第百十六話 漆黒の騎士、災厄の再来※※
(重要:BLというかMLががっつり香ります。ご注意ください)
エリシュカは闇の中に放り出された。つきり、と刺すような痛みが胸に走る。とくとくと拍動する心の臓に呼応して冷えきった指先が痙攣した。
「く……っ。うう……」
エリシュカは呻きながら床に手を這わせる。瞼はまだ開かない。焦茶色の瞳は我が身に起きた現実を直視することを拒んでいるようだ。あるいは、戦士として鍛えた身体は完全な覚醒よりも、短剣を探すことを優先したのかもしれない。
指先に硬い感触が触れる。エリシュカは弾かれたように目を見開いた。右手で短剣を逆手に構えながら上体を起こし、薬品棚に背を向けて周囲を見渡す。
相変わらず廃屋の中は薄暗い。周囲には複数の官憲とバージルが倒れていた。死んではいないと思うが、一様に意識は無いようだった。あの女吸血鬼の姿も何処かへと消えている。
如何なる理由にしろ脅威は目前から去った──そうエリシュカが理解した瞬間、ずきりと胸が痛んだ。悲鳴すら上げられないほどの痛みに、患部に触れることすら躊躇する。肌が燃えるように熱い。
エリシュカは恐怖を押し殺し、そっと指を襯衣の隙間に差し入れる。痛みをなぞると、指に鋭い痛みが感染した。思わずエリシュカが手を引くと、ごく薄くだが指の腹の皮膚が裂けていた。
「……傷口に魔除けの破片が刺さったみたいね」
死ぬほどの怪我ではないと判断して、エリシュカは詰めた息をゆるゆると吐き出す。
意識を失う直前、あの女は死ねと叫びながら【魔眼】の力を使っていた。魔除けが砕けたにも関わらず、まだエリシュカの命があるということは、アレスの持つ権能があの女の力を奪ったのだろう。
「……アレス様のお陰で助かりました」
エリシュカは声を絞り出す。しかし、神妙な謝恩の言葉に応える声は無い。
「アレス様……?」
エリシュカは再度話しかけるが、やはりアレスからの応答はない。慌てて体の内側に意識を向けると、頭の中に自分以外の何者かがいるという、名状し難き独特の感覚が無くなっていた。
僅かに残っていた一人分の虚は、すぐに自我という水で満たされる。瞬きの間に、アレスがいたという痕跡は全て洗い流されてしまった。
「……不幸の【魔眼】のせいなの……?」
エリシュカは唇を噛む。アレスの権能のお陰で即死こそ免れたが、それに近い不幸が起こっている。アレスが消えた──ということはエリシュカは戦力としては二枚落ち、いや三枚落ちしてしまったに等しい。
エリシュカの額に脂汗が浮く。心臓が徐々に早鐘を打ち始めた。エリシュカの意志とは関係なく、心臓はこの身体を生かそうと奮闘している。
だが、アレスの助力がない状態で“魔女”と戦えるのか。ロイの隣で、狩人を続けられるのか。何よりも──アルフレートを取り戻せるのか。
──これから……どうすればいいの? 私……私は……!
ロイとの別離でさえ、ここまでの焦燥に胸を掻かれたりはしなかった。憎まれ口しか叩かない、憎たらしい上位存在だが、その存在はエリシュカの精神的な支柱であり、生きる術の全てであった。その喪失は、エリシュカにとって最早致命傷に近い。
──ロイ……お願い、知恵を貸して!
エリシュカの祈りに応える様に、ざり、と外から床を踏み締める音がした。しかし、踏み込みは深く鋭い。その音よりも速く、殺意がエリシュカの首を掻き斬った。
エリシュカは、ひゅ、と息を呑む。反射的にその場から転がって距離を取った。その刹那、エリシュカがいた場所を赤い刃が食む。その禍々しさたるや、まるで──血そのもののようだ。
エリシュカは素早く起き上がって、剣の使い手を睨む。
黒い上着と脚衣と編上靴は軍将校の纏う装束によく似ている。相手は深紅の片羽織を纏っており、結われていない長い髪が、夢に遊ぶ蝶の様に軽やかに舞う。それは昏い悪夢すら退ける、木漏れ日の様な金色をしていた。
「……いい反応だ。なるほど、少しは揉まれて来たらしい」
冷たい声色に、エリシュカは目を見開いた。ずっとずっと、聞きたかった。アレスの返答がないことすら、今となってはどうでも良い。
「兄、さま……」
あれほど再会を夢見たアルフレートが、今、エリシュカの前にいる。しかし、会いたかった、と言葉をエリシュカは飲み込む。震える手で短剣を構えるが、その手は情けないほどに震えていた。
アルフレートは明らかにエリシュカを殺すつもりだった。彼の持つ赤い剣は、剣身の半ばまでもが床下に埋まっている。
「ど、うして……兄様はリュミドラの支配を破って、正気を取り戻されていたはずでしょう……?」
アルフレートは絶望に揺れるエリシュカを完全に黙殺した。血の剣を床から引き抜くと、扉をちらりと振り返る。彼はそこに何を認めたのか、道を開けるように脇に退き、膝を折った。
エリシュカはかっと頬に血を昇らせる。兄は辺境伯家当主であり、王族を除いては誰も彼に跪かせる事など出来ない。──そのはずだ。しかし、アルフレートは自らの意志で膝を土で汚した様に見える。
いや──とエリシュカは胸中で強く否定の言葉を口にする。最早アルフレートの意志の奈辺などエリシュカには関係はない。エリシュカが、誇り高き兄が頭を垂れている姿をこれ以上見ていられない。それだけだ。
「兄様、もうやめて! お願い!」
エリシュカはアルフレートに駆け寄る。だが、その足は一歩踏み出したものの、重々しい空気に怖じけて頼りなく竦んだ。
アルフレートの碧眼が、エリシュカの無作法を咎めるように鋭く、細くなる。
「侯爵閣下の御前だ。静粛に──」
「構わんよ。年若いお嬢さんの粗相など気にしないさ」
突然湧いた嗄れた声は侮りよりも悦楽が僅かに勝る。エリシュカには、その悪意の源を到底無視出来ない。声の主を探すと、仕立ての良い濃紺の背広に外衣を羽織った吸血鬼が立っていた。
その立ち姿は老獪な貴族そのものだったが、不意に、エリシュカはこの吸血鬼の異常さを理解する。総じて若く美しい姿を持つ吸血鬼だが、この男は白い口髭と髪を蓄え、顔にはそれなりに深い皺が刻まれている。──老いているのだ。
「──やぁ。いい"夜"だねぇ、お嬢さん」
老吸血鬼の灰色にくすんだ茶色の瞳が規則性もなく縦横無尽に動く。やがて左目が時計の秒針のように小刻みに揺れながら瞼の上に隠れ、代わりに金瞳がエリシュカを睥睨した。
忘れもしない──この男はあの日アルフレートを攫った災厄そのものだった。
「貴方……! やっぱりあの時の!」
老吸血鬼は機嫌のよい足運びでアルフレートの前に立つ。
「そういえばあの時は自己紹介もしていなかったね。私の名前はセルゲイ。セルゲイ・アル・グレイ・ガルシニアス。どうぞ、お見知りおきを」
そして、とセルゲイは頭を垂れるアルフレートの顎をするりと撫ぜる。犬を愛撫する様な仕草だが、アルフレートは怒りも見せずにまるでそれが合図だったかの様に顔を上げた。
貴婦人たちを虜にした兄の美貌は相変わらず健在である。──否、一年の空白を経て、ぞっとする程磨き上げられていた。男のそれだというのに、薄く開いた唇は薄く色付き、得も言われぬ芳香が匂い立つ。
「……ああ、いい子だねぇ」
セルゲイは慣れた手つきでアルフレートの頬を撫でる。その指先が耳の後ろを擽り、アルフレートがその掌に頬を寄せる。一筋の金糸がするりと滑らかにセルゲイの手の甲を擽った。
ただ、それだけのこと。だが、エリシュカの心は酷く騒めく。胃の底を捏ね回された様に不快だった。
セルゲイは、何一つ察することの出来ないエリシュカを小馬鹿にするように笑った。その瞬間、紳士の仮面が剥がれ落ち、老爺の面には陶酔にも似た好色さが浮かんだ。
「改めて紹介しよう。愛しい娘の騎士兼私の愛玩物のアルフレートだよ。……ご覧、とても愛らしいだろう?」




