第百十四話 冒涜の社、開戦の咆哮
新たな“魔女”の家は小劇場から然程離れていないと、バージルは言った。実際、彼は杖だけを伴にして歩き始めた。
エリシュカはすかさずバージルに手を添え、歩行の覚束ない身体を支えた。そうして、嘘という化粧で美しく整えた笑みを浮かべてみせる。
しかし、それを色気と名付けるには熱情も艶も余りにも乏しい。だが、恋に狂い盲目的になったバージルに、女の虚飾を見破れるはずもない。
案の定、エリシュカの行為はバージルの琴線に触れたらしい。彼は感じ入ったように唇を震わせる。
「あぁ……ありがとう、エリシュカ。やはり君は私に相応しい、素晴らしい女性だ」
良いのよ、とエリシュカは控えめに笑う。否──鮮やかに笑うことが出来なかった。
そもそも、バージル・スターンは唾棄すべき犯罪者である。本来ならばエリシュカが手を貸す義理も道理もない。本音を言えば、今すぐに外で待機している官憲達に引き渡したいくらいだ。
だが、エリシュカは演技とはいえ、この男に情愛を生々しく吐露してしまった。思慕を傾けた相手の苦境を黙って見ているだけと言うのは余りにも外聞が悪すぎる。
「“魔女”様の所に案内をしてもらうのだから、当然よ。足元に気を付けて。ゆっくり……そう……私に体重を掛けてもらって構わないから」
そう言った途端、男の身体がエリシュカに密着する。無遠慮な重みと共にバージルの手がエリシュカの背中に回された。止める間もなく、薄い掌がねっとりと背筋をなぞる。
エリシュカは、胸中で派手に悲鳴を上げた。
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マグワイア通りは一昔前、それなりに裕福な層だけでなく、それなりに生活に余裕のある労働者階級が利用していた、それなりの商業地区だったらしい。ただ、神の気まぐれがなければ貧富の二極化はじわじわと進む。その変化に対応しきれず、溺水する様に静かに歴史の闇に沈んだ──というのがその顛末の様だ。
エリシュカは周囲を油断なく見渡しながら道筋を頭に叩き込むが、果たして無事に協会に帰れるか、既に雲行きが怪しい。
マグワイア通りは貧民窟の中でもしっかりと骨組みを残した中層の廃墟が、まるで迷宮の壁のように立ちはだかっている。放棄された看板を幾つか発見したが、皆尽く文字が潰れて既に判別が出来なかったのだ。
──ここ、さっきも通った気がするわ。
エリシュカは不審の目をそっとバージルへと向ける。
バージルはエリシュカに“魔女”の家の経路を記憶させまいとしているのか、狭い道は危ないと迂回したり、道を間違えたと引き返したりを繰り返していた。エリシュカの体感では小劇場の跡地を出てから、既に四半刻は経過している。
──随分と警戒心が強いこと。その危機感は正しいけれど、本当に嫌な男だわ。
エリシュカは憤然と腹の中に不満を吐き捨てる。確かに体重を掛けても良いとは言ったが、密着し過ぎだ。その上、仮にも妊婦だと打ち明けた女を長々と連れ回すなど余りにも優しさがない。此処に至るまでにエリシュカが彼に抱いた不満ならば既に十月十日分、充分に育ちきっていた。
──そこまで頭が回る様な奴に見えねェけどなァ。
渦のように目まぐるしく巡るエリシュカの思考を、不機嫌そうなアレスの声が遮る。語尾に残る剣呑な音は猛獣の唸り声によく似ている気がする。
──アレス様。じゃあどうして彼はこんな回り道を?
仲間達との作戦会議からずっとこの調子なのだ。強敵と戦いたいアレスにとって、昼間の討伐は不本意なのだろう。
──単純に……エリシュカと二人きりで、くっつきたいだけじゃねェか?
聞き捨てならない言葉に、エリシュカは思わずバージルの外套を力強く握った。その力が令嬢のそれではなかったせいか、バージルは慌てて足を止める。
「大丈夫? ……もしかして、“魔女”様の元へ行くのが怖くなったのかい?」
エリシュカは慌てて首を振る。
「それは絶対にないわ! ……その、貴方との未来のためにも、“魔女”様にお会いしないといけないのだから」
その返答に満足したのか、バージルは碧眼をすっと眇める。
エリシュカはその目の形を貴族時代の頃から知っている。美しい令嬢達がよくあの目をしていた。
凡庸な容姿のエリシュカを不細工だと笑い、口を噤めばいかにエリシュカが怯懦で愚鈍かを論う──薄暗い優越感を満たした時の目だ。
「“魔女”様の家はもう君の目の前にあるんだ」
エリシュカは目を見開き、ゆっくりと前方を見る。
廃墟と言えど、一目見れば分かった。それは打ち捨てられた教会だ。だが、掲げられた十字架が逆さまであることや、柱の形が建築様式から大きく外れており、竜の意匠が掘り込まれたものであることから、随分と冒涜的な建物であったことが窺える。
あるいは──見捨てられたからこそ、神に反旗を翻したのか。
その場に相応しくない笑い声がエリシュカにのみ聞こえた。
──本当に、人間共は神の慈悲に感謝すべきだと思うぜ。私は、今この瞬間ですら、此処ら一帯を呪われた不毛の地に変えたくて堪らねェくらいだ。
その言葉に、エリシュカは肝を冷やした。
──アレス様。お怒りはご尤もです。けれど、今は何卒怒りをお鎮めください。
アレスは普段から口の悪い神の“御使い”だが、今の言葉には迅雷の様な烈しさがあり、実体なき声の芯を焦がしている。さらに悪いことに、アレスは実際に近辺を滅ぼし得る力を持っている。だからこそ、余計に始末に負えないのだ。
「──いらっしゃいますか。貴女の下僕が参りました」
バージルはよく通る声でそう言うと、すっかり黒ずんだ扉を開ける。そのせいで、エリシュカは心の準備を整える暇すらない。
背徳の社へと誘う扉は、存外軽い音と共に開いて二人を出迎える。その瞬間噎せ返るような薬草の匂いが波濤の様に押し寄せ、エリシュカはぐっと息を詰まらせた。
先ずエリシュカの目が教会には相応しくない大きなかまどを捕らえた。小さな子ども一人を飲み込むほどの大釜が、祭壇があるはずの内陣で黒く光る。
また、拝廊から側廊へ至るまで、側壁には古い薬草棚が隙間なく何架も並べられており、背徳の主──“魔女”は開き戸に手を掛けたまま固まっていた。
「あらまぁ、こんな時間にお客様がいらっしゃるなんて初めてねぇ」
意外にも“魔女”の声はおっとりとしていて、心なしか弾んでいた。ころころと可憐に転がる小さな鈴のようだ。
「こんにちは、お嬢さん。よく此処まで来てくださいましたわねぇ」
「は、はい。どうも……」
エリシュカは一瞬女の雰囲気に絆されかけたものの、女が手にしようとしていた品を見つけて愕然とした。
ひび割れた硝子の嵌め込まれた開き戸の向こうに見えるのは、何とも知れない動物の死骸──いや、体表が真っ黒になるまで乾燥させた干物だ。これが堕胎薬の材料であることは、最早疑いようがない。
「坊や──」
女がバージルを呼ぶ。その瞬間、一見和やかに見えた空気が切り替わり、煮立つ水のように沸々と女から怒りが立ち昇った。その熱量を見事に隠しきった静かな声が、却ってエリシュカの動悸を誘発した。
「私に用があるのなら夜に来なさいと言ったのに……本当に仕方のない子ねぇ」
「申し訳ありません、ですが……」
エリシュカはバージルには皆まで言わせず、奥歯で恐怖を噛み砕いた。素早く留め具を外して外套を女に投げ付け、その視界を塞ぐ。
バージルは反応が遅い上に足に負傷を負っている。だが、エリシュカに容赦はない。バージルの膝裏に鋭い蹴りを入れて、体勢を崩す。哀れな男は踏ん張ることが出来ず、元貴族令息らしからぬ奇声と共に無様に床に転がった。
エリシュカは背後に隠しておいた短剣を右手で抜き放った。順手に構えたそれをまるで突剣のように突き出し“魔女”の心臓を狙う。
「死ねェ!」
アレスが吼える。既に二人の人格の交代は呼吸の合間に、至極容易く行えるようになっていた。




