第百十五話 然らば、さらば──
アレスが“魔女”を獲物と見定め、駆け出すと同時に、廃教会の扉から数名の官憲が雪崩込んで来た。転倒したバージルに殺到し、口々に罵倒の言葉を浴びせかける。
「こんなガキのせいで警部補殿が死んだってのかよ……! この……クソ野郎がぁ!」
アレスはむくつけき男共の雄叫びを背中で聞く。暴行まがいの捕り物になど最早興味はない。
“魔女”は慌てて外套を手で払いのけるが、その間にもアレスはその距離を五フィートほどまで縮めていた。
「ひっ……!」
“魔女”は棒を飲んだ様に竦み上がった。抗っても苦しみが長引くだけだと本能的に知っているのだろう。
アレスは短剣に力を込める。その瞬間、切っ先から白い光が幾筋も放たれ、箒星のように長い尾を引く。──吸血鬼を落魄させる、奇跡の発現である。
本来、陽の光に力を縛られた吸血鬼相手に撃ち込むには過分な力だ。だが、アレスには容赦も油断もない。その心にあるのは神への心酔と、神を冒涜した愚者への怒りばかりだ。
「よりにもよって教会を穢しやがって……! お望み通り踏み潰してやるよ、この虫けらがァ!」
アレスのこめかみに青筋が浮く。その切っ先を阻むものはなく、今にも左胸へと吸い込まれようとしている。
「侯爵様! どうか、お慈悲を! お助けくださいまし!」
その刹那、アレスの背に幾億もの毒虫に噛まれた様な悪寒が走った。“御使い”として下界に降臨して初めての感覚は、到底無視出来るものではない。
その不快の正体を確かめるより先に、背徳の社に不穏な翳りが差す。太陽が分厚い雲に覆われた──というより、闇が布のように広がり空を包み込んだと形容する方が正しい。こんなものは、単なる自然現象では有り得ない。
そう理解した瞬間、アレスは手首にねっとりと蛇のような闇が絡みついた──ような錯覚に襲われる。勿論、唐突に蛇が現れるはずもなく、しかもアレスがその気配に気付かないはずもない。
しかし、アレスの手首には万力で締め上げられたような痛みが走った。その瞬間、短剣の切っ先が震え、至高の光の勢いが僅かに衰える。
「これは……この女の【魔眼】の力か……!」
アレスが左足で床を蹴る。しかし、足が重く思うように前に進めない。分厚く粘性のある空気に阻まれている様でもあり、激しい水の奔流を受け止めているかの様でもある。
いつの間にか、やかましく騒いでいた官憲達の怒声もすっかり鳴りを潜めていた。
アレスはすぅ、と肺を空気で満たす。アレスから見ればまだまだ未熟な臓器は、想定の八割程度しか膨らまなかった。
「狩人共、動くな! 新手に警戒しろ!」
アレスは外に控えているであろうアイザック達に指令を下す。
“御使い”のアレスは女の【魔眼】の影響下に晒されても動けるが、たかが人の仔が喰らえばひとたまりもない。たとえ魔除けを持っていたとしても、死を僅かに遅らせるだけだ。
それに──新手は昼間にも関わらず、同胞を救う為に天候を操った。いやらしいやり口にアレスは覚えがある。
──あの吸血鬼がこの女の背後にいやがる!
かつて、淫蕩の悪鬼リュミドラに力を貸し、アルフレートを攫ったエリシュカの天敵がすぐ近くにいる。──あるいは、奴だけでなくアルフレートも近くにいるかもしれない。
アレスはぎり、と歯ぎしりをする。分厚い空気の層にずぶずぶと切っ先を埋める。
「クソジジイ! 次はテメェだ! 首洗って待ってろォ!」
短剣が更に強い聖なる白い光を纏った。と同時に、服の中でアレスが身に着けていた魔除けが完全に砕けた。アレスは砕けた破片を一身に胸に受け、低く呻いた。破片は器の柔肌を裂き、白い襯衣を赤く染めた。
それを見た《魔女》は勝ちを確信したように笑った。
「まぁ、魔除けを持っていたのねぇ。準備のいいこと。もっとも……その様子じゃ、砕けちゃったみたいだけど」
“魔女”の瞳の動向が一条の爪痕の様に大きく裂けた。その瞬間、心臓が砕けるような苦痛が全身に走った。全身からぶわりと玉のような汗が浮かぶ。
「ぐ……ああぁぁぁ……っ!」
アレスは左手で襯衣の胸元を引っ掻く。心臓が不規則に動悸を繰り返し、息が乱れる。ともすれば、今にも膝を屈しそうになる。
アレスの様子に女はせせら笑った。ただ、物理的な手段でアレスの息を止めようとしない様子を見るに、“魔女”も動く余裕はないらしい。
「あら、まだ死なないの? なまじ頑丈なせいかしらぁ? 抗えば抗うほど苦しみは長引くのよ、可哀想にねぇ」
やかましい、とアレスは喘ぐ。たった五文字の言葉すら何度も胸の辺りで支える。
ばき、と服の下で石が割れる音がした。アレスのこめかみを嫌な汗が伝う。
協会で配られた魔除けは既に砕け散った。これは──ロイに贈られた魔除けが悲鳴を上げているのだ。
「ああ、あ、ああァァァァァァッ! な、め……っ、舐め、ん、なァァァ!」
アレスは渾身の力で短剣を押し込む。柔らかな抵抗が唐突に消失し、白い剣身が“魔女”の右肩に食い込む。心臓を狙ったはずの一撃は何故か外れた。
“魔女”の悲鳴が落雷の様に迸る。一瞬、アレスの拾う全ての音が遠ざかり、次いで金属音の様な高い音が耳介を塞いだ。
「チッ……この、化け物がァ!」
この魔除けは贈り主のロイが触れるだけで肌を灼き、身も心も弱らせるような代物だ。にも関わらず“魔女”の【魔眼】の効果を完全に弾くことが出来ない。
だが、アレスの奇跡は触れた箇所から全身に巡る。魔眼の力を封じることは可能だ。少なくとも、協会で配る屑石の魔除けさえあれば即死は免れる。
だが、アレスの魔除けにも限界が近付いている。びきびきと石に亀裂が走る音が先程から止まらない。
「この小娘が! お前はもう死ね!! 死に晒せ!!」
“魔女”は貞淑の仮面をかなぐり捨て、目を見開く。空気の塊を撃ち込まれた様な衝撃に、アレスの心臓が大きく跳ねた。直後、油と火で焼かれるような痛みが走り、アレスをして死の予感が頭を過る。
その瞬間、ロイから贈られた魔除けの天眼石が大きく割れた。ころりと服の中で転がり、それきりだ。まるで、エリシュカの死の定めを肩代わりしたかのように、冷たく静まり返っている。
ぷつり、と微かな音がアレスの脳内に響く。月日を重ねて太く撚り合わされたはずの糸が、下界との繋がりが、細い繊維を一本ずつ切り裂くように断たれようとしている。
──まずい!
思念が引き裂かれる──いや、引き剥がされようとしている。
アレスは足掻くように手を伸ばしたが、急速に光の中に引き戻されていく。小指に絡む、蜘蛛の糸よりも細い一糸を手中に収めるのが限界であった。
下界の闇は、既に目が眩むほどに遠くなっていた。




