら宿しながらも、右手に持った短剣を決して手放さなかった。最早短剣を振り上げる力もなく、兄の編上靴の甲に突き刺す。
多く銀を混ぜ込んだ黒い刃は、心臓を穿たなければ致命傷にはならないとは言え、怯ませることなら出来るはずだ。
叶うならば──とエリシュカは睫毛を震わせる。
──兄様が正気を取り戻すほどの苦痛を与えて欲しい。
エリシュカは穢らわしい願いを短剣に乗せる。──今この瞬間、エリシュカは唯一の肉親の苦痛を望む余りにも厭わしい存在に成り下がったのだ。
だが──
「……!」
ぱきり、と黒の剣身が小さく鳴いた。刃はアルフレートを貫くことなく、尖った破片が床をころりと転がる。
銀の短剣は怪物への特効の奇跡を発揮しないまま、静かにその役目を降りたのである。
アルフレートは柄頭でエリシュカの側頭部を殴る。異様な膂力を持つ吸血鬼にとって、それは戯れに小突いた程度のものだったのだろう。
だが、失意に呑まれたエリシュカは仰向けに倒れたまま動けなかった。呼吸をする度に胸にじくじくとした痛みが走り、視界が絶望の色に染まっていく。
「あちゃあ……アルフレート、君、やり過ぎだよ。この娘には我らの王のために最後の仕上げをしてもらわねばならない。今ここで殺すのはあまり宜しくないんだよねぇ」
エリシュカを覗き込むように、セルゲイが立っていた。その表情は暗闇に閉ざされて感情が窺えない。
「申し訳ございません。“使徒”がこれ程までに弱いというのは想定外でした」
アルフレートの謝罪に悪びれたところはない。その太々しさにセルゲイは気を悪くするどころか、愉快そうに大口を開けて笑った。
「全くだ。“御使い”さえ完封するとは“魔女”の【魔眼】は本当に恐ろしいものだねぇ」
「完封? “魔女”は死を願うほどの不幸を撒き散らしたにも関わらず、“使徒”はまだ生きています。“御使い”が【魔眼】の力を奪ってしまった証左でしょう。甘く見積もっても痛み分けが関の山だ」
セルゲイは呆れたように肩を竦めた。
「君は私が誰かを褒めると機嫌が悪くなるねぇ。男の嫉妬は見苦しい──いや、うそだよ。君はとても可愛い。今すぐに寝台に連れ込みたくなる程だ」
セルゲイの焦る声は、空気の紗幕を被せたように遠い。
「もう、引き上げるのですか?」
アルフレートの声が僅かに丸くなる。その響きがエリシュカの耳には死ぬほど痛い。
「……嬉しそうだねぇ? 私としてはもっとこの可愛いお嬢さんを可愛がってあげたいのだが」
「“御使い”の加護のない、壊れた玩具にまだ興味がおありで?」
二人の応酬には、何故か先程までの甘さが抜け落ちていた。しかし、エリシュカがその絶妙な差異に気付くより前に、セルゲイが軽く鼻を鳴らし、白い口髭を弄んだ。
「仕方ないね。……余り長居をすると“魔女”が狩人達を皆殺しにしてしまいかねない。宣戦布告に来た意味がなくなってしまう。」
こう言ってる間にも、何人かはもう死んでるかも知れないけど──とセルゲイは笑いながら最悪の予想を付け加える。
エリシュカはそこで漸く、自分が討ち漏らした“魔女”の相手を仲間が引き受けてくれたことを知った。そして、危機に瀕していることも──
──みん、な……。
エリシュカの目尻に透明な雫が滲む。泣きたいわけではない。叶うならば、今すぐにセルゲイを討滅し、皆を救いに行きたい。だが、満身創痍のエリシュカの身体は今にも長い眠りに沈みゆこうとしていた。
──きっと、ロイなら……皆を助けられたのに。
清らかな雫が床を濡らす。その刹那、セルゲイは命のやり取りが目の前で行われたとは思えない、酷く間の抜けた声を上げた。
「おっと、忘れる所だった。“沈んだ善き魔女”からお嬢さんへの伝言を預かってるんだった」
セルゲイはエリシュカの傍らに片膝をつき、その下腹部を優しく撫でる。エリシュカは愛撫に似た蹂躙を拒絶することは叶わなかった。きっと──命を宿したと偽りを吹聴した罰が当たったのだ。
男は色違いの瞳を細めながら、呪いを唇に乗せる。
──次に見える時は、今度こそ元気な子種を宿しておくんだよ。可愛いお嬢さん。
怪物の底知れぬ悪意を受け止めきれず、エリシュカは遂に意識を手放した。
この日、エリシュカ率いる狩人達は、悍ましい怪物達に完膚なきまでに敗北したのだ──




