第百十一話 揺れる風花(アネモネ)
初夏の気配纏う風が協会のエントランスにそっと吹き込んだ。受付机に飾られた遅咲きの風花が微笑むように揺れていた。
八重咲きの花弁は、薄明の空を飲み干したような美しい紫色に染め抜かれている。身を寄せ合う切花はドレスの裾を翻す様にもう一度ひらりと揺れたが、控えめな青葉の香りに気付く者はなく、凍り付く様な協会の雰囲気を溶かす事は出来なかった。
エントランスには大きな人垣が出来ていた。エリシュカがざっと見渡しただけでも五十名は超えている。病床にある者、帰還が叶わなかった者を除いて全員だ。そこに戦闘員、非戦闘員の区別はない。
これだけの人数がロイとヴィタリーの見送りのために集まったのだ。普段の討伐任務であれば有り得ない光景である。
──まさか、ロイとヴィタリーさんに街を壊滅させた吸血鬼の討伐が命じられるなんて。
強敵にはこちらも強者をぶつける──という戦術は理解出来る。人類の未来を託す騎士にロイとヴィタリーが選ばれることも、実力を鑑みれば当然のことだ。
だが、それでも──一抹の不安が拭えないのは何故だろう。
──無事で帰ってきて欲しい。もうこれ以上誰にも犠牲になって欲しくないわ。
エリシュカは襲撃されたのが貴族の保養地だと既に聞き及んでいた。元々は貴族であったエリシュカも、当然利用したことがある。
エリシュカは胸の前で祈るように手を握り締め、彼の地の被害を案じるように北東へと顔を向ける。
かつて彼の地でお世話になった人達は犠牲になってはいないだろうか。優しくしてくれた住人達は大怪我を負っていないだろうか──今すぐにも駆け付けて様子を見に行くことすら出来ない我が身が歯痒く、申し訳なさが先立つ。
「エリシュカさん、大丈夫?」
背後から声を掛けられ、エリシュカは、はっとして振り返った。
そこにいたのはフローリアンとアイザックだ。フローリアンはいつも通りだが、アイザックは雑談を交わす同僚達を凄まじい目付きで睨み、竦み上がらせている。
此度の集まりは死闘へと向かうロイ達を奮起、激励するためのものだが、この場に関係のない雑談に興じる者が多いせいだろうか。
面倒見の良いヴィタリーはともかく、愛想のないロイは鼻摘み者だ。吸血鬼という身上も彼らと打ち解け合えない要因の一つだろう。
「大丈夫……って言いたい所だけど。ここに来てからいつもロイが隣にいて守ってくれていたから……離れるのが不安じゃないと言えば嘘になるかもしれないわ」
エリシュカの嘘のない言葉に、フローリアンは優しく微笑む。
「俺達はロイ程は強くはないけど、何かあれば頼って欲しい。力になるよ。ね、アイザック」
話を振られたアイザックは腕を組み、ふんと軽く鼻を鳴らす。
「……差し当たって、あの男から引き継いだ任務を片付けよう。その暁には、是非とも“使徒”と手合わせを──」
アイザックの言葉を遮る様に、わっと歓声が湧いた。死地へと向かう二人の狩人がエントランスに現れたのだ。
エリシュカは人垣の隙間から歓声の中心を覗き見る。狩人たちの大部分はヴィタリーを取り囲み、励ましを送っている。
「ごめん、ちょっと通して!」
「えっ?」
エリシュカの身体が脇へと押し出される。見れば、イリーナとソフィアが大の男達を押し退けながら人垣を押し通っていた。イリーナの怪力に太刀打ち出来ない男達は渋い顔である。
「ヴィタリーさん!」
美しい娘たちに駆け寄られて、ヴィタリーは嬉しそうに破顔する。
「イリーナ、ソフィア。よかった、むさ苦しい野郎共に囲まれて辟易してたんだ」
揶揄された男達が「何を」と怒るが、何も本気ではない。肘で腕を強く突くのも、彼らにとってはじゃれあいの範囲内だ。
笑うヴィタリーに対して、双子たちはそれぞれに別れを惜しむ。ソフィアは冷静に頭を垂れるが、イリーナは泣きそうに顔を歪めた。
「……ご武運を。どうか無事な姿をお見せくださいね」
「お姉ちゃんみたいに、いなくなっちゃだめだよ……!」
「あぁ……分かってるよ。俺はまた此処に戻ってくるからな」
ヴィタリーがイリーナの肩に軽く手を置く。イリーナが我慢出来ずにヴィタリーに泣き付くのが妙に胸に迫った。
「お姉ちゃんって……?」
エリシュカは答えを期待してフローリアンとアイザックを見る。答えたのはアイザックだった。
「……アレクサンドラのことだろう。あの双子の従姉妹で……ヴィタリーの恋人だった」
「……ヴィタリーさんから聞いてなかった?」
「……全然。だって、誰も……そんなこと、ひと言も……」
彼らには心に落ちた影を振り翳す素振りさえ無かった。打ち明けてくれなかった寂寥感よりも、常に笑みを絶やさず周囲を和ませる彼らへの愛おしさが僅かに優った。
「ほら、君も」
「……え?」
「愛しい騎士様の出立だよ?」
フローリアンに背中を押されてエリシュカは一歩前に出る。それを合図に人垣が割れてロイへと繋がる道になった。
──だから、ロイとはそういう関係じゃないんだってば!
狩人達の視線を恣にして、エリシュカの胸中は穏やかではない。
そもそも、ロイはエリシュカに異様な執着を見せるバージルの盾になるために修羅場を演じただけだ。
バージルは連続妊婦殺人事件の犯人で、もう二度とこの場所に現れることはないだろう。ならば、恋人のふりをする必要などなく、今この場で真実をぶち撒けるか、もう別れたとでも言えばいい。これ以上皆を騙す必要はない。
しかし、エリシュカは自らの意思で口を噤んだ。
「ロイ……」
エリシュカは恐る恐るといった体でロイの前に進み出て、握り拳を軽く彼に突き出す。
「こっちは任せて思う存分暴れていらっしゃい。大丈夫よ、私はフローリアンたちとうまくやるから」
そこかしこから色気がないと野次が飛んだが、エリシュカは表情を変えず、聞こえない振りをする。
ロイが、珍しく笑った。どこか小馬鹿にしたような皮肉たっぷりの笑みではあったが。
「……は、浮気者め。俺の戦い方しか知らないくせに、他の連中と足並みを揃えられるのか?」
エリシュカの口角がひくひくと戦慄く。相棒を解消したり、新たな相棒と組むのは協会ではよくあることだ。それなのに、この言いぐさは随分と嫌味だった。
しかし、考えようによっては、エリシュカと離れることに思うところがなければ出てこない台詞でもある。その点については、エリシュカの溜飲も下がるというものだ。
「……だが、漸く手の掛かる教え子が独り立ち出来たと思うと感慨深いものがある。……そちらも気を付けろ」
そう言ってロイはエリシュカと拳を打ち合わせる。男同士のじゃれあいとは違う、優しい触れ合いだった。
エリシュカは拳を収め、ヴィタリーに向き直る。この間もイリーナとソフィアの興味深そうな視線がエリシュカの肌に痛いほど突き刺さっている。
「ヴィタリーさんも気を付けてね。もう大きな怪我なんかしないで」
「……俺はついでかよ。ま、行ってくる」
こうして、二人の狩人は和気あいあいとした雰囲気の中去って行った。エリシュカはその逞しい背中が白い陽射しに溶けていくのを目を細めて見送った。彼らは必ず帰ると信じて──
しかし、エリシュカはこの別れを一生後悔することになる──




