第百十三話 未だ見ぬ女の仕合わせ
エリシュカの目前に、白い煉瓦を積み上げた矩形の廃墟が鎮座していた。かつての栄華は既に見る影もなく、半分蝶番の外れた扉の向こうで闇がエリシュカを誘うように笑っている。
エリシュカはすっかり古ぼけた彫金の扉をそっと押す。老婆の悲鳴のような音がして、瓦礫が散らばるロビーが姿を現す。中央に設えられた観覧券販売所は正しく廃材置き場と化していた。
──本当に、こんな所にバージルが潜伏しているのかしら。
エリシュカは胸元を押さえると、指先に魔除けの硬い感触が返って来た。
【魔眼】を操る吸血鬼との戦いに備え、協会から配布されたものだ。それとは別に、ロイから贈られた黒い天眼石の魔除けも下げている。
ロイには上手くやると見栄を張ったが、エリシュカは不安で今にも胸が押し潰れそうな心地である。彼にまつわる物に縋って、漸く一人で立つことが出来るという有様だ。余りにも情けない話である。
──バージルに接触し、“魔女”の所に案内させる。“魔女”に接触したら、すぐにアレス様と交代して、アレス様の力で【魔眼】を封じる。……大丈夫……上手くやる。
頭の中で何度も手筈をなぞり、エリシュカは一歩踏み出す。朽ちかけた木製の端材が編上靴の爪先に当たってからからと軽い音を立てて転がっていく。小気味よい音が伽藍洞の空間に虚ろに響いた。
「──動くな!」
エリシュカはびくりと肩を震わせる。声は男のものだ。敢えて先入観を捨てずに記憶を探ると、それはバージル・スターンの声そのものに聞こえた。
逸る心臓を宥めながらエリシュカが顔を上げると、小劇場らしき扉から外套姿の男が顔を覗かせている。男はフードを被っているため顔貌は確認しようがない。尤も、相手も条件は同じだ。
「何だ、貴様は。言っておくが此処の軒先を貴様に貸す義理はない。さっさと失せろ、野良犬風情が!」
同じく廃屋を不法に占拠している分際で何たる言い草かとエリシュカは呆れ返った。貴族の傲慢さは白い襯衣に染み付いた血よりもしぶといようだ。
しかし、エリシュカはまるで外套の男が救世主かのように恭しく膝を屈し、両手を握り締める。
「……こ、此方に“魔女”様の居処をご存知の方がいると伺いました。寛大なるお心でこの野良犬を哀れに思し召しすなら……どうぞ“魔女”様にお取次ぎをお願い致します……」
女か、と外套の男は呟く。その声色には安堵の顔を借りた侮りがいやらしく貼り付けられていた。
気が大きくなったのか、外套の男は漸く扉の向こうから全身を現す。男は左手に粗末な杖を持っており、不格好に足を引きずりながらエリシュカに近付いてきた。
──確か……ロイはフィリカさんを襲った犯人は怪我を負っていたと言っていたわ。
エリシュカはいつ外套の裡から血に染まった短刀が出てくるかと、気が気ではない。
しかし、少なくとも、相手にはすぐにエリシュカを今すぐに殺そうという気はないようだ。手を伸ばせば短刀が腹を掠める──そんな絶妙な距離感で外套の男は立ち止まった。
「野良犬にしては随分とお育ちがいいようだ。まるで貴族の屈膝礼じゃないか」
「……身分については明かせません。どうぞ、詮索はご寛恕くださいませ」
外套の男は腹を抱え、狂ったように笑う。
エリシュカは、揺れる布の向こう側で煌めく金色を見た気がした。
「これはこれは。“魔女”様の慈悲を求めて、世間知らずのご令嬢がこの様な場所まで。さぞご苦労なさったことでしょう」
「……どうか、それ以上は。これ以上、誰かに迷惑をかけるわけには──」
エリシュカの言葉を遮り、外套の男は声を低く抑えて囁くように問う。
「一体、此処を突き止める為にいかほど費やしたのです?」
「……父が私費を投じたので、私は何も──」
くつり、と外套の男は喉をねっとりと鳴らした。
「なるほど、何処にも出回ってもいない情報のために、無駄金を使ったのか。ご苦労なことだ」
エリシュカは肩を震わせ、一歩後退る。
外套の男は杖先を振り上げ、エリシュカの喉元にぴたりと当てた。動くな、と、喉から絞り出すように吐き出された脅迫には、既に一片の甘さもない。
「官憲……じゃないな。ならば、吸血鬼狩り《ヴァンパイアハンター》か? こんな所までやってきてしつこいったらない。さぁ──薄汚い面を見せろ!」
外套の男はエリシュカの顔を覆うフードに引っ掛け、その白い顔を強引に白日の下に晒す。
焦茶色の髪がはらりと舞う。その向こう側で、星屑を讃えた瞳が悲しげに潤んだ。
「え、エリシュカ……?!」
外套の男──もといバージルは杖を取り落とす程に動揺した。その拍子に布の端が捲れて、一瞬だけ混乱を来した碧眼が零れる。
瞳が──合ってしまった。ロイの言った通り、妊婦を次々と襲った悪辣な殺人鬼は──バージルであったのだ。
──やっぱり、貴方だったのね。
エリシュカはそっと長い睫毛の影を落とす。バージルは無数にいたかつての知人でしかない。だが、その手が既に血染めであったと知らされた失望は深夜の闇よりも尚深い。
「あっ……」
エリシュカは絶望に引き裂かれたように苦悶の表情を浮かべる。膝から床に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「バージル……見ないで、お願い、見ないで……! 貴方には、貴方にだけは、私だと知られたくなかったのに……!」
「……え?」
バージルは虚を突かれたかのように動きを止め、それからエリシュカの傍にそっと跪く。屈んだ瞬間激痛が走っても不思議ではないというのに、バージルの血走った目はエリシュカに真っ直ぐ注がれている。
「仕事で……私を捕らえに来たんじゃないのか?」
「……違うわ! 仕事なら、私一人で動くわけないでしょう?」
エリシュカは、外套の留め具を外す。外套の下は戎衣姿ではなく、町民として溶け込むための木綿の襯衣と茶色のロングスカートだ。
イリーナの勧めでその胸元は必要以上に露出しているのが余りにも情けないが、我慢だとエリシュカは自分に言い聞かせる。
「もう、貴方しか頼れる人がいないの……お願い、助けて……!」
エリシュカは努めて錯乱している様に見えるように声を上擦らせ、バージルの身体に縋り付く。その背に負った短剣と剣帯が見えないように計算され尽くした、繊細かつ靭やかな動きだった。
「私……私……! あの男との子を堕ろしたいの……! 」
バージルが息を呑む。フードを外し、エリシュカの下腹部にじっとりと暗い視線を向ける。
「……子ども?」
昨日知ったの、とエリシュカは震える声で答える。
「あの男にも……話したのか? 妊娠したって?」
「勿論、話したわ! ……でも……堕ろさないと相棒も恋人関係も解消するって言われて……」
バージルは顔を上げ、周囲を見渡す。しかし、どれ程時が流れても傲慢な騎士が現れないのを見て、陰鬱な笑みを浮かべた。
その表情を盗み見て、エリシュカは上がりそうになる口角を引き締める。
──少なくとも、門前払いだけは避けられそうね。
バージルは既にエリシュカと二度の接触を試み、二度とも阻まれている。まだエリシュカに対する情が消え去っていないのならば、この好機を逃すはずがないとエリシュカは睨んだのだ。果たして──バージルはその見通し通りに踊ってくれている。
それでも、バージルとてエリシュカの言葉を全面的に呑んだわけではないだろう。後一押しと思いを巡らせ──エリシュカは腹に手を添え、我ながら怖気の走る台詞を口走った。
「お願い、バージル……元の綺麗な身体に戻ったら……貴方が……女の幸せが欲しいの……」
エリシュカは吐き気を催しながらも何とか最後まで言い切る。
貴族としての情操教育を受けたバージル相手だからこそ吐ける台詞だ。少なくとも、エリシュカが従順に見える内は、女の意に沿わぬ蛮行には及ぶまい。
エリシュカが恐る恐るバージルの様子を窺うと、頬を染め無様に小鼻をひくつかせていた。──その有様は余りにも醜悪で、エリシュカはこの場から逃げ出したい気持ちを何とか押し殺す。
「あぁ……君の気持ちはよく分かったよ、エリシュカ」
その声は酷く掠れていた。
「大丈夫。私が必ず君を“魔女”様の元にお連れする。君には危害なんて加えさせないから……」
バージルの胸元に顔を埋め、エリシュカはほっと胸を撫で下ろす。
だが、それは一時の安堵だ。ロイが帰ってきたら──彼は策のためとは言え気軽に貞操を切り売りした自分を、きっと厳しく叱るだろうから──
──私も、人の事は言えないわね。
それでも、あの優しい男はエリシュカを見捨てはしまい。その確信だけが、孤軍奮闘のエリシュカを支えていた。




