第百十ニ話 不幸の導き手
ザガ=テルメール壊滅の凶報が齎されてから、三日が経過していた。各新聞社は俄に狂乱し、連日悲劇的な見出しが紙面を飾っている。
最早、世間の注目はザガ=テルメールを滅ぼした災厄が独占していた。尤も、貴族にとって保養地壊滅は対岸の火事ではないが、平民にとって貴族に降りかかった不幸は娯楽に等しい。地方都市の惨状に同情する声は多かったが、傲慢な貴族の末路を揶揄する声もまた、少なくはなかった。
こういった事情もあり、連続妊婦殺人事件は早々に世間の記憶から薄れゆこうとしていた。バージルがフィリカを殺害し損ねて以降、新たな犠牲者が出ていないことと、犠牲者の大半が貧民窟の住人であったことも要因の一つであろう。
畢竟、人は自分と立場を同じくする者に対してしか同情と共感を発揮出来ない生き物なのである。
その証拠に、昼間から外套を目深に被り、貧民窟に向かう女の事など殆ど誰も気に留めない。
素性を明かせぬ厄介者に関わる旨味などない、ということだろう。
怪しい女──もとい、エリシュカは焦茶色の瞳を素早く動かして周囲の状況を確認する。病を得ているのか、地面に伏せて動かない子どもが一人、物陰に潜んで様子を窺う者が三人、後は他者を気にする余裕すらなく、塵芥を漁る者がほとんどだった。
──奥へ行くほど酷いわ。
ガストン通りから更に二区画先の奥まったこの場所には、最早通りの名を示す標識すら無い。地図上ではマグワイア通りとなっていたはずだが、住民達の中には衒いもなく塵芥通りと呼ぶ者すらいる。
この場所に──逃走犯バージル・スターンが潜んでいると判明したのはつい今朝の事だ。
──うまく接触出来ればいいのだけれど。
エリシュカは余り気乗りしない顔で溜め息を吐く。思い返すのは今朝の会議のことである。
■□■
エリシュカを始め、新たな相棒達が作戦室に集結していた。
白い部屋だった。資料室とは違い、白い円卓と簡素な丸椅子しかない。席次などはなく、エリシュカ以外の狩人たちは思い思いに着席した。そして、前方に掲げられた木栓板に注目する。
壁の上半分を覆い隠すほど巨大な木栓板には、報告書や犠牲者の写真が所狭しと鋲で貼り付けられている。
尚、唯一生き残った犠牲者の名と写真はそこにはない。名前、年齢、その他あらゆる個人情報の秘匿──それがフィリカが官憲と吸血鬼狩りの協会の聴取に応じる条件であった。
写真や書類には赤い糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされており、見るからにごちゃごちゃとしていた。証拠や人物の相関性を可視化するためのものらしいが、残念ながらエリシュカはその恩恵に預かったことがない。
『今朝、官憲から連続妊婦殺人事件の犯人──バージル・スターンの潜伏場所を突き止めたと連絡がありました』
エリシュカは木栓板に貼り付けられた地図に印を書き込む。マグワイア通りと掠れた文字で書かれた場所には、かつて盛況したであろう小さな劇場跡が存在した。
『先日、漸く事件の被害者が保護されたらしくて、色々と話を聞くことが出来たの。バージルはどうやら、“魔女”の仲介人をしていたらしいわ』
『“魔女”の……仲介人?』
フローリアンが首を傾げる。
『“魔女”の家そのものじゃなくて、まずは仲介人の噂を流すんですって。そして、その噂を頼りにやってきた人を魔女の元に連れて行くらしいの。仲介料は薬と同じくらい高額らしいわ。貧民窟の人たちでは到底払えないような額らしいの。きっと、相手を見て報酬額を増減させてるんじゃないかしら』
女性であるイリーナとソフィアがあからさまに眉を顰めた。
『えっと、“魔女”が吸血鬼らしいって情報は? 確かなの?』
イリーナの疑問にエリシュカは力強く頷く。
『ロイから聞いた情報だから間違いないと思ってちょうだい。バージルは女吸血鬼を“魔女”と呼んでいたそうよ』
ソフィアが口元に手を添え、考え込む素振りを見せる。
『それで、“魔女”の行方は分かったんですか? 私たちの本命は此方ですよね?』
残念ながら、とエリシュカは首を振った。
『まだよ。……そこで、提案が一つあって。私は妊婦としてバージルに接触しようと思うの』
どよめきが作戦室の空気をひっくり返した。びりびりと肌を刺す緊張感に怒りにも似た冷たさが加わり、エリシュカは肌が粟立つのを感じていた。
『……正気か? バージル・スターンは妊婦を狙った殺人犯なのだろう? お前の身が危険に晒されるぞ』
『危険は承知の上よ。でも後手に回っていては“魔女”に手が届かない。バージルは今、“魔女”の仲介もせずに潜伏しているみたいだし……』
それに、とエリシュカは努めて明るい声で続けた。
『バージルと“魔女”を一網打尽にするために、接触は昼間に行う予定よ。官憲と皆で私たちを追跡して欲しいの。官憲がバージルを確保したら、私たちはそのまま“魔女”を討伐しましょう』
アイザックは心底つまらなさそうに机に肘をつき、盛大に溜め息を吐く。強者と戦いたい彼にとっては昼間能力の低下している吸血鬼と対峙するのは苦行に近い事かもしれない。
『ご期待に添えなくてごめんなさい、アイザック。でも、【魔眼】を持っている吸血鬼を昼間に討てるならそれに越したことはないわ。昼間なら、【魔眼】の力は使えないはずだから。官憲達への危険も少なくなるはずなの。……皆もそれでいい?』
アイザック以外の全員が頷く。彼は険しい顔のまま吸血鬼化した胎児の報告書を見つめていた。
『昼間に討伐するというのは理解した。が、万が一の事態に備え“魔女”とやらの【魔眼】の能力について聞きたい。胎児を吸血鬼に変えてしまうだけではないな? ……あのロイが敢え無く敗れたのだから』
エリシュカは厳しい表情でアイザックを見据える。
『どこで、それを……?』
アイザックは皮肉な笑みを浮かべ肩を竦めた。
『何、ただの噂だ。怪物は重大な失態を犯したせいで、麗しい“使徒”と共闘する機会を奪われ、挙げ句死地に送られたのだ──とな』
『そんな、違──!』
アイザックは右手を軽く上げて、エリシュカを押し留める。
『言っただろう。根も葉もない噂だ。しかし──その反応を見るに、単なるやっかみによる流言というわけではないようだな』
その場にいた全員の視線がエリシュカを射抜いた。エリシュカは自身の迂闊さに歯噛みするものの、ロイの矜持と仲間の身の安全を秤にかけてまで、【魔眼】の脅威を隠し立てするつもりはない。
『“魔女”の【魔眼】の能力は多岐に渡るみたい。ロイは銃弾の軌道が変わったせいで官憲が亡くなったとも、幻覚に呑まれて何も出来なかったとも言っていたわ』
有り得ない、とフローリアンは言い切る。いかなる時も余裕に溢れた柔らかな顔に浮かぶのは焦燥である。
『普通、【魔眼】の力は一種類しか持てない。二つ以上持っているとすれば、そいつは伝説級の怪物だよ。……俺達五人じゃ到底太刀打ち出来ない』
『そんな……』
イリーナが戦慄し、生唾を飲む。これまで死を意識したことは一度や二度のことではないだろう。その彼女をしても、死の恐怖は余りにも鮮烈であった。
ソフィアは隣に座るイリーナの手をそっと握る。たったそれだけのこと。だが、その瞬間イリーナの顔に刷かれた恐怖の色が僅かに薄れた。
『落ち着いて、姉さん。それぞれ独立した能力だと考えるから恐ろしいと思えるんです。これらは、これはきっと同じ系統の力に違いありません』
『ちょっと待って。銃弾の軌道を曲げたり、人を吸血鬼に変えたり、幻覚を見せたり……とてもじゃないけど、同じ系統の力には見えないわ』
エリシュカは半信半疑でソフィアを見つめる。彼女を疑うわけではないが、怪物が神の如き力を手に入れたのならば、“使徒”であるエリシュカですら太刀打ち出来ない。
『そうですか? 一つだけはっきりしていますよ。【魔眼】の影響下に置かれた者達は皆、恐ろしい不幸に見舞われているでしょう?』
『……そうか、不幸の【魔眼】か!』
アイザックが叫んだ。その瞬間、フローリアンとイリーナは表情を曇らせる。蛇蝎の如くもかくやという表情に、エリシュカは不安そうに瞬く。
『どうしたの?』
アイザックは渋い顔で机の天板を指先で叩いた。かつかつと硬質な音は些か律動が早い。
『不幸を齎す【魔眼】はかなり厄介な代物なんだ。……例えば、ヴィタリーの狙撃の腕前はほぼ百発百中だが、不幸を齎す【魔眼】に影響されるとどうなると思う?』
『もしかして、今回みたいに軌道が変わるの?』
分からない、と答えたのはフローリアンである。
『照準が外れるかもしれないし、引き金が壊れて攻撃手段を失うかもしれない。最悪、銃弾が射手のヴィタリーを射殺することもある。不幸の度合いが使い手の力や匙加減で決まる──それが不幸の【魔眼】の恐ろしさだよ』
沈黙が無機質な部屋に落ちる。
それでも誰一人として逃げようと言い出さなかったのは、“使徒”という切り札がいるからだ。
それが分かっているからこそ、エリシュカはただ唇を引き締めるだけに留めた。




